キスの意味は、
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「これで私は貴方に二度と近付けない」
彼の生活スペースと化している繁華街の裏道にある事務所に、依頼された仕事を終えて成果の報告がてら私は訪れた。必要最低限の報告を終えると、私は彼に触れるだけのキスをした。私が訪れたときから立派な黒革のソファで寛いでいた綺麗な顔立ちの男に向けて、意図的に口角を上げ笑みを形づくって。
彼は、聡い。もしも彼の前で一瞬でも気を抜いてしまったら最後。私が報告をメールで済ませずに、わざわざここへ来た目的を果たすことが出来なくなる。
「ねぇ、黙っていないで何か言いなさいよ」
よっぽど私の行為に驚いたのか、事務所の空間だけ時が止まったかのように彼は先程から微動だにしない。仕方がなく痺れを切らした私から話しかけると、彼は切れ長の目をさらに鋭く細めて、人ひとり射殺してしまうんじゃないかと思うほど睨みつけてきた。
「てめぇ、どういうつもりだ」
さらに他人が聞いたら縮み上がってしまいそうなドスの効いた声とともに。きっと、一般的にこういう状況に遭遇すれば男女問わず恐怖を感じるものなんだろう。けれど、私は小さいときから何度も経験してきた。これ以上に恐ろしいことも。だからまったくもって今の状況は怖くない。私は未だに睨みをやめない男から一度も目線を逸らすことなく、彼を見据えてただ機械的に事実を突きつける。
「どういうつもりもなにも、私は貴方にキスをした。だからもう二度と私は貴方に近付くことはおろか、この街に足を踏み入ることが出来ない」
ねぇ、そうでしょ? と、私もわざと挑発的に睨み返してみれば、彼は機嫌を損ね大きな舌打ちをした。これでいい。彼の機嫌が悪いときなら、いつもみたいに冷静でいられなくなることを知っている。そうすれば恐らく私の要求も通りやすくなるはずだ。
「分かってんじゃねぇか。お前、正気か」
──あ、しまった、と思った。私を射抜く彼の闇のような瞳は至極冷静で、彼は私が奥底に隠した意図を綺麗に読み取っていた。どうやら読みを外したらしい。初めて重要な依頼を受けたとき以来だ。それならば、無駄な駆け引きはやめてただ素直になればいい。
どっちにしろ、最終的に私の要求は通るだろうし。せっかくの機会だから、少しだけその綺麗な顔を歪ませてみたかっただけだしね。
「ふふふっ、可笑しなことを聞くのね。貴方も分かっているでしょ? 私が正気だって。もしかして、行為で示すより言葉にしないと伝わらないのかしら?」
それでもやっぱり素直になれず、思わず程度の低い煽りが口から突いて出た。何をやっているのだろうと、自嘲してしまいそうになる。鋭いこの男はとっくに私の行為の意図に気付いているというのに。彼に伝わらないなんて本当は一ミリもそんなことを思っていないのに。
彼が敢えて確認を取ったのは、彼なりの不器用な優しさなのだろう。私が迷いなく陽の当たる世界の住人になれるように。この世界から離れる覚悟はあるくせに、彼と離れることは嫌だと少しだけ揺れていた気持ちをきちんと捨てさせるために。
ほんと、無意識に私を甘やかしてくれる。どれだけ私を特別に扱ってくれるのよ、この男は。
「んなわけねぇだろ。お前は俺を切った。それを告げるためのキスなんだろ」
「ええ、その通りよ。さすが私を良く理解している幼馴染みでありビジネスパートナーね。貴方の言う通り、私は貴方を捨てることにした。その意思表示がキスだっただけ」
彼は私の予想通りに、私が彼にキスをした意味を正確に汲み取っていた。
* * *
私が今住んでいるこの街は、数十年前に起きた組同士の抗争を境にある一族がこの街の治安を取り締まるようになった。
その一族のトップに立つ男の逆鱗に触れた場合、問答無用で街を追い出され、二度と街に戻ってくることはかなわない。この街に住む人びとはそれを暗黙の了解として、その男の逆鱗に触れないように怯えて生活している。
