1 澤田のおじさん
はじめに
自分は2019年の夏頃から、ちゃんと小説を書き始めた人間です。それまでは終わらない作品や、散文や詩を書いてました。
2019年に書き始めた作品をやっと完結させることができて、友人に見せた後に、意を決して投稿サイトに載せたのが2019年の11月でした。
それから、作品の中で誕生した登場人物達は、私の中でゆったりと暮らしている気がします。
その人達のふとした瞬間を切り取ったのがこの短編集です。年を越すにあたって、一冊めを閉じて二冊めに入りました。
人生のふとした瞬間に込められたきらめき。
そうしたものが少しでも表せられたなら、嬉しいと思います。ありふれた言葉、しあわせに今日も立ち止まり、思い馳せてしまう作者より。
少しでもほっとした思いを届けられたら幸いです。
2021.01.03
汪海妹
1 澤田のおじさん
2021.1.3
とある街の緩やかな坂道を1人の男がてくてくと歩いてゆく。歳の頃は50代くらいだろうか。
坂の天辺まで辿り着き、とある一軒家のインターホンを鳴らす。
「はーい」
女の人の声がする。
「このはちゃん?澤田です」
「あ、澤田さん?開いてるから入って入って」
引き戸を開けると、そこから玄関まで日本式のちょっとした庭になっている。慣れた様子で男は玄関まで歩いてゆく。
「いらっしゃーい」
カラカラと玄関が男が手をかける前に横にひきあけられ、中学生くらいの女の子の顔がひょっこりとのぞく。男がぱっと破顔する。
「楓ちゃん、久しぶり」
「そんな久しぶりでもない気がするんだけど」
「僕にとっては久しぶりなんだけどなぁ」
「そんなことはいいから、さぁ、上がって」
上がりかまちにスリッパが並べられる。
今日の楓ちゃんは長い前髪と横髪を一部ねじりながら後ろで髪留めで一旦とめて、残りの髪を肩に垂らしている。休みの日、どこかに出かけるのでもないだろうにかわいらしいスカートを履いている。
「今日も一段と女の子らしいね」
「それはどうも」
スリッパを履いて奥へ行く。
「いらっしゃい」
居間に入ると、ソファーに座った和服姿の中年の女性と、ジーンズにTシャツを着てパーカーを羽織ったショートカットの女の子、それともう1人、そそとした若い女性がいた。すごい美人だ。
ちょっとキョトンとした。ストレートの黒髪がサラサラと肩から落ちた。上品なワンピースに身を包んだお嬢さん。
「今、蒼生さん呼んできますから、ちょっと掛けて待っててください。楓、澤田さんにお茶入れて」
「はーい」
和服姿の女性が部屋を出て行く。ちょっとぽかんとしながら、ボケッと突っ立っていると、梢ちゃんに言われた。
「おじちゃん、そんなとこ立ってないで座ったら」
「ああ」
ソファーに腰掛けた。
「初めまして」
美人が口を開いた。動いた。喋った。人形じゃなかった。
「おじちゃん、どうしたの?」
梢ちゃんが若干冷たい視線を送ってきている。
「梢ちゃん、今日も一段とかっこいいね」
「それはどうも」
この次女はかわいいというとキレる人なのである。
「もうおじちゃんったら、昔っから美人に弱いんだから」
くすくすと笑う声がする。振り向くと、お茶をお盆に載せた楓嬢が立っている。
「お茶、どうぞ」
きちんと茶托にのせられた緑茶と、丁寧に羊羹までついてきた。羊羹を見て思い出した。
「これ、お土産」
「え?なになに?」
「最近人気が出てきたお店のチーズケーキだよ」
「わー!うれしーい」
楓ちゃんが喜んでいるところに奥方が戻って来る。
「もう澤田さん、今更うちに来るのに手土産なんて結構ですっていつも言ってるのに」
「いや、これはこのはちゃんに買ってるんじゃないから」
奥方の顔が若干引き攣る。
「相変わらず口が悪いですね。澤田さん」
「ごめん。このはちゃんの顔見てるとつい」
奥方の後ろから主人が出てくる。主人も和服である。
「こいつの口が悪いのは今にはじまったことじゃないだろ」
「他の人にはどう言われてもいいが、お前にだけは言われたくないな」
