紗奈の影、揺れる日常
「名前を呼ぶ、その温かさ。」
人は誰かに名前を呼ばれるだけで、孤独の中に小さな光を見つけることがある。
けれど、その光に手を伸ばすことが怖いと感じる瞬間もある――。
第3話では、紗奈の「静かな孤独」と凌央の「過去の自分」との向き合いが描かれます。
名前を呼ばれたことで少しだけ揺れる紗奈の心、そして彼女の姿に自分を重ね、見て見ぬふりをしないと決めた凌央の静かな決意――。
2人の距離が、少しずつ、けれど確実に変わり始める第3話をお楽しみください。
屋上を吹き抜ける風は、どこか冷たかった。
それでも彼女は、柵にもたれたまま遠くを見つめていた。
――まるで、誰にも見つからないように、世界から切り離されることを願っているかのように。
昼休みの屋上は人気がなく、俺の足音だけがコンクリートの床に響いている。
その音に気づいたのか、彼女――紗奈が、ゆっくりと振り向いた。
「……何か用?」
小さな声。けれど、その目は俺を突き放すように冷ややかだった。
いや、違う。突き放しているんじゃない――守っているんだ、自分を。
「いや、ただ……寒くないのか?」
俺の言葉に、紗奈は小さく笑った。風に揺れる髪が彼女の顔を隠す。
「…気にしない。そうやってずっと乗り越えてきたから。」
小さく呟いたその声に、何か別の重さを感じた。
その笑顔は、どこか諦めの色を帯びていた。
胸の奥に、何かが引っかかる。
……あの日の自分と同じだ。
誰にも頼らず、ただ嵐が過ぎるのを待つ――そんな姿が、目の前に立っている。
「慣れてる、ね。」
俺は小さくつぶやくと、すぐに視線を逸らした。
でも、その時、決めた。
今度は黙って見ているわけにはいかない。
昼休みが終わるチャイムが、遠くから響いた。
紗奈は何も言わず、俺に背を向けて屋上の扉へと歩き出す。その後ろ姿を見ながら、俺は無意識に言葉を探していた。
「……紗奈、お前さ。」
足が止まり、ゆっくりと振り返る。
「何?」
たった一言。それだけなのに、心臓がわずかに跳ねた。
――紗奈、と名前を呼ばれたのは久しぶりだった。
その声は、少しだけ不器用で、それでもどこか自然な温かさがあった。名前を呼ばれること自体に慣れていなかった彼女の心の中で、何かが静かに揺らぐ。
(……なんだろう、これ。)
誰かに"名前"を呼ばれることが、こんなにも普通で、そしてこんなにも温かいことだったなんて。ずっと一人で過ごしてきた時間が、彼の言葉一つでひび割れるような気がした。
隣の席になった彼――凌央。
時折こちらを見てくる鋭い目も、今はただ真っ直ぐで、不思議と怖くはなかった。むしろ、その目の奥には、自分でもわからない何かが込められているように思えた。
(……どうしてだろう。)
胸の奥が、少しだけざわつく。
ずっと硬く閉ざしていた心の扉が、彼の言葉一つで少しだけ開いたような気がして、紗奈はわずかに戸惑った。
「……なんでもない。」
凌央の声が聞こえ、彼は視線を逸らす。
それを見ながら紗奈は、何も言わず再び扉に向かおうとする――が、足取りは先ほどよりも少しだけ軽くなっていることに、自分でも気づいていなかった。
名前を呼ばれたことの余韻が、胸の奥でじんわりと広がっている。
一方で、背中越しに彼の視線がまだこちらに向いている気がして、紗奈は思わず手元をぎゅっと握りしめる。
(……大丈夫。私は一人で平気だから。)
扉に手をかけた瞬間、わずかなため息が漏れた。
その音が、屋上の静寂に小さく吸い込まれていく。
――そんな彼女の姿を見ながら、俺は無意識に拳を握り締めていた。
強く、強く。
(聞くべきじゃない。)
心の中でそう繰り返しながらも、足が勝手に前へ進みそうになるのを必死で止める。
「何かあったのか?」なんて、安っぽい言葉で踏み込んでいい距離じゃない。
彼女が作り上げたその壁を壊すことが、必ずしも正しいとは限らない――そう、わかっている。
けれど、その背中から滲む孤独が、あの頃の自分と重なって見えた。
誰にも助けを求められず、ただ嵐が過ぎるのを待つしかなかった、あの日の俺と。
「大丈夫」だなんて言葉を、無理に笑顔で呟いていた自分を、誰かが救ってくれたら――そんなありもしない期待を抱いていたことを思い出す。
だからこそ、目の前の紗奈の姿が、どうしようもなく胸に引っかかる。
俺はまだ彼女の何も知らない。名前を呼んだだけの、ただのクラスメイトだ。
それでも。
(……放っておけるわけがないだろ。)
俺は静かに息を吐いて、視線を紗奈の背中から外した。
