ファイルC.記念日
世の中には記念日というものがある。父の日しかり、防災の日しかり、ほぼ毎日が何かしらの記念日だ。この味がいいね、って言っただけでも記念日が増殖するので日々の言動には注意が必要になる。
記念日だからといって、必ずしも盛大に祝福しないといけない訳ではない。隔週で食中毒になった所為で一月二二日のカレーの日はあまり祝えない気がする。
けれども、祝うべき記念日というものも当然ながら存在する。
具体的に言うと結婚記念日。私達はまだ新婚。記念日到来までかなり先。前借りして祝って欲しい訳ではないのです。
「もうすぐだね」
「そうだね。七月四日は梨の日だからね」
「……いや、初耳だわ」
聞いた話によると、記念日に無頓着な男性は多いようだ。男性に言わせると女性が細かく記念日を創設し過ぎていると言うだろう。
「もうすぐだね」
「そうだね。七月十日は納豆の日だからね」
「……いや、初耳だわ」
愚かな男共め。お前等は水着ガチャのピックアップ期間は時刻まで知っている癖に、記念日程度を覚えられないというのか。……ぎゃー、私の推しキャラのエロい水着ガチャが始まっている。
特に夫婦間の個人的な記念日は、覚えていれば夫婦仲ポイント二倍、忘れていれば減点十倍とメリット、デメリットが表裏一体の日。大事な大事なアタックチャンス。そう、覚えていれば二倍だぞ。そこのところを目前の旦那は理解しているのかね。
「何か大事な事を忘れていない?」
「カレーの辛さには殺菌効果はないからね、ミキ」
「それはもう身に染みているから言わないでっ」
覚えているだろうな、旦那よ。
信じているが、能天気な部分もある旦那の表情を見ていると不安を覚えてしまうのだ。
七月六日はサラダ記念日……じゃない。甘酸っぱくもこっぱずかしい、私達夫婦の交際記念日なのだぞ。
「旦那が記念日を忘れていた事が原因で、私の三番目の姉が実家に出戻ったんだって」
「へー。僕はミキの誕生日も結婚日もしっかり覚えているから大丈夫」
……つ、使えねぇな。
仕方がない。旦那の失態で夫婦仲に氷河期が到来するのは私も本意ではない。来ると分かっている寒波なら、防寒着を揃えて対処するまでだ。
私の旦那は交際記念日を忘れて、プレゼントを用意し忘れていたのではない。
新妻のスキンシップが強過ぎて、プレゼントを渡す暇がなかった事にしてしまうのである。
朝、パチりと両目を開いて旦那より早く起床する。
旦那のスマートフォンの画面ロックをウィザード級ハッカーのごとく解除すると、手早く操作。目覚まし機能をオフにする。
「しまった! 寝過ごしたっ。目覚ましいつ止めたっけ?」
「えーまだ眠いー。あと五分―」
いつもより遅くに目を覚ます旦那の腕に蛇のように巻き付く。と、エデンの園でリンゴの甘さを宣伝するがごとく、私は甘えた声で布団の中に引きずる。
「いや、もう起きないと遅刻するからっ」
「まだ五分。おら、五分寝ろ」
朝の貴重な出勤前時間をギリギリまで削る作戦は成功した。
旦那の乱れた髪を手櫛で整えながら玄関の外に追い出す。
これで既成事実、寝坊の達成だ。私の旦那は交際記念日を祝福せずに出勤したのではなく、たまたま寝坊したために仕方なく出勤してしまったが成立する。これで私の心の海は穏やか。やきもきなく今日の大部分を過ごせる。いつもと同じ高水準の主婦業をこなせる。
「ピックアップ仕事しろッ」
煎餅食いながらスマフォゲームにのめり込んでいると、もう夕方だ。時間はいくらあっても足りないものです。
旦那が帰宅する前に夕飯を準備する。ただし、夕飯の肉じゃがの材料はあえて用意していない。スマフォのSNSを通じてその事を伝える。
“いっけなーい。肉じゃがのジャガイモを買い忘れちゃった。帰りに買ってきて”
“うん、分かった”
“ジャガイモはインカの目覚めしか認めないから大型スーパーに行ってきてね。ついでに、玉ねぎ、人参、糸こんにゃく、牛バラ肉をお願い”
“バラ?! バラ肉!”
