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元エリートな魔法使いの少年はA級パーティから追放された結果、ダメなおっさんとダメダメ街道を突っ走るようです

作者: quiet



 たった8時間ぽっちの出来事だった。


 午後2時。クイン・ヴァ・シャローズは自分の所属するパーティの上司、というか最高責任者のプランナー・セントバーグのところに直談判に向かった。無闇にクソでかい部屋でアホみたいに巨大な椅子に深く腰を落ち着けたままプランナー・セントバーグはクインの話を完全にナメた態度で聞いた。そして最後にはこう言う。


「わかった。もう行っていいぞ」


 バカにしてる、とクインは大憤慨した。


 クインがプランナー・セントバーグまで物言いに行ったのはわかりやすい望みがあったからだった。待遇改善。このところ、クインがチームリーダーを務めている魔法部隊の待遇が異常に悪い。それに不満たらたらだったから、チームを代表してクインがやってきたのだ。


 クインの所属するA級冒険者パーティ『輝ける(グロリアス)王道(ロード)』は、構成員が百人を超す大型パーティで、内部構造は大まかに言ってふたつの部隊に分かれている。魔法部隊と物理部隊。魔法を使うのが魔法部隊で、それ以外の筋肉を振り回したり鉄棒を振り回したりしているのが物理部隊という風に捉えてもらえればいい。


 仕事が多すぎるのである。


 物理部隊はいいよな、と魔法部隊は口々に言う。戦闘はともかく、それ以外の場面ではどうせ鉄棒に紙やすりをかけているか、筋肉に紙やすりをかけているか、どちらかだけだ。それに比べて魔法部隊は違う。物理部隊の武器に強化魔法をかけるのもそうだし、マジックアイテムに回復薬の準備、ついでに言うならパーティの人員が全員所属している宿舎の管理まで最近は魔法部隊の仕事になっている。最近は戦闘班と総務班に明確に分けなければ、そんじょそこらの魔法使いじゃ習得し切れない数の魔法を業務に使う必要がある。


 だから人員を増やせ、と言った。

 その答えが、アレ。


「バカにしてる、バカにしてる、バカにしてる!!!」


 憤懣やるかたない様子でクインはとりあえず仕事に向かった。プランナー・セントバーグのあの様子では何を言っても無駄ということはわかりきっていた。顔面爆破してやろうかあのクソ野郎、と思ったがそういうわけにもいかない。とにかく現場に戻って仕事をしなければ業務は終わらない。だからどんなに怒りを抱えていても、結局、作業部屋に戻らなければならない。


 クイン・ヴァ・シャローズは名門魔法学校の出身である。しかも、かなりの好成績。さらに言うなら、家督を継ぐ権利はないとはいえ、それなりに高位の貴族一門の出である。


 ゆえに、まだ十代という若さでこの大型A級パーティで魔法部隊の長という重たい役職を勝ち取っているし、その高度な魔法技術から現場でも頼りにされている。今回の談判も現場からの「クインさんならきっと」という期待に応えて行ったものだったし、作業部屋に入ってすぐに「ダメだった」と首を横に振ったクインのことを誰も責めたりしなかった。むしろ「よく言ってくれましたよ」なんて言いながらいつもよりいい雰囲気で仕事が回っていた。


 だから、油断していたのである。


 夜10時。

 ひととおりの仕事は済ませた。明日はダンジョン攻略があるから、朝の4時には装備を整えていなければならない。いまだに作業部屋でしくしく悲しそうに作業をしていた人員に「明日すぐに必要になるものはもうないだろう」「明後日の分は僕が明日ダンジョンを上がったら終わらせておくから、もうそのへんにしておけ」と声をかけ、全員を帰らせたあと施錠して、部屋に戻ったら勝手に荷物がまとめられていた。


「…………は?」


 もう一度言うと、勝手に荷物がまとめられていた。


 魔法学校から出てこのパーティに就職してこっち、まるで私物はこさえていない。魔法書の類は購入したらそのまま魔法部隊の共有財産として提供してきた。家具は宿舎に備え付け。だから、確かにまとめようと思えばこのボストンバッグ一個に収まる。


「クビだってよ」


 にやにやと嘲笑うような声がした。

 振り向くと、そこにいたのはキーガス・デッドレッド。物理部隊の長。二十代後半の男で、魔法部隊と物理部隊の関係から推測も効くと思うが、クインとは仲が悪い。上におもねり下に当たり散らす典型的なタイプであり、どう考えてもこんな人間が責任ある立場まで上ってしまうこの組織の人事制度には問題があるとクインは常々思っていた。


 何かをクインが言う前に、キーガスがクインの腕をつかんだ。


「何をするっ!」

「悪いが、セントバーグさんからの命令でなあ。お前、もう今日から部外者なんだわ。部外者を宿舎に入れちゃまずいって、頭のいいクインぼっちゃんなら簡単にわかるよなあ? なんせ、散々オレたちに文句垂れてきたんだしよ」


 確かに言った。

 言ったが、それはお前らが地元の友達やら出張売春を呼んできて部屋を散々荒らして汚して僕たち魔法部隊がその後片づけを押し付けられるからだ。


 そういうことを訴えたけれど、キーガスはまるでクインを掴む手をゆるめない。骨を圧し折ってしまいそうな強さでギリギリと締め上げて、そのまま宿舎の廊下を引っ張り回して歩き出す。なんだなんだ、と部屋から顔を出すのもいたが、キーガスの顔を見るや遠巻きにして、下手をすれば顔を背けて大急ぎでまた部屋まで引っ込んでしまう。


「こんな勝手なことをしてただで済むと思ってるのか!? だいたい、クビっていったい……」

「お前、セントバーグさんに楯突いたんだって? バッカだよなあ。大人しくしてりゃ甘い汁吸えたのによ。飛び級までして魔法学校出たんだからさ、大人しく椅子に座ってふんぞり返ってりゃよかったのよ」


 宿舎の入口まで辿り着く。

 ぽい、とキーガスがクインを外に放る。運悪くにわか雨の降る夏の夜で、地面に倒れ込んだクインはべしゃり、と泥にまみれる。口に入った泥を吐き出すよりも先にキーガスがバッグを腹めがけて放ってきたものだから、その勢いでいくらか土を呑み込んでしまう。


 大いに咳き込むクインに、キーガスは言った。


「人が足りねえなんていうのは、仕事ができねえやつの言うことだってよ。管理能力がないやつは『輝ける王道』に必要ねえとセントバーグさんは仰せだ」

「そんっ……なバカな、はなしがっ……!」


 いつの間にか、キーガスの後ろには物理部隊の取り巻きが大勢控えている。力でこの場を突破するのは無理だとクインはわかって、何か言葉で説得しようとしたけれど、


「おい、お前ら。クインぼっちゃんが汚れてるぜ。ちゃんと普段言われてることは覚えてるよなあ?」

「うっす! もちろんっす!」

「『自分で汚したところは自分で綺麗にしろ!』っすよね!」


 それはクインが普段から何度も言っていた台詞で。

 取り巻きたちは、その手に汚水の入ったバケツを持っていて。


「待――」

「んじゃ、やってやれ」


 クインの言葉をかき消して、せーのと取り巻きたちが腕を振る。


 ばしゃん。


「じゃーな、堅物野郎。お前のこと、大っ嫌いだったぜ」


 哄笑とともに、宿舎の扉が閉められた。








 自殺。



 という気持ちでクインは川を見ていた。

 橋の上。見えない雨粒が幾千と水面を叩いて、波紋を切れ間なく川に映し込んでいる。幸い汚水はこの激しい雨に流れ落ちて、残ったのは全身びしょ濡れでみすぼらしいただの少年だけ。


 なんだこれは、と思っている。


 挫折知らずの人生だった。が、努力知らずというわけではない。

 魔法学校を飛び級したときだってそうだ。別に、人より才気があると思ったことはない。むしろどちらかと言えば、単純な素養ではあの学校の上位層と比べて見劣りする方だとすら思う。


 それでも、努力してきたから結果を出せたのだ。

 人が遊んでいるときに勉強した。だから、試験でいい結果が出せた。

 人が遊んでいるときに悩んだ。だから、十代でA級パーティのリーダーなんて役職まで上り詰めた。


 じゃあ、今のこの結果はなんだ?


「僕が、何をしたんだ……」


 組織のために言ったつもりだった。あれでは回らない。心身の調子を崩すものだって出始めていた。眠る時間だって確保できないような業務超過が常態化していた。せめて総務と戦闘を分けたかった。ダンジョンアタック中にトラブルが発生すれば、死亡事故だって起こす可能性があった。


 口に出したら、涙が零れてきた。溢れてきた。止まらなくなった。雨に涙にびしょびしょに濡れて呼吸が苦しくなって、嗚咽が出た。


 正しいことをしたはずだ、と思う。

 じゃあ、この世界は正しいことが報われるようにできていないということなのか?


 これからの仕事のアテは?

