ファイルB.弁当遺棄
弁当箱ほどに悩ましいテトリスは存在しない。
たかだか横五センチ、縦十五センチの面積およそ七十五平方センチごときであるが、おかずを積み込むとなると太平洋くらいに広いのである。
前日の夕飯を詰め込む手口で面積の半分は減らせるかもしれないが、前日の夕飯がカレーだった場合には少々困る。カレーのルーをそのままべちゃり、と投入するのは弁当としてどうかと思うので実施できない。せいぜい、カレーと白米を混ぜて焼いてカレーチャーハンにする程度だ――なお、旦那はカレーチャーハンを見てドライカレーと言って喜ぶ妙な男だ。本当のドライカレーを知らないらしい。
米の話など、どうでもいい。チャーハンにする分、手間がかかる奴の話はするな。
冷凍食品ばかり使うのも、主婦の沽券にかかわる。コストの問題もある。
だからといって朝一から調理するのも大変なのだ。朝の十分は夜の三十分に相当する。朝六時から八時までの二時間が三倍ボーナスタイムだから、サラリーマンと同じく八時間労働するとすれば、昼にプラス二時間だけ働けばいい訳だな。
「はい、お弁当」
「いつもありがとう」
「全部しっかり食べてね」
「もちろん、空の弁当箱を洗っているのは僕だし」
弁当箱は洗い物としては二番目に憎らしい相手なのでいつも助かっています。一番目は箸入れ。
ただ、弁当箱と箸入れを洗ってくれる旦那に対して、私は懐疑的な目線を向けながら弁当箱を手渡している。
先週の事だ。
専業主婦をしている私であるが、昼は旦那と同じ弁当を食している。昼食を弁当箱で食べるのが好きだからという特にひねりのない動機ゆえの行動だ。なお、私の弁当箱も旦那が洗っている。
そのため、朝は旦那と私、二つ分の弁当を作っている訳だ。
わざわざ、別のおかずを用意したりしないので、入っている具材はすべて同一である。
「行ってこいのキスだ」
「ん、行ってきます」
実は二週間前、不幸にも弁当が原因の食中毒で私は寝込んでしまいまして。腸が緩く苦しむ私を、有給休暇を取った旦那が優しく介抱してくれる数日は、二度と経験したくない日々でありながら満ち足りていた訳ですよ。
……ただ、白湯を用意してくれる旦那の優しい顔を見て。ふと、私の頭に疑問が沸いたのだ。
あれ、おかしいな。どうしてこいつ、私のように食中毒で苦しんでいないのか。
もしかして、こいつ、私の弁当を食っていなかった疑惑がないか?
締まるドアの向こう側まで、疑惑の視線を向け続ける。信じられない事に、世の中には愛妻弁当を捨てる男が一定数存在するらしい。手作りの料理が食えないやら飽きたやら、そんな理由で捨てるらしいのだ。
私の旦那も最低男の一味と考えたくはない。が、同じ弁当を食べて旦那だけ食中毒にならなかった理由を私は説明できない。
「本当に私の弁当を食っているのか、確かめてやる」
という訳で、週初めとなる本日より調査を実施する。
調査のために、弁当にトラップをしかけてある。旦那の帰宅がいつも以上に楽しみだ。
「今日の弁当、ごはんの上に目玉焼きがそのまま乗っていたね」
「ハンバーグなしのロコモコ丼ね」
「タレ入れの中身、ソースではなくて醤油だったよ。目玉焼きはソースの方が好みかな」
「……ふむ、味は確かめていると」
月曜日の夜。
旦那は私のトラップを見事クリアした。が、まだ分からない。初めて作ったハンバーグなしロコモコ丼を警戒し、タレ入れだけペロリと舐めた可能性がある。
それとは別に、目玉焼きは醤油で食わせるように調教しなければ。
「今日の弁当、冷奴が入っていたけど、普通かな?」