現在、その一族のトップに立っている男こそ、先程から黒革のソファに座って私と会話を交わしている彼。私の幼馴染であり、今の仕事のパートナーでもある鷹薙美弦だ。
美弦は、ツーブロックをセンター分けにした何色にも染まらない真っ黒の髪に切れ長のアーモンドアイ、しっかりと筋肉のついた細身の身体。しかも女の私からしてみれば憎たらしいほど整い過ぎている容姿を持ち、一瞬で人を惹き付け従わせるオーラを纏っている。嫉妬なんてする暇もないくらいカリスマ性に溢れているのだ。
そんな男の逆鱗に触れるポイントは幾つかあるが、その一つがキス。
美弦から女にキスをした場合は特に問題は起きないが(単に性欲に逆らわないだけ)、女からキスをした場合はアウト。その瞬間に彼は冷酷に女を切り捨て、街から追い出す。何故、女からのキスはアウトなのか、その理由は長年傍に居た私も実は知らない。他のポイントが逆鱗に触れる理由は教えてくれたのに、彼は頑なにキスの理由だけは教えてくれなかった。
「どうせお前のことだ。俺との縁を確実に切るために考えて悩んだ結果なんだろ」
「……あら、悩んでいたことがバレていたのね。そこまで見抜いているなら、私の要求を呑んでくれるのよね? 一刻も早く時東飛鳥という女がこの街で暮らし、貴方と通じていた痕跡を消して。貴方なら、私の人生を書き換えることくらい容易くできるはずだもの」
「まぁな。……アスカ、後悔しねぇな?」
この男はどうしたのだろうか。今さら何度も確認する必要がないのに、私をばっさりと切り捨ててくれればいいのに。
──もう私は、とっくに覚悟が出来ている。私の人生を書き換えることくらい躊躇いなどありはしない。少し前まで揺らいでいた気持ちも、美弦が吹っ切らせてくれた。例え二度と美弦と会えないとしても、この選択は正しいはずだから。
「──しないわ。私は、私を一途に愛してくれる尊さんを裏切るわけにいかない。貴方と繋がってるなんて彼の親族に知られたら、彼はさらに肩身の狭い思いを味わうことになる。そんなこと、彼の隣で生きると決めた私がさせはしない。例え一番の理解者である貴方を捨てたとしても、私は彼の隣で生きていくの」
美弦の目をしっかりと見て断言した私の本心に、嘘偽りがないか探るように一瞥した後、彼は長い溜息を吐き出した。
「分かった」
その言葉を聞いた瞬間、私とこの男の間にあった縁は完全に切れた。生まれ育ったこの街に二度と足を踏み入れることが出来ないことは何とも思わない。
けれど、と思う。二十年以上も共に過ごしてきた美弦と二度と会えないことは、どれだけ覚悟をしていてもやっぱり少しだけ、ほんの少しだけ寂しさを感じてしまった。
「アスカ。なにかあれば俺の名を使え」
目的を果たし終え、美弦の前から立ち去ろうと踵を返せば、私に向けて放たれた言葉。
この男は、本当にどうしたのだろうか。最後の最後まで私に優しくしてくれるなんて、もしかしたら熱でもあるのかと聞きたくなる。
「……じゃあね、美弦」
それでも、私は振り返らない。今の私には、美弦と縁を切ってでも傍にいたいと思う相手がいる。人の温もりを、愛という名の優しさを教えてくれた彼。
その彼が、愛人の息子というだけで御曹司として認めてもらえず、親類縁者から冷遇され、孤独に震えているのなら。
──私は迷わず、彼の隣に行って支えよう。
だから、美弦と別れ、これから新しく住む街に行くまで泣いていたことは私の一生の秘密だ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
【補足】
飛鳥:児童養護施設出身。表の顔は大企業の受付嬢。裏の顔は美弦のビジネスパートナーとして諜報活動を行っている。最初は尊の家を探るために近付いたが、いつしか尊と自分を重ねて尊を好きになっていった。
美弦:飛鳥の住む街の支配者。ほとんど表舞台に立たない謎の男であるが、行った数々の悪事や非道な行いにより住民に恐れられている。飛鳥がキスをしなくても、飛鳥を街から消そうと考えていた。飛鳥の幸せのために。