 パーティをクビになった人間がどこかに拾い上げてもらえるのか? 貯金はいくらかあるけれど、それまでに仕事を探せるのか? いやそもそも無収入で住むところは決められるのか? 宿暮らしなんて長々できるわけがない。今持っている金は蝋燭みたいなもので、これが尽きればきっと自分の命の灯も消える。


 きっと、今までのクインだったらこう言えたのだと思う。

 大丈夫。自分は大丈夫になるまで努力する、と。


 でもそれは、これまで努力をすれば報われてきた少年の言葉で。

 努力が報われないことを知ってしまった少年が口にできる言葉ではないのだ。


 ひっくひっくと泣きじゃくって、その細い手で涙を拭いながら、報われない少年が言うのは、こんな言葉。


「いっそ……この川に身を投げて……」


 ところで。


 夏の雨というのは気まぐれなものである。晴れていたかと思えば急にアホみたいに降ってきたりするし、アホみたいに降っていたかと思えば急に晴れたりもする。だいたい人生もそんなものであり、突然雨が降ったり、突然晴れ上がったりする。


 このときは、ふたつ同時に起こった。


 雨が急に止んだ。

 それで、クインは気付いた。いつの間にか橋にふらふらと歩いてきたもうひとりの人影があることに。そいつが異様な酒臭さを漂わせていることまでは一旦気付かなかったけれど、キーガス・デッドレッドやプランナー・セントバーグよりさらに一回りはでかいその身体に、自死の間際に爪先立っていた精神だってさすがにぎょっとした。


 無精ひげの、男前と言えなくもない大男。


 そいつが、欄干に手をかけた。

 勢いよく川に向かって首を突き出した。




「うおぇええええええええ!!!!」




 そのときに宙を舞った男の吐瀉物のことを、クインは十年後も、二十年後もきっと忘れていないだろう。


 とんでもない量と色だった。あの量を吐いている人間がいたらもうすぐ死ぬに違いないとどんな医者だって判断するだろうし、あの色を吐いているモンスターがいたらあれを浴びると死ぬに違いないとどんな冒険者だって判断する。そういう、常軌を逸したゲロだった。


 虹に似ている、とクインは思った。

 ちょっとおかしくなっていたのかもしれない。どう考えてもただの異常なゲロで、虹ではなかった。つらいことがあったばかりだから、珍しくちょっと頭がバカになっていたのかもしれない。


 でも、運命なんてどうせ大抵は勘違いなのだし。

 それでも、よかったのかもしれない。


 うう、と口元を男が拭う。夏夜の雲が風に流れて、その隙間から月の光が差し込んでくる。


 スポットライトに照らされるように、ふたりは橋の上に立っていた。


 男が振り向く。

 クインは男をじっと見つめている。


 ふたりの目が、ばっちり合って。


 びしょ濡れの、捨てられた美少年と。

 酔いどれの、むくつけき大男が。



 運命みたいに、夜に出会った。



「…………」

「…………」

「………………うう~ん」

「うわっ、ちょっと!!」


 そして、酔いが回り切ったらしい男の膝がカクッと折れて、欄干にもたれかかった。


 でかい男である。転落防止の柵なんていうのは大して用をなさない。上半身がそっくり川に落ちて行こうとするのを、危ない、と叫んでクインが支える。当然でかすぎるのでずるずる一緒に引っ張り込まれようとしている。


「だ、誰かーっ!! 力の、力の強い人はいませんかーっ!!」


 必死で叫ぶ。眼下にはたったいま吐瀉物が流れ込んだばかりの川がこれでもかというくらいに広がっている。絶対あそこに飛び込むのは嫌だ、と決死の綱引き。細腕にめいっぱい力こぶを作って、足を踏ん張って、体重全部かけてもまだ力負けしながら、


「飲み過ぎた……」

「お前ーっ! のんきなこと言ってないで起きて動けーっ!!」


 叫び声は、もうすっかり元気になっている。


 こうして、クイン・ヴァ・シャローズは九死に一生を得た。


 安心してくれていい。

 これは、彼が幸せになる物語だ。







 ぺちぺち、と頬を叩かれて、「ん、むう……」とクインは寝返りを打った。瞼の隙間から入ってきた光が強い。きっと日が高い。こんな時間まで眠るのはいつぶりだろう。


「少年。悩ましい声出してねえで起きてくれ」

「……は? え?」


 いきなり知らない声が聞こえてきて、びっくりして跳ね起きた。そして「うわっ!」と声を上げて飛びのいた。なにせ寝起きに髭面の大男である。煎餅布団の上にクインは寝ていて、男はそれを覗きこむように横であぐらをかいていた。


「あ、え、えっと……」

「お前だろ? 潰れてた俺を家まで運んできてくれたの」


 なんとなく記憶があんだわ、と言いながら男は茶碗の中の飯をかっこんでいた。いい匂いがする。ぐう、とクインの腹が鳴る。なにせ昨日の昼飯から何も食べていない。「お前も食うか?」と男が訊く。クインが遠慮しているうちに「大したもんじゃねえよ」と言って部屋の中にあるキッチンに立つと、鍋から米を取って、それに湯をかけて、何かの調味料を入れて、スプーンとともにそれをクインに差しだしてくる。ありがとう、と言ってクインはそれを受け取る。一口食べるととてつもなく大雑把な味で、美味かった。


 記憶を探った。

 すぐに見つかった。


 そしてお腹が痛くなった。


「うぅ……」


 人間、苦労を乗り越えれば乗り越えるほど強くなるというのは嘘で、挫折すれば挫折した分弱くなる。一度圧し折れた木の棒はテープで補強してもまたすぐ折れるというのと理屈は同じである。そのため、これまで毅然と胸を張って生きてきたクインもつらい記憶を思い出すだけでめそめそするようになってしまった。


 どうしたどうした、と男が慌てる。もうクインの中の自制心はかつてほど強くない。涙だけは、と堪えながらもぺらぺらと身の上語りを始めてしまった。


 昨日、突然所属していた冒険者パーティをクビになったこと。

 家もなければ再就職のアテも何もないこと。

 正しいと思ったことが評価されずに悲しかったこと。

 厳格な家庭だから実家に戻るのも難しいということ。

 このまま僕は貯金が尽きるまで曖昧に不安に駆られながら暮らして、そして金がなくなったらどこかの路上で野垂れ死ぬんだ、ということ。


 そういうことを滔々と語り、語られた男は腕を組んでそれを真剣に聞いて、うむ、と頷くと、こういった。


「いいか、少年」


 もっともらしい年長者の顔で、


「金がなくなったら路上で野垂れ死ぬなんざ、当たり前のことだ」


 あのな、と男は両手を広げて、


「お前、冒険者なんだろ? だったら強いモンスターと出会ったこともあるよな?」

「それは、ありますけど……」

「じゃあお前、そのモンスターが家族に囲まれてベッドの上で死ぬと思うか?」

「は?」


 一体何の話をしてるんだ、と涙も引っ込んだ。


 怪訝な顔をしながらクインは言われたことを頭の中に浮かべてみる。


「死なない、と思うけど……」

「だっろ~~~~!!?」


 非常に鬱陶しいやり方で、男はそれに同調してきた。

 そしてびしっ、とクインを指差して、


「つまりな、お前は高望みしすぎなんだ!!」

「高望み?」


 その指を「行儀が悪い」と掴んで逸らしながら訊き返すと、男はやけに自信満々の大声で、


「そのとーりっ! あのな、どんなに強い生き物も年を取るか傷つくかして弱って死ぬんだ。殺されるか餓死するかどっちかだ。人間ってのはそこのところを勘違いしてるからよくねえ。金が尽きたら死ぬその日暮らしなんてのは、自然界じゃ普通のことだぜ!」


 クインは衝撃を受けた。今までに接したことのない考え方だったからである。


 貴族の家に生まれた。魔法学校に入った。大手の冒険者パーティに所属した。絵に描いたようなエリートコースを歩んでいれば、自然すれ違う人物もエリートばかり。当然誰もがみな、ぼんやりと将来のことを考えていた。自分はなんやかんやでそれなりに成功して結婚して孫とかに囲まれて死ぬのだろう、というビジョンを持っていた。


 目を開かれた気分だった。

 確かにそうだ。野生動物だって同じである。どんな生き物も大抵は野垂れ死に。自分の境遇など何ら大したことではないのだ。新しい価値観に衝撃を受けすぎて「現に俺は昨日飲み過ぎて財布に一銭もなくなってる」「いや落としただけかもしんねえ」という言葉を聞き逃している。


「ま、だからあんまり落ち込むな。大自然に比べりゃ俺たちの命なんて儚いもんさ」

「た……確かに!」


 どうでもいいのだが、精神的に弱ったところにやたらに壮大なスケールで言葉をぶつけられると、人間色々なことを誤魔化されてしまう。かと言って精神的に弱っているときに目先のことだけを考えているとそれはそれでストレスが過大になってしまうので難しいものである。


 クインは行儀正しい少年である。

 貴重な教えを賜った。そのうえ、確かこの家に男を担ぎこんできたときは男の方を布団に寝せて、自分は部屋の隅に倒れたはずだから、きっと今こうしているのはこの男が気を利かせて布団を譲ってくれたのである。さらに言うならもう少しで死ぬところだった昨日の夜、意図せぬ偶然だったとはいえこの男に自殺を止められた恩もある。諸々含めて、深く頭を下げて感謝を示そうとしたところに、


 ドンドンドン、と。


「おいごく潰し!! いるんだろ!!」


 芸術的なくらいピタリと男の動きが止まった。

 見事なものである。たった今まで会話していたのでなければ、彫像か何かと勘違いするかもしれない。そういう止まり方だった。


「おい!! バルトロ!! 居留守使ってんじゃねえぞ!!」


 あの、とクインが扉を指差すと、シッ!と男は口に人差し指を当てた。もう特に勘違いのしようもないので言ってしまうが、この男がバルトロである。


 しばらくクインも無言でいたが、いつまでもドアを叩く音が鳴りやまない。


 やがて、バルトロは言った。


「物は相談なんだが……」


 無闇に真剣な顔である。こういう顔の男は信用してはいけないということを、残念ながらクインは学校で習ってこなかった。


「住むところがないなら、一緒に住まねえか、少年」

「え」


 いいのか、とクインは訊く。

 渡りに船だった。無収入で不動産契約は難しいだろうと思っていた。知らない人物と同居というのには警戒心も湧くが、何せある種の恩人である。騙すつもりなら自分が寝入っている間にバッグだけ取ってどこかに捨ててくることだってできただろうし、信用するハードルは比較的低い。悲しいことに。