“肉じゃがにはバラ肉でしょうに”
旦那の帰宅時間を遅らせる作戦だ。同時に、夕飯までの旦那との接触時間を削減できる。
しばらくの後、エプロン装備で玄関で旦那を待ち構える。
「び、びっくりした」
自分の家に帰ってきた癖に空き巣泥棒のようにドアを開く旦那。驚き表情の旦那を、有無を言わさずニッコリ笑顔で風呂場に誘導する。
「あなたはお風呂にします。ごはんはまだ。私は夕飯で忙しいので無理です」
「は、はい」
「風呂に肩までつかって三千と六百秒数えてから出てください、以上」
エコバッグをひったくり、必要最低限の指示だけを伝えて台所に引っ込む。
さて、ここまでは順調であるものの、問題はここからである。食事しながらの団欒だけは回避しようがない。
仕方がない。我が身を犠牲にするしかなかろう。
自室に戻った私はエプロンを脱いで綺麗に畳む。クローゼットの中に並ぶコンテナポットより三番を選択。そそくさと着替えを済ませる。少々以上に面倒な服なのだが、旦那の風呂上りまでには何としてでも間に合わせてやる。
「お風呂あがったよ。肉じゃがのいい匂いがす――うぉっ」
無事、旦那が風呂場から出てくるまでに間に合った。
お風呂上りで清潔度の上昇した旦那に、お盆の上に用意したミネラルウォーターを提供してやろうではないか。
「ご主人様。どうぞ、お飲みください。水道水……ミネラルウォーターです」
「メ、メイド服。ごくり」
いい感じに茹で上がっているな、旦那よ。お前の趣味嗜好などお見通しだ。このヒラヒラが好きなんだろ、オラ。私も好きだからお前も当然好きだよな。
風呂で血行促進され、好みの女が好みの服を着たコンボにより更に血流増加。お前の頭は茹で上がり正常判断不能なステータス異常状態だ。
「メ、メイドさん、ごくり」
「ご主人様。どうぞお召し上がりください。メイド特製の肉じゃがにございます」
「メ、メイドの肉じゃが、ごくり」
ぼうっと私の服と顔を比較しながら飯を食う旦那。箸からボロっとインカの目覚めが落ちていますよ。
これは今夜、ちょっと激しい事になりそうだ。気分は八岐大蛇の生贄となったメイド。我が家の大蛇は酒を飲んでも眠ってくれまい。まあ、私から誘惑した手前、付き合ってやろうというもの。
これで記念日を忘れたのではなく、嫁の誘惑により記念日を祝っていられなかったという体裁は最低限整えられただろう。残念ではあるが最低ではない。
――そう自分を納得させて、旦那に見えない方向で溜息だ。
メイド服を着て自分一人で勝手にはしゃいで、私って馬鹿だなぁ。
「コンビニに行ってくる」
旦那は夕飯をかっこみ、そそくさと外に向かう。はいはい、コンビニではなくてドラッグストアで箱買いですね。分かります。
……あれ、玄関の外でゴソゴトと何してんのやら。ドアホン越しに様子を伺っていると、隠すように置いてあった円錐を取り上げる旦那。
コンビニ帰りにしてはやけに早く戻ってきた旦那は、片膝立ちになって突き出す。
「記念日、だから!」
私の目の前には、とっても綺麗な六本のバラの花束だ。ついでに凡庸ながらもそれなりに好きな旦那の顔。
「えっ」
「バラだけでなく。ストアカードと、ついでに煎餅も買ってある」
「まぁっ」
私はつい、バラよりもストアカードと煎餅に喜んでしまった。
「ミキ、愛している」
「目ん玉取り出しそう」
はいはい。いまさら言われなくても知っていますよ、旦那さん。
記念日を性懲りもなく覚えていたのにしらばっくれていたのは許せないな。今日は寝かさないぞ。
本日はボーナスデイ。夫婦仲二倍のビックチャンスを旦那は見事掴んだのでした。めでたし。めでたし。
――まあ、翌日、順当に旦那は寝坊しましたとさ。