第1話 無能と呼ばれた令嬢
「――侯爵令嬢エリナ・グランフィール。お前との婚約を、ここに破棄する!」
シャンデリアの光が百の宝石みたいに砕けて、私の足元へ降ってくるように見えた。
学園の大広間。壁には冬薔薇のタペストリー、磨き上げられた床、香の甘さ。
楽団の弦が、王太子レオンハルトの声に呑まれて、ひゅう、と細い音を最後に沈黙する。
ざわめきは、まず扇子の影で微笑む数人から広がり、やがて渦になった。
誰かが「やっぱりね」と囁き、誰かが私の名を、飾り気のない皿のように軽く投げた。
私は、胸の前で両手を重ねて一礼し、息の置き場を探す。
「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
レオンハルト殿下の瞳に、ためらいはない。
金の髪が燭火を跳ね返し、彼は隣の令嬢の手を軽く取ってみせる。
「理由は明白だ。お前は――無能だ。
学問は並、舞踏も型通り、魔力も低い。王妃にふさわしい器量は、リディアにこそある」
伯爵令嬢リディア。学園の華。
真紅のドレスに刺繍された薔薇は、まるで彼女の微笑みの形そのものだった。
勝ち誇った色を、彼女は隠しもしない。
胸の奥に、鈍い音が一つ落ちる。
けれど、不思議と涙は来ない。
私は、私が積み重ねてきた朝と夜を知っている。
背筋に棒を入れて座ること、姿勢を崩さず刺繍を縫い進めること、剣の柄に生まれつきの小さな手を馴染ませること。
魔法はたしかに強くはない。けれど、火の扱い方も、水の音の聴き方も、私は私なりに習った。
「これまでのお心遣い、ありがとうございました、殿下」
私はドレスの裾を二指で持ち、礼を深くする。
「――どうか、末永くお幸せに」
空気が一拍、止まる。
反論も、悲鳴も、惨めな泣き声も、誰かは待っていたのだろう。
私がそれを渡さないと知ると、さざ波のようなざわめきが再び広がった。
退屈、理解できない、つまらない。
そんな気配が、床の磨き跡のように薄く残る。
いい。構わない。
私は、誰かの期待を埋めるために生きてきた。
今日、やっと、そこから外へ出る。
「エリナ様……!」
人混みを裂いてきたのは、幼なじみの侍女、ミアだった。
桃色の髪を低い位置で結い、慌てているのに礼儀を崩さないところが彼女らしい。
瞳は今にも泣きそうに潤んでいる。
「大丈夫よ、ミア」
私は小声で笑って見せる。自分に向けるための笑いだった。
「私は――自由になるのだから」
口に出すと、その言葉は思いのほか軽かった。
鎖がほどける音はしない。ただ、肩にかかっていた目に見えない布が、ふっと落ちる。
退場の礼を告げ、私は大広間を出た。
音楽は再開され、舞踏のリズムが背中へ遠くなっていく。
長い回廊を歩くたび、踵が床に小さく鳴り、その音が決意の確認みたいで可笑しい。
テラスの扉を押し開けると、夜気が頬を撫でた。
庭園には冬越しの白い花。月の光が、葉の縁を薄く縁取っている。
私は欄干に指を置き、深く息を吸った。香の甘さの影に、土の匂いがあった。
「……エリナ様、本当に、あんな場で……」
ミアがぽつりと呟く。
「お叱りはあとでまとめて受けるわ」
私は笑って肩を竦める。「今は、歩き方を決めただけ」
ミアは唇を噛む。
「グランフィール侯爵家は……」
「父は、王家の判断に従うでしょう。母は体面を保つでしょう。
どちらも、私のために戦う性質ではないもの」
言って、胸の痛みが少しだけ動いた。
それでも、私は自分の足で立っている。
欄干の向こう、黒い土の先に、小さな芽が二つ並んでいた。
誰の世話も受けずに、夜の冷たさの中で体を起こしている。
指先を近づけると、芽はそっと震えた気がした。