「いいんですか」

「もちろんいいとも。旅は道連れ世は情け。困ってるときはお互い助け合いよ」


 旅は道連れ世は情け、お互い助け合い。この手の言葉を使ってくる人間はすべてが満たされたじーさんばーさんか生きにくいくらい潔癖な人間でない限りしょうもない裏があるというのは周知の事実であるが、残念ながらクインはこのことも知らなかったし、挙句の果てに目の前の男の心の広さに感服していた。


「だけど、それにはひとつ問題があってよ……」

「なんですか? もし僕が力になれるなら、なんでも言ってください」


 ほら、面白いくらいに引っかかる。

 にやり、とバルトロは悪い笑みを浮かべているけれど、それにも気付いていない。


「実を言うと、賃貸契約の更新期でな。今月分の家賃と合わせて三ヶ月分になるんだが、そいつが実はまだ工面できてない。で、いま大家の女がその取り立てに来てるってわけよ」

「な、なるほど……」


 いくらですか?とクインは訊く。そしてほっと胸を撫で下ろした。格安だ。これなら普通に賃貸契約をするよりもよっぽど安く上がる。


「そのくらいなら僕が払えます」

「お、おお! マジでいいのか!?」

「もちろん。むしろ礼を言うのはこっちの方です。それに、困ったときは助け合いなんでしょう?」


 なんていい言葉なんだ、ととてつもなく美しい笑顔でクインは噛みしめていた。捨て犬みたいな純粋少年とこれほど相性のいい言葉はない。おかげさまで、バルトロの顔に過った罪悪感にも全く気付かなかった。


「おーい! 開けろー!」

「はい、いま開けます」


 扉を叩く音が止んだ。クインが立ち上がる。玄関まで歩く。扉を開く。


 若い女が立っていた。

 黒いタンクトップ。高い位置のポニーテール。二十代の中盤か後半か。背が高い。クインより目線が上にある。一瞬クインに目を丸くした後、非常に険しい顔付きで部屋の奥にがなり立てた。


「おいダメ男!! あんた、男はともかくとしてこんな小さい子連れ込んで恥ずかしくねーのか!!」

「ちっげーよバカ!!」


 醜い言い争いが頭の上で交わされているところで、クインは手に握った紙幣を一、二、三、と数えて、


「これでぴったりだと思うんですけど、確認してもらえますか」

「…………」


 女はそれをじっと見つめる。

 それからバルトロを見る。


「……あんた、どうやったらここまで最低になれるわけ?」

「ちげーって言ってんだろこの脳内ピンク女! 合意の上だっつの!」

「合意だったら何でもいいってわけ!? このケダモノ!!」

「だーかーらー!!」

「あの、確認を……」


 控えめにクインが言うと、女はハッと口を閉じて、それから打って変わって素敵な笑顔で、


「いいのよ。このお金は取っておきなさい」

「いやでも……」

「あのね。あんたも若いから変な男に引っかかることもあると思うわ。その意味じゃバルトロくらいの、まあ悪く言えばちゃらんぽらん、良く言えば大して深刻な事件を引き起こすタイプでもない負け犬野郎に引っかかったのはいいのかもしれないけどね。ワクチンみたいな感じで」

「どっちも悪く言ってんじゃねーか!」

「黙ってろ毛ダルマ! ……で。でもね。やっぱりお姉さん、こういうどうしようもない人間に使う時間って青春の無駄遣いなんだと思うの。あんたはちょっとなよっちいけど王子様みたいなキラキラした顔してるんだし、もっと色んな人がいると思うわ。年上好きにしてもほら、こんなのよりお金も品性もあるマダムとか、ダンディとかたくさんいると思うし」

「いや、そういうことじゃなくて……」


 なんだか話が妙な軌道に逸れつつある。そのことがわかったクインは、今までの労働経験から、こういう行動を取ることにした。


 つまり、用件を簡潔に伝える。

 そんな当たり前のことが、


「更新料を含めて三ヶ月分の家賃を……。あ、それからその、僕は宿無しだから、ここで同居させてもらいたいんですけど、構わないですか?」

「は?」


 致命傷。


 じろり、と女はバルトロを見た。

 バルトロはびくっ、とその巨体を揺らした。


 ちょっと通してね、と女が言う。クインが横にずれる。おいバカ、とバルトロが小さく叫ぶ。女がずんずん部屋の奥まで進んでいく。バルトロの胸倉をつかむ。


 そして、叫んだ。


「更新料はあんたが土下座するからナシにしてやってんだろーが! 三ヶ月分の家賃は単なる滞納だろこのコンコンチキ!!」


 今度は「は?」と声を上げるのはクインの方で。

 初対面の幻想は、綺麗さっぱり消え去って。


 そんな風に、生活は始まった。







「おーい、クインくん」

「あれ、アルさん?」

「何してんの?」

「小遣い稼ぎです」


 昼休みで、日雇いの仕事をしていた。

 今日の仕事は建設現場。元々肌の白いクインだけれど、こういう仕事を始めて半年もした今となってはうっすら肌も日焼けしている。


 目の前には、作業着の行列。それにクインは杖を片手に、水の魔法でお湯のシャワーを浴びせかけていた。せいぜい小銭程度しか貰っていないサービスだけれど、小銭くらいなら払う価値があるらしく、その日初めて会ったような同僚が結構な数、クインに頼み込んでくる。おかげさまでクインの財布の中はその金額の貧弱な割に、厚みだけはパンパンである。


 便利なもんだ、と頷くのは、アルと呼ばれた、クインとバルトロが住む部屋の大家。


「お弁当持ってるんだけど、食べる?」

「え、いいんですか? やった。どこに食べに行こうかなと思ってたんです」

「いいのいいの。このあいだ庭の草抜きしてくれたし。どうせ余り物詰めただけだから」


 嬉しいな、とニコニコ笑顔でクインは蓋を開いて、茶色い弁当箱をつつき始める。「もっと水圧強くしてくれ」と労働者が言って、次の瞬間ぶっ飛ぶような水鉄砲を食らって笑っている。


「おいガキ!! 強すぎだ!!」

「すまん。ケツが切れたか?」


 クインが冗談を飛ばす様子に、アルは、


「なんか、馴染んだね。クインくん。最初はどうなることかと思ったけど」


 ううん、とクインは複雑そうに、


「そのへんは、あの男の言うとおりでしたね。悔しいですけど。人間、下がったと思うからつらくなるんであって、こんなもんだと思うと普通に受け入れられます」

「いやいや。クインくん、それ受け入れちゃダメだから。若いししっかりしてるし魔法もそんなに使えるんだから、もっと上目指さないとさ」

「……うーん」

「ところで、あの男は?」

「二日酔いで寝てます」

「ああ。じゃあお前居留守使ってたからあたしの弁当食いそびれたぞって言っといて」

「泣いて悔しがりますよ。あいつ、意地汚いから」


 ふふ、とクインとアルは顔を見合わせて笑い合う。もちろん、あの男というのはバルトロのことだった。


 失職してから半年。もうすっかりクインはこの街に馴染んでいた。


 バルトロを担いでいったときはそれに必死で気付かなかったけれど、住んでいるのは王都の外れの貧民街。道理で家賃が安いわけである。定職についていない人間が多い街というのは、定職についていない人間が暮らしやすいようにできている。


 冒険者の仕事を取るのは躊躇われた。なにせクインをクビにした『輝ける王道』はA級。突出したトップパーティというわけではないけれど、トップクラスのパーティではある。そこをクビになったとなると、悪評は拭えない。


 そこで、この日雇い仕事だった。

 バルトロから聞くまであまりよく知らなかった。が、システムとしては冒険者とよく似ている。腕っぷしや魔法の要らないような仕事が紹介所に張り出されていて、それを持って仕事に向かう。働いたらその日の給料がその日の終わりにもらえる。


「つまり、金がなくなったらここに来ればいいってわけよ。だから貯金なんてする必要がねえのさ」

「病気したらどうする気だ」

「野垂れ死ぬ」


 初めてバルトロに案内してもらったときは、そんな会話もあった。耳心地のいい言葉に騙されていたことに気付いたクインは、もうこのダメなおっさんに容赦はなかったし、なんて適当なヤツだ、という顔で見ていた。


 ゴミ拾いから始めて、内職じみた製造から工事から引っ越しから何から何まで。とりあえず初めて見たものはやってみたし、クインは思いのほかどこでも使い物になること、さらには魔法が使えるというアドバンテージのおかげで重宝されることすら多いということに気付いていた。


 いつの間にか、貯金も増え始めている。


 生きていける、と思い始めていた。


「じゃああたし、あんまり邪魔したらアレだから行くね。今日、遅くなる?」

「そうですね。このあいだの清掃の仕事で知り合った教会の人に、よければ学習ボランティアの手伝いをしてくれないかって言われてて。ちょっと帰りに寄ってくるかもしれないです」


 うへえ、とアルは顔を歪めて、


「すごいね。さすがエリート。あたしはお金の勘定以外は全然ダメ。尊敬だよ、尊敬」

「お金の勘定ができるなら他のこともできますよ。きっとやってないだけです」


 今度一緒に何か勉強しましょう、と言うと、ヤダヤダ、と言ってアルが去っていく。その背中をクインは見送っている。


 バルトロの古馴染みらしい。

 この半年、大抵のバルトロの悪事は目にしてきた。泥酔。ギャンブル。散財。こんなに獣のような男がいるだろうか、とやがて落胆が感心に変わったほどである。自由と言えば自由で、心地いいと言えば心地いい。が、アルのようなしっかりした人間がバルトロの世話を焼き続けているというのは、