――今はまだ。今はただ、彼女のその壁を壊すのを急ぎたくない。
そう思いながらも、指先にはまだ力が残っていた。
午後の授業が始まると、俺たちのクラスはいつも通りのざわめきに戻った。
けれど、俺の視線は無意識に紗奈の方へと向かう。
彼女は静かにノートを取っているが、机の端には消し切れなかった「落書き」の跡がまだ残っていた。
「……地味」「暗い」――そんな言葉が薄っすらと残る。
それを見た瞬間、胸の中で何かが軋んだ。
「なあ、凌央。」
後ろの席のやつが軽い声で話しかけてくる。
「松原ってさ、何か訳ありっぽくね?」
「……あ?」
俺の声が、少し低くなったのを感じた。
「だってさー、転校してきたばかりなのに、なんか変だろ?暗いし、誰とも話さねえし。」
「だからなんだよ。」
鋭い口調に、そいつは黙り込んだ。
教室の喧騒が遠く聞こえる。紗奈は何も聞こえないかのように、ただ黙々とペンを走らせていた。
――自分を守るために、そうやって壁を作っているんだろう。
けれど、その壁の中で何を思っているのか――それはまだ、俺にはわからなかった。
帰り道の交差
放課後、俺は偶然にも校門で紗奈と顔を合わせた。
彼女は一人で歩いていたが、俺の姿を見ると立ち止まった。
「……何?」
「いや、同じ方向だったから。」
適当な言葉を返すと、彼女は一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、すぐに表情を戻す。
「……別に。」
淡々とした言葉の裏に、何かを隠そうとしているように見えた。
少しの沈黙の後、俺は意を決して言った。
「お前さ、今日の落書き……気にしねえのか?」
紗奈の足が止まる。
ゆっくりとこちらを向いた彼女は、静かに、けれどはっきりと答えた。
「気にしても、仕方ないから。」
その言葉は軽いようで、重かった。
まるで、自分を守るために何度も繰り返し言い聞かせている――そんなふうに聞こえたからだ。
「気にしなくていいわけねえだろ……。」
俺の口から、思わずこぼれた。
けれど紗奈は何も答えず、静かに視線を逸らした。その仕草が、俺の中にまたひとつ焦りを生んでいく。
――誰にも踏み込まれたくないって顔をしてる。
その顔には、硬く閉じられた扉の向こうで何かを必死に守っている姿が見えた。
わかっている。無理に踏み込むことが正しいとは限らない。俺自身、誰にも触れられたくなかった過去があるからだ。
それでも――。
風に揺れる紗奈の髪の隙間から覗いた横顔が、どこか寂しげで、俺の胸を鋭く刺した。
あの時の俺は、あの痛みは、今も忘れていない。誰も助けてくれなかった孤独。
――あんな思いを、誰にもさせたくない。
「……今度は黙って見過ごすわけにはいかない。」
小さく呟いたその言葉は、誰に向けたものだったのか。
紗奈には聞こえていなかっただろう。だが、自分自身に言い聞かせるように、もう一度心の中で繰り返した。
(俺が、今度は――守る。)
その瞬間、昼下がりの空に冷たい風が吹き抜け、俺と紗奈の間に、一枚の桜の花びらが舞い落ちた。
彼女は一度だけ立ち止まり、扉の向こうへ消えていった。
俺の胸には、静かな炎が灯り始めていた。
その瞬間、昼下がりの空に冷たい風が吹き抜け、俺と紗奈の間に、一枚の桜の花びらが舞い落ちた。
彼女は一度だけ立ち止まり、まるで何かを言いかけるように微かに唇を動かしたが、すぐに扉の向こうへと消えていく。
――あの小さな仕草が、何かの「助け」を求めていたように見えたのは、俺の気のせいだろうか。
(でも、俺は知っている。あいつは……一人で耐えている。)
俺の胸には、静かな炎が灯り始めていた。
その先に待っているものが何か――まだわからないけれど。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
第3話は「名前の重み」と「心の壁」をテーマに描きました。
誰かに名前を呼ばれることで、これまで一人で抱えてきたものが少しだけ軽くなる――そんな瞬間が紗奈にも訪れました。しかし、まだ彼女の心には硬い壁が残っています。
一方で凌央は、自分の過去と紗奈を重ね、何かを守るために「力」を使う決意を少しずつ固め始めました。
彼の優しさと決意が、これからどのように紗奈の心に触れていくのか――次回の展開にご期待ください!
次回はさらに、紗奈の過去やクラスメイトとの新たな波乱も描かれる予定です。
どうぞ引き続き、お付き合いください!