勘違いかもしれない。けれど、その震えは「行け」と言った。
――私には、ほんの少しだけ、世界のささやきが聴こえる。
幼いころから、草の伸びる方向や、水の流れの強弱が、言葉にならない形で伝わってくる時があった。
家ではそれを「奇妙」と言われ、学園では「役に立たない」と笑われた。
だから私は黙っていた。黙って、枯れそうな鉢を日陰から出したり、濡れた靴を風の通る場所へ移したり、誰にも気づかれない小さな仕事をした。
「ミア。明日、荷をまとめて王都を出るわ」
自分の声が、夜気に溶けていく。
「森の外れに、空き小屋があると聞いた。古い地図でね。まずはそこを整える」
「そんな急に……護衛もなく?」
「要らないわ。私の足は私のもの。危険は知恵と準備で薄められる」
ミアはしばし黙り、やがて小さく頷いた。
「では、せめて旅装の準備を。保存食と、火打ち石と、針と糸と……」
「ありがとう」
言いながら、私はポケットの内側に指を滑らせる。
そこには小さな羊皮紙。
学園の裏庭で、古地図の端が風にめくられた日に、偶然写し取ったもの。
森と川が交わる白い空白。地図師が面倒で塗りつぶさなかった場所。
誰も行きたがらない空白は、私のための行間に見えた。
扉の向こうから、舞踏曲が一段と明るく響いた。
王太子と新しい婚約者は、きっと見目見事に踊っている。
未来の王妃は、軽やかに回転し、拍手は降るだろう。
それでいい。
私には、別の拍手がある。土の音、湯の立つ音、朝の鳥の囀り。
それらを、私は褒め言葉として受けとるつもりだった。
「怖くないのですか」
ミアの声は夜の端に細く揺れた。
「怖いわ」
私は正直に答える。「でも、怖さと一緒に歩ける。今はそれが嬉しい」
テラスを離れる前に、私は最後に振り返る。
大広間の灯りは、私の影を長く地面へ落とす。
影は、私より先に歩きたがっている。
なら、追いかければいい。影の歩幅を、私の歩幅にする練習を、これから始める。
回廊を戻ると、侍従が私の名を呼び止めた。
「エリナ様。王太子殿下より、正式な破棄文書が後日届けられるとのことです」
「承知しました。受け取りの際は、家宛ではなく、私個人にお願いします」
侍従は目を瞬かせ、すぐに慇懃に頭を下げた。
私が「家の娘」ではなく「一人のエリナ」として書類を受け取ること。
それは、ほんの小さな一歩だけれど、私にとっては扉の蝶番を外す音に等しい。
控室に戻ると、鏡が私を映した。
涙の跡はない。頬の紅は少し褪せて、髪のピンが一本だけ緩んでいる。
私はそれを留め直し、深呼吸を一つ。
鏡の中の私が、ほんの僅かに口角を上げた。
「お疲れさま」
小さく礼を言って、灯りを落とす。
廊下の先、出口の扉は思っていたより軽かった。
外の空気は冷たく、夜空の月はやけに近い。
馬車に乗るかわりに、私はゆっくりと石畳を歩く。
踵が刻む拍子が、今日の終わりを数えていく。
一、二、三。
数え切る前に、私は足を止めた。
明日のはじまりは、きっと四からだ。
四と五と六。
数えるたびに、歩幅は少しずつ合っていく。
――自由になる。
言葉は寒さに白く滲んで消え、代わりに胸の奥に灯りを置いていった。
見えないけれど、たしかな灯り。
その明かりを頼りに、私は夜の王都を歩き出す。
次に戻る場所は、家でも宮廷でもない。
私が選ぶ、小さな森の小屋。
そこで始まる「記録」を、私は誰に見せるでもなく、丁寧に綴っていこうと思った。
私が私に向けて書く手紙のように。
そして、いつか誰かが風の匂いでそれを見つけたら、そのときは――そのときで、いい。
今はただ、扉の外の空白へ。
私の名前で、最初の一行を。