 なんとも。


「お、なんだ美少年! 今の姐さん女房か!?」

「違うわ」


 杖を一振り、水鉄砲。ぎゃはは、と笑いながら労働者たちが盛大に汗を洗われている。


 実際、からかわれるとちょっと、というくらいには好意はあるけれど。

 まあ別にドロドロになるほどでもないので、ほんのり好意くらいで終わっている。







「俺も行く」

「……えー」


 そういえば筆記用具くらいはいるか、と思って部屋に寄ったら、むくり、とバルトロが起き出した。

 クインは胡散臭そうな顔で、


「祈りにでも行くのか」

「少年。祈りなんてのはな、努力の仕方を知らねえ弱者のやることだぜ」

「お前そのものじゃないか」


 もう遠慮も何もない。生活必需品のほとんどはクインが買っている。毎日掃除しているのもクイン。放っておくと同じ服を何日も着ているのにキレて脱がせて洗濯するのもクイン。どうせ欲しがるからと飯を必ず二人分作っているのもクインだし、酔いつぶれた巨漢を拾って帰ってくるのもクインである。むしろ向こうが遠慮すべきだろ、という一線まで来ている。


 まあまあまあ、とバルトロはクインの肩に手を置いて部屋から出る。まったく、と溜息を吐きながらも、クインも悪い気はしていない。すべてを失ったと思ったときに、傍にいたのはこの男だ。元々クインは世話好きな方だし、口やかましく言えば言うほどストレスが薄まるタイプでもある。なんだかんだ年上の友達くらいには思っているし、これまでの人生で友達が少なかったことを思えば、心地いいとも言えた。


 ふと、そのとき思った。


 自分が辞めてから、『輝ける王道』はどうなったのだろう。

 そんな、ちょっとした心配が頭を掠めて、

 あとついでに、異臭も鼻を掠めた。


「…………なんかお前、酒臭いぞ」

「ん、そうか?」

「おい! お前まさか一昨日からシャワーを浴びてないな!? 子どもたちがいるところにその臭い身体で行ったら可哀想だろう!」

「いやいや、大丈夫。普段結構俺も子どもと接してるんだが、そいつは割かし平気そうにしてるからよ」


 クインはちょっと考え込んでから、


「……その子どもって僕のことか!」

「うわはははは!」

「待て! ダメな大人!」


 バルトロが駆け出す。それをクインが追いかける。知り合いとすれ違えば、またやってら、と笑われる。


 そんな風に、生活は続いている。





 すごく極端なことを言うと、教育というのは課金制である。


 この国にだって公教育は存在する。が、地域によってそのレベルはまちまちだし、この貧民街にいたってはひどいものである。大抵の子どもが三桁以上の足し算引き算もできないまま公教育を終えるし、日雇いの報酬が悪質な事業者によって実際の半額にされていても気付かないという場合だってままある。


 そんな状態で将来のことを考えて勉強しようとすると、金がいる。学習塾なり、家庭教師なり。裕福な家庭ならそれでもいいだろうが、明日の食費のことを真剣に考えながら仕事しているのがそこそこにいるような状態で、教育に金をかけろというのは酷な話である。


「だ、だから……。クインさんみたいな方が、ボランティアに参加してくださるのは、すごく、すごく……うれしいんです……!」


 シスターはそう言うと、何やら必死な顔でクインの顔をじっと見つめた。一秒、二秒、三秒。逸らした。人見知りらしい。


 いえ、とクインは答えた。

 声をかけられたから試しに来てみただけなんです、とも言った。実際、確固たるボランティア意識があってここまで来たわけではない。これまでの人生で社会奉仕なんて、一度もやったことがなかった。


 それでもいいです、いいんです、とシスターは言った。皆さんがほんの少しずつだけでも意識を向けてくれれば、社会は変わっていくはずなんです、とも言った。それから、首を傾げて、


「あの……、雨、降ってましたか? 髪が……濡れてるような……」

「え、ああ」


 クインが慌てて髪の先をつまむ。確かに、濡れていた。あいつのせいだ、とバルトロを見た。臭い落としのための水魔法を一緒になってひっかぶって、そのあと熱魔法で乾かしたはずなのに。あの男の図体がでかいものだから自分の方はおろそかになってしまった。


 ちなみに、そのバルトロは子どもたちと一緒になって神父から飴玉をねだっている。ガキの頃に教会に行ったら貰えたんだよ、と嬉々として語っていた。それはガキだから貰えたんじゃないのか、と思いながらクインはこっそり飴玉二十個分の寄附をした。


「いや、シャワーを浴びてきたものですから。気にしないでください。ところで、僕は何をすれば?」

「あ、えっと……。魔法学校の出のクインさんには、魔法を教えてもらうのが一番いいのかもしれないですけど……。でも、ここの教育目的は……生活に不自由しない最低限をみんなに身に着けてもらうことなので……」


 算数と国語ですか、と言えば、はい、と頷く。


 身に染みてきていた。ここで数ヶ月暮らすうちに、その分野の重要さが。将来投資だのなんだのの考えすら、適切に数字の概念を理解して比較することでしか生まれない。さらに国語ができないとなれば書物の利用もできず、必要なときに必要な知識を得ることすらもできない。


 全部で2時間。休憩3回。何のためについてきたんだ、と思っていたバルトロは、意外にも子どもウケがよく、休み時間になると遊具の代わりに使われていた。でっかいクマさん、と言われているのが聞こえてくる。ただでさえでかいクマにさらに「でっかい」という形容がつくことが、バルトロの巨体を物語っている。


 子どもに物事を教えるというのは思いのほか体力がいる。ベースになる知識がない分、大人に教えるのの数倍。シスターは「お疲れ様です」と声をかけてくれたが、もちろんシスターだって疲れ切っている。


 思いのほか楽しい、とクインは思っていた。


 魔法を鍛えていたときと似ている。何かをして、その結果が得られる。今回の場合は、子どもの成長という形で。この子たちがここで成長した分、将来に何か希望のようなものを得られると思えば、下手をすると魔法を鍛えていたとき以上に、そう感じた。


 向いているのかもしれない、と思い始めた。

 生活は続くようになった。だったら、日雇いの仕事をしながら、このボランティアを手伝っていくというのも悪くないのではないか。


 そのとき、バン、と教会の扉が叩かれた。


 一瞬間を置いて、しん、と教会の中が静まり返る。明らかに風の音ではなかった。何かがぶつかった音。


 あるいは、誰かが扉を殴った音。


「私が見てきましょう」


 怯える子どもたちをバルトロに預けて、神父が扉へ向かった。


 もしかすると乱暴な連中でも来たのかもしれない。そう思って、クインも立ち上がって神父の後を追った。


 けれど、間に合わなかった。


「うぐっ!」

「な――、」


 殴られた。神父が。床に倒れそうになるところをクインは細い身体で受け止めて、大きくたたらを踏む。


「おいおい、おじいちゃん。ちょっと大げさすぎなんじゃないの~?」


 チンピラ丸出しの声で、チンピラ丸出しのナリをした男たちが教会の扉を開けて入ってくる。


「お、お前ら……!」


 その顔に、クインは見覚えがあった。


 おっ、とひとりが声を上げて、


「おいおいおい。クインちゃんじゃないの。うちを! クビになった! 没落貴族の!」


 ぎゃはは、と男たちは笑う。

 見間違いのしようがない。ついこの間まで一緒にダンジョンに潜っていたのだ。


 リーダーのキーガス・デッドレッドこそいないものの、どう見ても『輝ける王道』の物理部隊メンバーだった。


「ここで何をしている!」

「いやいや。そいつはこっちの台詞。クインちゃんはクビになったのがショックで隠居しちゃったのかな? 似合う似合う。オレらのこと叱り飛ばして偉そうな面してるよりかさ、その女の子みたいなキレーな顔を活かして、この貧乏くせー街で物乞いでもしてる方が似合ってるぜ?」


 もう一度、男たちは口をかっ開いて笑おうとした。

 が、できなかった。


 その理由を説明する前に、クインの性格を改めて整理するのがいいだろう。


 クインは、育ちのいい少年である。礼儀正しく、どんな相手にも対等に接する。

 一方で、クインは頑固で潔癖な少年である。必要とあれば、自分より上位の役職のものに歯向かうことも躊躇わない。

 そして何より、クインは弱い立場にある者に対する慈しみがとても強い少年である。プランナー・セントバーグに直談判に言ったときだって、部下からの声をきちんと汲んだ結果の行為である。


 それから、前にした喩えのことを覚えているだろうか。

 人間は挫折した分弱くなる。一度圧し折れた木の棒はテープで補強してもまたすぐ折れるのと同じ理屈で、という喩え。


 しかしこのことを、もう一度真剣に考えてほしいのだけれど。

 強度はともかくとして、鉄の棒なんかが一度折れたとしたら、その先端部分は元の形よりもどう考えても尖っていて、攻撃能力は高くなるはずなのである。




「死ね外道!!」




 信じられない速度だった。


 かつて存在した魔法の天才でも、この域まで達した者は稀だろうとすら言える、血の滲むような努力に裏打ちされた恐るべき引き金の速さ。懐から杖を引き抜いて相手の鼻面に突きつけるまでの動作の馬鹿げた滑らかさ。そして躊躇わなさ。どこを取っても一級品以外の何物でもなく、いくらA級パーティに所属する戦闘員でも全くもってお話にならない。かろうじて爆発寸前に瞼を閉じられたのを褒めてやってもいいくらいだろう。


 ボン、と。


 ものすごく悲惨な音がした。


 その場にいる人間全員が凍った。いきなり魔法攻撃が行われたのを目撃した教会側の面々はもちろん、明らかに暴力を行使するつもり満々だった『輝ける王道』の面々ですら凍り付いている。