***
「お母さん達は、大事なお話があるから、あなた達は自分のお部屋に行ってなさい」
「はーい」
母親に言われて2人は部屋をぱたぱたと出て行った。夫婦と男と御令嬢が残る。
「今日はわざわざ呼び出されてのこのこやって来たけれど、先客があったんだね」
「いや、暎に紹介したかったんだよ」
「中條千夏と申します」
澤田さんは御令嬢がペコリと頭を下げる様子をじっと見つめる。
「紹介ってなんで?」
奥さんならいますが……。
「あの、あれだ。千夏ちゃんに仕事を斡旋しろ。お前なら簡単だと思って呼んだんだ」
「……」
居間に集まった4人がしばらく黙って沈黙を楽しむ。奥方がやんわりと口を開く。
「蒼生さん、いくら蒼生さんと澤田さんが長い付き合いでツーカーの仲でも」
「うん」
「今の説明の仕方では何がなんだかわからないと思います」
「そうか」
「そうだ。小説家のくせに説明はしょりやがって」
一気に主人の機嫌が悪くなる。
「澤田さん、他愛もないことで先生と喧嘩するのはよしてください。また、澤田さんとこでは二度と書かないなんてなって大騒ぎになったら、周りの子達が苦労するんですから、蒼生さんも、ね」
「ふん」
澤田さんがまだ何か言いたそうにしている。慌てた奥方がポンと千夏ちゃんの横に座ってにこにこしながら、肩を抱く。
「ね。澤田さん。覚えてない?澤田さん、昔、千夏ちゃんに会ってるのよ」
「ええっ?」
寝耳に水である。さっぱり見覚えがない。
「嘘でしょ?こんな美人、会ったら絶対忘れないよ」
奥方と千夏ちゃんが顔を見合わせて笑ってる。
「本当に大昔の話なのよ。千夏ちゃんはわたしの学生の頃からの親友の娘さんで」
「うん」
「あ、ちょっと待ってて。いい物があった」
奥方は立ち上がった。主人は皆の横で黙って茶を飲んでいる。奥方はどこかから、古いアルバムを持ってきた。
「ほら」
澤田が覗き込む。それは結婚式の写真だった。和装の装いで中央に腰掛ける若き日の主人と奥方の周りを10人ほどの人達が囲んでいる。若き日の澤田もそこにいる。そして、小さな女の子が1人混じっている。
「ああっ!あの時の?」
「思い出した?」
「こんな大きくなっちゃったの?」
「時間が経つのは速いわよねぇ、本当に」
ピンクのドレスを着て難しい顔をして大人達の間に立っている女の子をもう一度見る。
「あれからどうしてたの?」
「この時は四日市にいたんですが、小学校の途中から父の仕事の関係で、香港に住んでたんです」
「うん」
「高校まで香港にいて、今はアメリカの大学にいます」
「アメリカ?じゃあ、英語ペラペラなの?」
「ええ、まぁ、一応」
「人となりは僕が保証するから、仕事を斡旋しろ」
主人が横から口出ししてくる。有無を言わさぬ口調である。
「昔っから千夏ちゃん、アニメが大好きなの。将来できたらアニメに携わる仕事がしたいって話してて、でも、折角英語ができるのに英語を使わないのももったいないねって話をこの前しててね」
奥方が横から補足説明を入れてくる。
「そんな仕事あるのかなぁって話してたら蒼生さんが澤田さんならなんか伝手があるんじゃないかって言うもんだから……」
「ああ」
やっと合点がいった。全く最近の蒼生は、奥さんの手伝いがないとどうしようもないな。
「すみません。ご足労おかけしてしまって」
御令嬢が頭を下げる。いい気分だ。こんな美人に頭下げられて頼られるなんて滅多にあることではない。
「千夏ちゃん、気にすることはない。こいつは呼んでもないのに普段からうちに入り浸って人の娘にちょっかいかけてるやつだから」
「ちょっかい……」
「千夏ちゃん、先生、時々変な言い方するから気にしないで」
奥方が訂正を入れている。
「アニメねぇ」
「すみません。出版の方にアニメなんて言っても、難しいですよね」
「いや。うちは映画やアニメ製作している部門もグループの中にはあるからね。すぐにどうとは言えないけど、なんとかなると思いますよ。連絡先を教えてもらえますか?」