「普通、普通。私がこの家のルール」
「そ、そうだね。冷奴はいいけど、タレ入れの中身がソースだったよ」
「ごめーん、間違えちゃった」
火曜日の夜。
月曜日の伏線をさっそく回収し、タレ入れトラップを仕掛けた。旦那は中身がソースだと気づいた。弁当を食べたと見なすべきか。
いや、タレだけ舐めるタイプの変人の可能性もまだある。次はもっと大胆なトラップをしかけようではないか。
「今日の焼き飯弁当、美味しかったよ」
「……チャーハン」
「ん?」
「あれはチャーハンっ!」
水曜日の夜。
旦那がついにトラップに引っかかった。何て事だ。チャーハンと焼き飯を間違えるなんてありえない。卵が先か、鶏が先か、そんな事も分からないなんて、きっと弁当を食べずにゴミ箱に捨てたんだ。
いやいや、こんな男でも結婚する程度には信頼がある。まだワンアウト。弁当を遺棄したと考えるのは早計である。
「唐揚げが三つも入っていたから、同期に自慢できた」
「…………ザンギ」
「んん?」
「あれはザンギっ!」
木曜日の夜。
また旦那がトラップに引っかかった。これでツーアウトだ。旦那の首が皮だけで繋がっている。〇グワーツにいる幽霊と同じく薩摩藩にチェストされかけている。
明日、金曜日が天王山になってしまった。
三日連続で弁当のおかずを間違えるようであれば、私は旦那を告発しなければならない。最悪の場合は離婚だ。私の実家の二人目の姉貴と同じ末路を私も歩むとはなんて悲劇か。
木曜日の夕飯は、運命的にも弁当遺棄の疑念の切っ掛けとなったカレーである。未出産の私が腹を痛める弁当の筆頭、カレーチャーハンの具材となった輩だ。週に二度もチャーハンなんて手抜きではないか、なんて言わない。
金曜日の朝。
三倍時給時間の六時半から七時にかけて私は弁当を作る。
結婚するまで弁当を作った経験のなかった私は、弁当が腐る事実を知らなかった。私の母はそんなヘマを一度も犯さなかったので仕方がないが、失敗から学ぶのが主婦というもの。同じ攻撃が二度も主婦に通じると思わない事ね。
炒めたカレーチャーハンを、すぐに弁当箱に詰めて蓋をしない。しっかりと冷ます。この手順の有無で、七十五平方センチの箱庭腐界が生まれるか否かに差が生じるのだ。大事なクールタイムである。
旦那は……テレビの朝占いに夢中だ。自分の星座がなかなか呼ばれずにアワアワしている。
トラップをしかける好機を逃がしはしない。冷えたチャーハンを弁当箱の下段に敷き詰める前に……旦那の好きなチャーシューを隠すように埋める。
弁当箱の中身をそのまま捨てる最低男は、埋蔵されたチャーシューに気付かないだろう。
私は、まだ旦那を信じている。
きっと、旦那ならば、チャーシューを発掘してくれるはずである。
金曜日の昼。
旦那は今頃、弁当の蓋を開いただろうか。緊張しながらも私は自分の弁当の蓋を開く。
「うーん、カレーチャーハン。どうしても味が薄いのよね。……まだルーは残っているから消費しちゃいましょう」
二日目のカレーは美味しい。これは世界の心理である。
昨日の夜からカレー鍋を常温で冷ましておいた。コンロの上には、銀色の鍋と黄金のルーが存在する。
弁当箱の下段だけを持ち運んで、カレー鍋よりルーを救って、だばー。温めてもいいけれども、弁当箱にかけるなら冷めたままの方がなんか好き。私がこの家のルール。この少々ズボラな食べ方も二度目なので慣れたものだ。二週間前もそうだった。
梅雨が始まって二週間。
窓の外では強く雨が降っている。まるで、私の心の中の不安を表しているかのような、強い雨とジメっとした湿気だ。