 だって、そんなやつじゃなかった。


 彼らの知っているクイン・ヴァ・シャローズはこうだ。魔法の腕は上々。若くしてその地位にいるだけの価値はある。けれど何を言っても何を押し付けても怒るのは口だけで、大して怖くないやつ。適当なことを言ってればどうせそのうち何でもやってくれるパシリくん。そのくせ何を勘違いしたのか大ボスに楯突いて追放されるマヌケちゃん。


 間違っても、挑発を受けて先制でワンパンして白目を剥かせてくるような人間ではなかった、


 はずなのだ。


「な、おま――」

「失せろ!! 不愉快だ!!」


 美しい刃物のような声だった。向けられただけで心を傷つけられるような苛烈な敵意。


「お前らの発する言葉、姿、存在、何もかも不愉快だ!! この場でぶち殺されたくなったらとっとと尻尾を巻いて巣に帰れ!!」


 いつもの癖の、名残だったのだと思う。


 さっさと逃げておけばよかったものを、「で、でもよぉ」なんて情けない言葉を吐いて躊躇ったものだから。


 ボン、と二人目の顔が爆ぜた。


「ひ、ひぃいいっ!!」


 ことここに至って、クインが本気だということが理解できたらしい。悲鳴を上げて、チンピラたちは駆け足で引き上げていった。


 あとに残されたのは、教会関係者だけ。


 口の中を切って血を流している神父すらもぽかん、とクインを見つめていて。


 クインは、凶暴な猫が全身の毛を逆立てるようにチンピラが去っていった教会の扉の向こうを射殺すように見ていて。


 だからしばらく、誰も、何も言えなくて。


「こ、」


 間抜けな声。


「こえ~~~。いまどきのガキ……」


 バルトロがそう言ってくれなかったら、いつまでも、誰も動けもしなかったかもしれない。





「お恥ずかしいところをお見せしました……」


 と、我に返ったクインがしおしおと言ったとき、教会の誰もが顔を強張らせたいたけれど、バルトロが「恥ずかしいとかそういう次元じゃねーだろ……」と零して、「なんだとっ!」とクインが牙を剥けば、ようやく調子が戻ったように思えて、ほっと息を吐けた。


「ボランティア潰しなんです……」


 と、子どもたちに手当てされてている神父の代わりに、シスターが言った。


「おとうさ……神父様が言うには……貧民街を、貧民街のままにしておきたい勢力があるらしいんです……」


 安価な労働力。

 クインが散々魔法学校の一般教養で聞いた話だった。


 肉体労働や技能の要らない単純労働の絡む業種においては、労働者の賃金を抑えることで効果的なコスト削減が行える。逆に言えば、安価な労働力が少なくなればそうした業種はコストが膨れ上がり、儲けが少なくなる。


「教育を受けてみなさんが能力を高めてしまうと……そういう業種の人手がなくなってしまうから……。だから『輝ける王道』みたいな冒険者パーティが……圧力をかけて……この街の貧困対策を潰して……。もう、ずっと前から……。う、うちは中央教会の後ろ楯があるからまだ……。他のところは燃やされたり……こ、ころ……」


 それ以上は何も言えなくなってしまったシスターに、バルトロが「俺の知り合いに頼んでしばらく見回ってもらう。ちょっと休みな」と声をかけて、ふたりは教会を後にする。


 いつもだったら、やたらに歩幅の広いバルトロが先に歩いて、その後を早足でクインが追いかける。

 が、今日だけは別だった。


「おい、待てよ」


 クインがほとんど走っているような速度で先に行く。バルトロはそれを心配して追いかけて、街の外れの角を何度も折れて人影も見当たらなくなったところで、ようやく手首をつかむ。


 そして、その手が血が滲むほど強く握りしめられていることに気付いた。


「……っ、くっ……」

「……手、緩めろよ。爪が折れちまうぞ」


 泣いていた。

 ボロボロと。奥歯を噛みしめて、クインが。


「知らな、かったんだ……!」


 悲鳴と変わらないような声で、クインが言った。


「『輝ける王道』が、あんなことをしてるなんて、知らなかった。知らなかったんだ……!」

「……だろうよ」


 バルトロが、子どもをあやすようにクインを片腕で抱き寄せた。


「見てりゃわかるよ。お前、潔癖なやつだもんな。なんせ家のトイレで立って小便するのすら許してくれねえんだ。あんな真似、知ってたら絶対許さねえって、俺でもわかるさ」

「あれは、お前がゲリラ豪雨みたいな勢いで小便するからだ……!!」


 ずっ、とクインは鼻を啜りながら、


「僕は、自分が許せない……!」

「しょうがねえだろ。知らなかったんだからよ」

「しょうがないわけないだろ!!」


 どん、とクインはバルトロを突き放した。

 もちろん、バルトロの体格を相手にして、クインの力ごときは何ということもない。が、バルトロは素直に、突き放されるがままに、突き放された。


「たとえば井戸に毒を入れて……、毒を飲んだ人間がいるか知らないから関係ないだなんて、そんなことが言えるのか!?」

「お前は毒だって知らなかったんだろ?」

「…………」


 クインは思い出している。自分が『輝ける王道』にいたときに作成した魔法武具の数々。それに、装備の調達だって気付けば自分たちの仕事になっていた。その書類を作ったこともあるし、最終的な購入決定を自分の許可でしたことだってある。


 確かにそれは、モンスターを相手にするものだと思っていたけれど。

 モンスターを倒すための武器が、人間を相手にだって使えることなんて、当然、知っておかなければならないはずのことで。


 言い逃れを、するつもりはなかった。


「知ってたさ……。力が、人を傷つけることくらい……」


 バルトロが、大きく目を見開く。


 それがクインの言葉にだったのか、それともこれからクインに起こることにだったのかはわからないけれど。


 とにかく、また間に合わなかったことだけは確かだった。


「危――」

「おらよっ!!」


 横合いから、拳が飛んできた。

 クインめがけて。


 普段だったらもっと違ったのかもしれない。万全の状態のクインだったら、避けるくらいのことはできたのかもしれない。が、このときはできなかった。それがすべてで、


「ぐっ――!」


 鼻の骨を横合いから殴られて、血を撒きながらクインは地面に倒れ込んだ。


「ははっ!! マジでいるじゃねえの、クイン!!」


 キーガス・デッドレッド。

『輝ける王道』の物理部隊長。


 プランナー・セントバーグを除けば『輝ける王道』最強と言って差し支えない、正真正銘のA級冒険者が、そこにいた。


「き、キーガス、貴様……」


 鼻を押さえて、杖を抜きながらクインが身体を起こす。それを嘲って、キーガスは笑った。


「なんかうちの使えねーやつらが、『クインに負けた』とか言って帰ってきたからさ。いや使えねー上につまんねー嘘つくなと思って顔面十発ぐらい殴ってやったらよ、それでも本当だとか言い張るじゃん。んで見に来たら、まさかの本物だもんなあ! 感動の再会ってやつ?」


 うれしくなって殴っちゃったよ、とキーガスは拳を擦る。

 そして腰に収めた剣をすらりと抜くと、


「ま、殺すんだけどな。邪魔だし」

「お前は――こんなことをしていて恥ずかしくないのか!!」

「ないね。強いやつが弱いやつを食い物にして何が悪いわけ? 自然の摂理じゃん」


 キーガスは肩を竦めると、


「お前が信用されないのはそういうところだよ。甘ちゃんなんだよな。だから実働がオレら物理部隊だけに限られてたわけ。遅かれ早かれ、お前はパージされてたと思うぜ? やりにくいったらありゃしねえ。後釜にもうちょい清濁呑めるやつを置いてからは、色々回し方にも幅が出たしな。……にしても、綺麗で潔癖なお前が死ぬのが、この薄汚え街か。……はは」


 ウケるな、と言いながらキーガスが剣を振りかぶる。クインが杖に魔力を込める。


 交錯。

 する寸前。


「……は? 何、おっさん。死にてえわけ?」

「……友達なもんでな」


 二人の間に、バルトロが割り込んだ。


「ば……バカ! 何をしてるんだ!」


 焦ったのはクインだった。


 キーガスの実力は知っている。いけ好かないが、それはそれとして力は認めざるを得ない。一対一では、遠距離戦なら勝てるが、この間合いでは勝てない。


 だから、この街でその日暮らしで酒を飲み暮らしているこんなでかいだけのおっさんが勝てるわけがないと、わかっていた。


 慌てるクインを、キーガスは「ふぅん」と面白そうに見て、


「友達だったら何? 代わりに殺されてくれるってわけ? ま、それも面白そうだけどぉ?」

「……いや、そんなことはしねえよ」


 バルトロが腕をまくる。キーガスが構える。

 それから、こう言って笑った。


「おいおい。図体だけのおっさんが、やる気になっちゃってるわけ? 面白いじゃん。ズッタズタに引き裂いて――」

「いや」


 それもまた、バルトロは否定して。


「は――?」


 クインの目が、驚きに見開かれる。


 バルトロが、地面に足をつく。


 手をつく。


 額をつく。




「見逃してください――お願いします」




 360度。

 どこから見ても見事な、土下座だった。






「おい、どこ行く気だ」


 深夜。

 杖を持って出て行こうとするクインを、バルトロが呼び止めた。


「……お前には関係ない」

「いーや、あるね。お前がうるさくするから起きちまった。睡眠を邪魔されたんだから、その邪魔の理由を訊く権利くらい俺にはある」

「……だったら普段の猛獣みたいないびきの理由を訊きたいものだ」


 軽口を叩きながら、けれどバルトロの声は、今までで一番真剣だった。


「やめろよ。……勝てねえだろ」

「だからどうした」


 バルトロの言うことは、クインも自分でわかっていた。


 一対一で、不意打ちとはいえキーガス・デッドレッドに負けた。仮にもう一度戦って勝てたとしても、キーガスの部下だっているし、そのうえパーティ長のプランナー・セントバーグだっている。