千夏ちゃんの顔がぱっと輝いた。すると、黙っていた主人が口を開く。
「こいつはうちでは楓や梢にまるで召使いのように下に見られてるが、出版業界じゃ、編集として有名な男だし、あちこちとにかく顔が広い」
「はぁ」
「実はこれでなかなか偉いやつだから、大船にでも乗っているつもりで待っていればいい」
澤田さんが苦い顔をして主人を見る。
「蒼生、一応褒めてくれているんだろうけど、全然褒められている気がしないのはなぜだろう?」
男と男で見つめ合う。このはさんがすかさず口を挟む。
「さ、今日は澤田さんがいらっしゃるって言うから、いいお肉用意したんですよ。楓や梢も楽しみにしてたんですから、お夕飯召し上がっていってくださいね。すき焼きにしましたから。ね、千夏ちゃんも」
そう言ってぱちんと手を合わせた。
***
まだ賑わう食卓のざわめきを背景に玄関で靴を履いた千夏ちゃんが立ち上がって振り返ると、上がりかまちに並んで立っている夫妻を見上げる。
「先生、今日は本当にありがとうございました」
「大したことはしていませんよ」
火野先生はそう言って笑った。
「縁のつながりと言うものは生まれ持った財産のようなもんだから、誰にでもあるものじゃないけれど、ある人は目一杯使えばいい。澤田はね、面倒見のすごくいいやつだし、仲良くなって損のないやつだよ」
本人のいないところでは、わりかし火野先生も素直になるようで。横でこのはおばさんがにこにこしている。2人で着物を着て、笑っている様子が不思議と似ている。
「素敵ですね。ご夫婦で揃って和服姿」
「ああ」
先生が苦笑した。
「僕は本当は着たくないんだけどね」
「え?そうなんですか?」
「いかにも小説家っぽいのもやだし、動きにくいし。でも、交換条件だから」
「交換条件?」
「この人に着てもらう」
ふふふとこのはさんが横で笑ってる。
「僕は着物を着ている女の人の所作が好きなんです。洋服と違うから自然と動き方が違ってくるんです。日常的に見ていたくて。そしたら僕にも着ろと言うから」
「わたしはね。洋服着ている先生より、和服着ている先生のほうが好きなの」
「まぁ、毎日のように着て慣れてくると、そんなに不便でもないしね」
玄関先の柔らかな灯りのもとでもう一度2人同じような顔で笑った。火野先生は、このはおばさんと並んでいる時だけはよく笑う気がする。
「楓ちゃんや梢ちゃんには着せないんですか?」
「ああ、娘はねぇ。元旦とかそういう時は着てくれるけどね。娘と言っても、1人の独立した個人、あのくらいの年になると親の言うことなんて聞かないよ」
「梢なんて、スカートも嫌がってはかないのよ。髪はいつも短く切っちゃうし」
「小さい頃に女の子らしい格好をさせすぎた反動かなぁ」
「楓はまだいいんですけどね」
居間のほうからおかあさーんとこのはさんを呼ぶ声がする。
「はいはい。じゃ、千夏ちゃん、また来てね。今度はなっちゃんも一緒に」
「はい」
このはさんは居間へともどっていく。千夏ちゃんは火野先生に向き合った。
「先生、新作楽しみにしてます。発売されたら、アメリカで読みます」
「うん。よかったら感想を聞かせてください」
「はい。それでは今日は失礼いたします」
引き戸を開けて、また閉じるまで、火野先生は玄関先に立って千夏ちゃんを送ってくれました。
千夏ちゃんはテクテクと駅へと向かって坂を下りながら思います。
一つは本当にこんな今夜のような不思議な会合で、仕事を決めるという、複雑かつデリケートなことが決まるのでしょうか。もう一つは、もし本当に決まるのだとしたら、それはずるではありませんか?
信号が赤になって青になるまでしばらく待ちます。
よくわかりません。
こんなつもりではありませんでした。ただ、いつものようにこのはおばさんのところに遊びに来て、最近のことを聞かれて就職に関する不安や期待をぽろっと漏らしただけなのです。
自分は恵まれてるな。
なんとなくそう思いました。