 勝てっこない。

 そんなことは、わかっているのだ。


「それでも僕は、決着をつけなくちゃいけない。そうしなきゃいけない。罪を背負ったら、償わなくちゃいけないんだ」

「死ぬぞ」

「だからどうした。どんなに強い生き物だって、殺されるか餓死するかして死ぬんだ」

「ガキが、んなこと言うな」

「お前が教えてくれたことだ」


 不思議と、クインの瞳は凪いでいた。感情の揺らぎがない、穏やかな目。


「僕は社会というものが好きだ」


 クインは言った。


「恥ずかしい話だが、僕はここに来るまで、社会というものが何なのかわかっていなかった。貴族の家、名門学校、大手の就職先。そういう社会の上流にいることで、かえってその存在を実感したことがなかったんだ」


 でも違う、と。

 首を横に振って、


「たくさんの仕事をしてわかった。僕たちの世界は、様々なものが相互に支え合って動いている。当たり前に動いているように見えるシステムだって、本当は生身の人間が動かしている。

 僕はそれを、美しいと思う。これも、君の言っていたとおりの言葉だ。困ったときは助け合う。そういうシステムを人間が作り上げてきたことを、僕は誇りにすら思う。……でも今は、そのシステムが不当に歪められている」


 僕は社会が好きだ、と。

 もう一度、クインは言って、


「でも、それが特定の人々に、不当な利益と不当な損失を与えているのなら、正したいと思う。自分がその歪みに加担してきたなら、なおさら」


 言い切って、長い沈黙。

 無精ひげをなぞりながら、バルトロが、ぽつり、と零した。


「……俺は、馬鹿だからお前の言うことよくわかんねえけどさ」


 どこか遠くを見るような目をして。

 窓から零れる星の明かりに、その顔を照らされて。


「むかーし、俺も冒険者をやってたのよ。お前と違って、そんなでかいところってわけじゃねえよ。ひとりぼっちでさ。気が向いたらあっちでふらふら、こっちでふらふら。気ままにやってたんだ」

「……想像がつくな」

「だろ? 実際、性にも合ってた。なんせこの体格だろ? それなりに腕に自信もあったし、なんならこのまま一生、足腰立たなくなるまで続けるのもありだと思ってたのよ」

「……それこそ、殺されるか餓死するかどっちかだな」

「いやいや。その頃は貯金してたから、足腰立たなくなるまで生き残ってりゃ布団の上で死ねたさ」


 今も貯金しろ、とクインが言えば、へへ、とバルトロは笑った。


「なら、どうしてやめたんだ?」

「わかんなくなっちまったのよ」

「わからなく……?」


 そう、とバルトロは、遠い記憶を見るように、宙に視線を漂わせて、


「困ってた村があったんだよ。でっけえモンスターが出るって言ってさ。んで、その頃はでっけえ剣を使ってたから、肩に担いでよいしょ、って撫で斬りにしてやったわけ。んで巣の中を見たら幼体もいたからさ、そいつもついでに斬ったわけ」


 相槌を打つでもなく、クインはそれを聞いていた。

 強いて言うなら、結構しっかりした冒険者だったんだな、という感想だった。大型モンスターの幼体まで根絶やしにするのは、討伐任務の基本といえば基本だ。


「モンスターの首を切り取って村まで帰ったらもう、大英雄よ。男も女もじーさんもばーさんもガキんちょも全員寄ってきてさ。すげえすげえって大騒ぎ。で、そのときにふっとガキのことを見たらさ、こう思っちゃったわけよ」


 息を吸う。

 吐く。

 冬の霜光が、窓の外で揺らいだ。


 言った。


「『あれ? こいつら、さっきのモンスターと何が違うんだ?』って」


 その言葉を、クインは呑み込もうとして、

 できなくて、


「それは、どういう……」

「そのガキどものうちのひとりがさ、殺した幼生のモンスターと被っちまったわけよ。俺はガキを殺すやつなんか大っ嫌いさ。その頃の俺だったら、目の前にそんなやついたら、お前なんか比じゃないくらいブチギレて一発目から殺してた。でも、だから思ったのよ。『どうして俺は、モンスターのガキならぶち殺せるんだ?』ってな」


 唐突な問いかけだった。

 クイン自身、ダンジョンアタックでモンスターの幼体を焼いたことはある。

 けれど、考えたこともなかった。


「それは……きっと、」

「ああ、別に答えを求めてるわけじゃねえんだ」


 クインが喋り出したのを、バルトロは声で制する。


「わかってんだよ。頭じゃ。モンスターを殺せるのはモンスターだから。人間を殺さねえのは人間だから。でも、心が納得しねえ。……なあ、本当に違いなんてあるのか?」


 じっと、バルトロはクインを見つめた。


「お前の言ってることは、きっと立派なんだと思う。でも、お前が歪んでると思う社会ってやつに、助けられてるやつもいるんじゃねえのか? あの教会のガキどもと、『輝ける王道』のやつらに、何か違いがあるのか? 結局、幸せを求めてるって点では同じなんじゃねえのか?」


 乾いた唇を、クインが舐めた。


「それは……」

「頭じゃわかってる。『輝ける王道』のやつらが悪い。ガキどもは可哀想。でも、心が納得しねえ。中立でいたいって思っちまう。どっちかに肩入れすることが正しいと思ってくれねえ。全部正義に見えるし、全部が悪にも見える。……なあ、クイン。本当にお前が信じる『歪み』とか『正しさ』なんてもの、この世に存在するのかよ。お前が感じてるものって、本物なのか?」


 詰問では、なかった。

 ただの疑問だった。本当に、バルトロはわからないらしかった。


 それもそうだろう、とクインは思う。自分だって、わからなかった。


 ついこの間までだったら。




「正しさは、存在する」




 きっぱりと。

 夜の闇を裂くような声で、クインが言った。


 バルトロの目が、大きく開く。

 その表情は、信じられないと言いたげに。


「正しさから逃げるなよ、バルトロ。確かに、それについて考えることは難しい。だけど、初めから正しさを目指そうとしなかったら、すべてはどんどん悪い方向へ向かってしまう。……お前は難しい話が苦手らしいな。だから、簡潔に言ってやる。両方の立場になって考えてみろ。もしお前が『輝ける王道』のメンバーだったら、今の状況をどう思う?」

「……気分はよかねえな。弱いやつの死体の上でのんきに寝てるってのは、どうもよ」

「なら将来を制限されているこの街の人間だったら?」

「んなもん、ムカつくに決まってんだろ」

「なら歪んでるだろう」


 あ?とバルトロは口を開ける。

 待て待て待て、と顎に手を当てて考えこもうとするが、待たない。


「じゃあ誰もが誰に邪魔されることなく、ちゃんとしたチャンスを与えられる世界のことを、どう思う?」

「そんなん……」


 言いかけて、はあ、と大きく溜息を吐いて、


「気分良いに決まってんだろ。……ダメだな。俺はやっぱりこういうのに向いてねえ。本当は引き留めるつもりだったのによ、」


 気分が乗ってきちまった、とバルトロは立ち上がった。今度は驚くのはクインの番で、


「どういうつもりだ?」

「どういうつもりもねえだろ。一緒に行くってんだよ」

「いや……死ぬぞ?」

「おめーが言うな。それに、腕にゃそれなりの自信があんだ。死なねえよ。ふたりで行きゃあ」


 別に、見栄で言っているわけでもなさそうで。

 不思議に思って、クインは訊いた。


「そんなに自信があるなら、どうしてキーガスなんかに……」

「……なあ、貴族の家ってさ、やっぱりアレあんの?」

「は?」

「こう、指パッチンしたら執事とかメイドさんとかが出てきてくれるやつだよ」


 何の話だ、と戸惑いながら「あ、ああ……」とクインが頷くと、「やっぱりあんのか」と子どもみたいな顔でバルトロは笑って、


「あれと同じだよ。あの土下座は」

「何?」

「手と足と頭を地面につけるとな、どんなにキレててもあいつら引き下がるんだ。そういう合図だから」


 あれは見た目と実際の上下関係が逆なのさ、とバルトロは腕を組んで、うんうん頷く。


 しばらくぽかん、とした後、クインは、ふっ、と笑ってしまって、


「――身体も心もでかい男だな、君は」


 それにバルトロは照れるでもなく、ああ、と頷いて、


「ちんぽもでかいぜ」

「そんなことは訊いてない」

「あ、あと途中で質屋に寄っていいか? たぶんあそこのジジイ俺のファンだからどこにも流してねーと思うんだけど。昔使ってた剣、前に博打で負けたときに質屋に売っ払っちまったんだよな。あといま手持ちないから、買い戻しの金貸してくれ。今度お馬さんレースに行ってくるから倍にして返すぜ」

「死ね」


 お前は上げた株を落とさないと気が済まないのか、と言いながらクインが部屋を出て行く。

 なんだよお前もお馬さんレースに行きたいのか、パカパカしてて可愛いぞ、なんて言いながらバルトロがその後を追う。


 街に、冬の夜風が吹いている。


 足取りは、不思議と軽かった。






 これはありがちな話であるが、神経質で潔癖な魔法使いというのは短期戦よりも長期戦の方が得意な傾向にある。


 それも、一般的な長期戦ではない。一方的に狙いを定めて、最初の一撃を自由なタイミングで打てる。こういう形に持ち込めた場合、このタイプの魔法使いは近接戦闘の百倍くらいの強さになる。


 凝り性が良い方向に向かうのだ。魔法というのは、複雑に編めば編むほど強くなる。近接戦闘というのが早編み合戦と考えれば、完璧主義の魔法使いが放つ渾身の編み物がどれだけ恐ろしいものか、ということがわかるだろう。


 実を言うと、クインもこのタイプである。ダンジョン内で集団戦中にぶっ放すには物騒すぎる技だから大して重視されたことのない技能だけれど、なんならあの恐るべき早打ちですら『輝ける王道』に就職した後、前衛を抜けてきたモンスターから後衛のパーティを守るために身につけた後付けの技術に過ぎない。


 クインの飛び級を決める職員会議では、彼の写真の横に、こんな所感が書かれていたそうである。



「天性に目立つところなし。が、努力家。執念について言えば、歴代学長と比較しても劣るところなし。長距離砲については、鍛えを怠らなければ史上を紐解いても三指に入るまでの成長が見込める」



 結論から言うと、何も知らない人間まで死ぬことはなかろうとクインが人命に配慮して手加減した長距離砲は、たったの一撃で『輝ける王道』の宿舎を半壊させた。


 この星が終わるのかと思った、とその光を目撃した王都民は、のちに語ったそうである。






「クイン!! てめえ!!」


 さすがの身のこなしで、咄嗟に長距離砲を免れたらしい。瓦礫の中から姿を現したのは、キーガス・デッドレッド。すでに抜刀して、その激怒を隠そうともしていない。


「やってくれたなこのプッツン野郎!! こんなことしてタダで済むと思ってんのか!?」

「さあ。汚水でもかけられるのかな」


 気負いはない。

 杖を片手に、クイン・ヴァ・シャローズが前に出る。


「あれ?」


 空気を読まないのはバルトロ。

 布に包まれた、自分の背丈ほどもある大剣を背負った彼は、ぽりぽりと頬を掻きながら、


「なんかもっとすげえボスみたいなのがいるんじゃなかったか? 死んだ?」

「セントバーグさんがこんなへなちょこの魔法で死ぬかよ、この肉ダルマ!!」

「だ、そうだ。おそらく地下に逃げたな」

「地下ぁ?」


 ああ、とクインは懐から小さな紙を取り出して、バルトロに手渡す。


「もしものときのための避難経路だ。僕には隠していたつもりだろうが、図面を見れば空白地帯がバレバレだ。浅知恵だよ。あとは王都地下の下水管の構造から考えて、おそらくその三種の中のどれかと同じ形をしているはずだ」

「俺、地図読むの苦手なんだよなあ」


 早速ぐるぐる地図を回し始めたバルトロに、クインが、


「どうやって冒険者をやってたんだ」

「勘。あと、臭いかな」

「じゃあ大丈夫だ。やつはいつも香水をつけてる」

「お、ラッキー」

「てめえらオレを無視してんじゃねえぞ!!」


 はいはい、とクインが再びキーガスと向き合う。


「慌てなくても、すぐに叩きのめしてやる。腕を握られたので一発。バッグを腹に投げられた分で、二発。昨日の鼻ので計三発だ」


 ピッ、とクインは指を突き出して、


「三発で負かしてやるよ。『なんちゃってサディスト』くん」

「おもしれえ……。その綺麗な面ズッタズタにして泣かせてやるよ」


 んじゃ俺は先に行くぜ、とバルトロが地図を手に走っていく。

 頼んだ、とクインがそれに声を送る。


 キーガスは、動かなかった。


「追わなくていいのか?」

「必要がねえ。セントバーグさんが負けるわけねえからな」


 それに、とキーガスは剣の先を動かして、


「どうせ、お前はオレに勝てねえ。オレは勝ってから、のんびりセントバーグさんの増援に駆けつけりゃいいのさ」


 わかってんだろ、と厭らしい笑みで。


 そこからは間合いの取り合いだった。

 魔法使いと剣士の戦闘というのは、結局のところそこに終始する。


 遠ければ、魔法使いが勝つ。

 近ければ、剣士が勝つ。


 それだけの戦い。相手に有利を引かせないようにする戦い。遠くも近くもない場所で、決して相手に主導権を握らせないようにする戦い。


 だが、根本的にはこの場面では、魔法使いの方が不利になる。

 なぜならば、


「遅えんだよッ! 亀野郎!!」


 剣士の方が、筋力に優れているから。


 俊敏さ――間合いの取り合いは技術的な側面が確かに多いけれど、それでも筋力の壁というのは同じ技量帯同士の対決において、厳然として存在する。


 その一瞬を、見極めるだけの力がキーガス・デッドレッドにはあった。

 自分が戦闘行動に移っても、クイン・ヴァ・シャローズが迎撃に出るための魔法を放つことのできないたった一瞬を、捉えるだけの力があった。


 そのことを、クインは知っていた。


 だから、前に出た。


「は――――?」


――――いいか、クイン。必殺技を教えてやる。


 風魔法の逆噴射。

 確かに、キーガスの捉えた一瞬は爆発魔法の発動までには満たないたった一瞬を捉えていたけれど、もっと威力の低い、殺傷能力がない分発動のための魔力が少なく済むような補助魔法ならば、その一瞬を置き去りにして発動できる。


――――近付け。とにかく。戦闘っていうのはな、相手の予測できないことをやるものなんだ。


「悪足搔きを――!」


 ぴたり、とクインの身体がキーガスに肉薄する。

 が、まだキーガスは冷静さを失っていない。


 超接近戦は、さらに魔法使いに不利だ。なぜなら、杖先を押さえ込んでしまえばそれまでだから。魔法が発動する瞬間の杖先を避けてしまえば、それで向こうの攻撃は無力化できるから。


 キーガスにとっては幸いなことに、クインの杖先は空を向いていた。


――近付いたら、とにかく杖先を見せろ。そこに注目させろ。それがブラフになる。


 大丈夫だ、とキーガスは思う。

 このまま杖先が空を向いていればいい。杖先から目線を離さなければいい。これが魔法を使う一瞬を避ければ、自分の勝ちだ――


――んで、たっぷり注目させたらな、


「――――あ?」


――その杖、鼻に突っ込んでやれ。


「あッ、ガァアアアアアアアア!!!!」


 ()()()()()()()からの一撃だった。


 当たり前の話だった。魔法使いの杖が、まさか物理攻撃に使われるだなんて、誰も思わない。モンスター相手に振ったらぽきりと折れて、それでおしまい。どう考えても非効率的で、誰がやっているところも見たことがない。


 だから、油断した。

 キーガス・デッドレッドは、よりにもよって超近接戦闘で、魔法使いに物理攻撃を食らわされた。


 鼻の奥まで杖先が食い込む。反射的にキーガスは目を瞑っている。その間、クインは何をやってもいい。


 たとえば、右の手を振りかぶって、


 鼻に向かって、パンチをしてみたって構わない。


 鼻の中で杖がぽきりと折れて、それでおしまい。


「――――――!!」


 今度はもう、声にもならない。


 キーガスがその痛みから復帰して、何とか目を開けたときには、もう勝負はついている。


「まあ、約束は約束だからな。もう勝負はついているが、三発目は打たせてもらう」


 胸の真ん中に、クインの予備の杖がぴたりと当てられている。


 いくら超接近でも、これは外せない。一流の魔法使いなら、この状況からはもう外さない。


 杖の先に、光が灯っている。


「最近、僕は思ったんだ」

「――は?」

「魔法って、最終形を想像してから編むんだよ。そして、そこに至るまでは発動できない。……だけどこれ、短期戦ならともかく、長期戦だと不便だと思わないか? 時間はある限り有効活用したいし、このくらいの時間があるはずだと思って編み始めたら、奇襲を食らって死んじゃいましたなんていうのもつまらないだろう」

「一体、何の話を――」


 そこで、キーガスは気付いた。

 光が、どんどん大きくなっている。


「だから、僕は考えたんだ。時間をかければかけるだけ強くできて、いつでも発動できる魔法の編み方を。……残念ながら、超威力でしか使えないみたいで、あんまり使い勝手はよくないんだけど」

「な、おま――」


 そして、キーガスは思い出している。

 何度も顔面を殴ってやった部下が言っていた言葉。


――あいつ、普通じゃないっすよ!!

――いかれてます! 前までのクインとは全然違う!!

――とんでもねえプッツン野郎に、変わってたんですよ!!


 キーガスは、クインのことを。


 大したやつじゃないと思っていた。

 いつでも勝てると思っていた。


 突き放して、脅し付けてやれば、何もできずに泣き寝入りするようなやつだと思っていた。


 それが。


 今は、こんなにも。


「さあ、キーガス」


 に、と。

 信じられないくらい綺麗な顔で、クインは笑った。





「どのくらい経ってから打ってほしい?


――――8時間くらいか?」





「――い、いま」


 キーガスは、震える声で、


「頼むッ!! いまッ! いま打ってくれぇエエエエエ!!!」


 どん、と。


 爆発音が轟いて。


 残ったのは、胸のあたりから煙を上げる体格のいい男と。


 それを見下ろす、杖を持った少年だけ。


 少年は困ったように頬をかくと、小さくこんなことを言った。



「――僕、結構根に持つタイプだったんだな」






 自信があったのだと思う。

 プランナー・セントバーグは。


 それも無理からぬことと言えば無理からぬことである。何せこの男、キーガス・デッドレッドより近接戦闘に長けている。魔法はクイン・ヴァ・シャローズに一枚二枚劣るものの、決して悪くはない。長距離砲だって使える。そのうえ貧民街のボランティア潰しを足掛かりに財界にもパイプを伸ばすなど、政治力だって三十そこらの一端の冒険者にしては破格の高さである。


 だから、調子に乗っていたと言えば乗っていた。


 自分を追ってくる人間を、うっかり迎え撃とうなどと考えてしまった。


「お、香水臭え。あんたが大ボスか?」

「ふん。随分なご挨拶だな。貧民街の野蛮人」


 プランナー・セントバーグは二刀流の使い手である。

 両腰に提げたそれを一刀ずつ、すらりと抜き放った。攻防一体の剣技。それで幾体、幾人もの難敵を葬り去ってきた自負がある。


『輝ける王道』はA級パーティの中でも、集団型と言われるタイプである。


 パーティランクの昇格には、おおむね二通りがある。ひとつは、とんでもない偉業を成して、半ば強制的に冒険者ギルドに昇格を認めさせること。もうひとつは、『輝ける王道』のように、ダンジョンアタック数や素材提供数、依頼達成数やパーティ収益、人員数などを総合的に勘案して、ギルドが月例会でそれに相応しいと認めること。


 前者が個人型。後者が集団型と呼ばれている。後者はほとんど大所帯のパーティを組まない限り達成不能だからだ。


 プランナー・セントバーグは権力欲の強い男である。

 生まれたときから、自分が他者より優れた人物であることには気付いていた。そして、その優越を振り回したいと思うだけの心性も備わっていた。


 ゆえに、A級冒険者という地位を欲した。その達成のしやすさから集団型という方法で手っ取り早くA級に上がりはしたものの、内心ではこう思っている。


 自分なら、個人型の道でもA級に上り詰められただろう、と。


「――にしても、バカなやつだ」

「あん?」


 プランナーの言葉に、バルトロはつまらなそうに応じる。それを気にするでもなく、プランナーは語り続けた。


「勝っても負けても君たちに未来はないのさ。負けたら死ぬのはもちろん、勝ったってどうしようもない。これだけの騒ぎを起こして、警察にどう説明するつもりだ? どれだけ正しいことをしたつもりでも、世間はそうは思ってくれない。さっきの長距離砲で死者でも出ていれば、死罪は免れないだろうな」

「死んでねえだろ。あいつが計算して打ったって言ってんだから。なんなら無傷のやつだって結構いると思うぜ。お前を助ける気がねえから、ほとぼりが冷めるのを待ってるだけで」

「ふん、クインか……」


 プランナーは、鼻で笑うようにして、


「あいつもマヌケなやつだ。能力が高いから少しばかり重宝してやったが……、結局のところ、清濁併せ呑めない人間は何も得られないのだよ。挙句の果てにこんなバカ騒ぎだ。全く信じられん。自分が正しいとでも思っているのか? あの小僧は」

「――あのよ。俺、バカだから難しいことはよくわかんねーんだけどさ」


 バルトロは、そこに呆れたように割り込んで、


「お前ら、清濁併せ呑むっていうか、汚水だけガブガブ飲んでるじゃねーか。きったねーの」

「……挑発のつもりか? 安いな」


 プランナーは前髪を指で払って、


「何が正しいかなど、どこに立つかによって変わるのだ。確かに、私たちは貧民街の慈善団体なぞという偽善者集団を壊して殺して回っている。が、それの何が悪い? 所詮貧乏人は貧乏人。生まれながらに劣った生き物たちだ。そいつらを奴隷として使って何が悪い? 優れたものには劣ったものを使い潰す権利がある。私たちがそうすることで、経済が回るんだ。経済が回れば文明が進む。人類の発展に貢献しているのは私たちだ。本来足を引っ張るだけの出来損ないどもを正しく使ってやってるんだから、感謝してほしいくらいだよ」

「……お前、ぺらぺらうるせーな。A級の大将つったら、もっと悪人にしてもスカッとしたやつなのかと思ったぜ」

「ハッ。反論ができなくなったら負け惜しみか?」


 プランナーは、片方の剣先でバルトロを指して、


「ならば答えてみろ。お前はいま、正しいことをしているのか!?」

「ああ」

「――ならば、その正しさの理由を答えてみろ!」


 はあ、と大きくバルトロは溜息を吐いた。


「こういうの、決まり切ってるときに訊かれると微妙なもんだな……。あとでクインのやつに鬱陶しいことして悪かった、って謝っとこ……」

「答えらえれないなら――」

「あー! うるせー、うるせー」


 ひょい、とバルトロが背に差した剣を手に取った。

 背丈と同じくらいの大きさの大剣。布を解けば、真っ赤な文様が刀身に走った、異様な意匠の黒剣が現れる。




「迷ったらガキの味方することにしたんだよ、俺は。舌戦がしてえんなら、ぶっ倒れてからクインとやれや」



 一振り。

 ぶおん、と空気が揺らいで、その余波だけでプランナーの皮膚がびりびりと震えた。


 そして、その瞳は、肌以上に震えている。


「――待て、お前。なんだその武器は」

「あ? ――ああ。昔な」

「竜紋入りの武具をどこで手に入れた!! 竜殺しの武器だぞ!!」


 竜。

 モンスターの頂点。もしもこれを殺せたのなら、そのたったひとつの功績で以てA級まで上り詰めることのできる、最強の象徴。


 竜紋というのは、竜を殺した際にその血を浴びた武具に現れる強烈な祝福で、呪縛で、本質的には圧倒的な強化魔法である。


 馬鹿な、とプランナーは思っている。

 竜紋入りの武具はいくつも存在する。一度生まれたそれらは、決して朽ちないからだ。だから、プランナーもいずれは手に入れようと画策していた。


 が、このサイズの武器は、知らない。

 こんな大剣は。


 最も新しい、まだ歴史書に載っていない伝説。

 たったひとりで竜殺しを達成して姿を消した、幻の冒険者を除いては――、


「貴様まさか――バルトロ・デールヴァインか!?」

「初めまして!」


 間抜けな声とともに、バルトロが大剣を叩きつけた。


 本当に、無造作な一撃である。

 武術を極めた者からすれば顔を顰めたくなるような、あまりにも雑な一撃。


 それが、プランナーには避けられない。


「がッ――!!」


 ぱりん、と甲高い音を立てて、受けに使った双剣が砕け散った。決して粗末な造りではない。A級に上がるまでの難敵を打ち倒してきた、年季の入った名品が、一撃で、なすすべもなく砕け散った。


 その勢いで、プランナーは五メートル、十メートルと吹き飛ぶ。

 這いつくばって動けなくなっているのに、バルトロは大声で、


「どうしたよ! もう終いか!?」

「勝手な、ことを……!」

「バルトロ!」


 そのとき、クインが地下道に駆けつけた。

 もちろん、キーガス・デッドレッドを無傷で退けてから。


 馬鹿な、とプランナーは目を見開いた。この大男がひとりで現れたときには、クインは死んだものと思っていた。キーガスに一対一で勝てるような強さは、この少年にはなかったはずだ。


 どうなってる、と言いたくなる口を、プランナーはどうにか押さえ込んだ。


「ま、待て……! 取引をしよう!」


 詰みだ、とプランナーは考えていた。このままだと、詰んでしまう。


 伝説の竜殺し、バルトロ・デールヴァインが出てきた時点で雲行きが怪しくなっていた。この男を何とか機転を利かせて退けたとして、クインを相手にするのは荷が重い。その上、バルトロとの戦闘中にクインが長距離砲を練ったりしてくれば、いくら自分と言えどもひょっとすると、万が一、勝てないこともあるかもしれない。


 だから、いつものようにクレバーな手段を取った。


「取引?」


 しめた、とプランナーは思う。話に乗ってきたのはクインの方。バルトロのようないかにも単細胞の大男は難しいかもしれないが、この賢い少年なら自分の提案を理解できる。そして、適度に愚かだから、きっと自分の口車に乗る。


「そうだ! わかっている、クイン。君は本当は、うちに戻りたいんだろう?」


 けっ、とバルトロが吐き捨てる。

 それを、プランナーは気にしない。


「何せA級だ! 君だって貴族の出、名門の出、そのうえうちの部隊長だ! わかってるよ。君にはまた上流に返り咲きたい気持ちがある。私も同じだから、わかるんだ」


 できるだけソフトな声で、同情と共感を示すように。

 プランナーは、笑顔さえ見せながら、クインに語りかけていた。


「人の上に立つのは気持ちいいだろう? いいさ! また『輝ける王道』に君の席を用意しよう! 経歴に傷がついたことを気にするかもしれないが、なに、次はキーガスより上だ! 副リーダーにして、私に次ぐ権力を与えよう、どうだ!?」

「……そういうことを、言いに来たんじゃありません」


 冷たい声。

 けれど、プランナーは諦めなかった。


「落ち着くんだ。キーガスから聞いたよ。貧困ビジネスに腹を立てているんだろう? だけど、それはまやかしだよ。たまたま、君の怒りを正当化するために選ばれた後付けの理由のひとつに過ぎない。私にはわかるんだ。君のような上流の人間は、本当の意味ではああいう劣った人間たちに同情しないようにできている。本当の君の怒りは、自分の地位をなくしたこと。それに尽きるんだ。別の怒りを、別の理由に投影しているに過ぎないんだよ!」


 ちらり、とクインがバルトロを見た。

 いいぜ、とバルトロが頷いた。


「落ち着け! こんなに上手い取引はないぞ! 君はこの機を逃したら一生獄中だ! 今なら間に合う! あんな出来損ないどもに同情して人生を台無しにするなんて……ダメだ! 君らしくもない!」

「もしも、社会の中で立場の弱い人たちを助けたいと思うことが、」


 静かに語りながら、クインは歩く。

 かつての上司、プランナーに向かって。


「もしも、正しいことを正しいと信じて、歪みを正そうとすることが、」

「待て! それ以上近づくんじゃない! 君は取り返しのつかないことを――」

「もしも、罪を償おうとすることが、

 もしも、誰もが努力できてそれが報われる世の中であってほしいと思うことが、

 もしも、人を物のように扱うクソ外道を目いっぱいぶん殴ることが、」


 ぴたり、とクインは目の前で立ち止まる。

 きっぱりと、こう言った。




「そうすることがダメなことだって言うなら、僕は一生、ダメ人間だって構わない」





 杖先は、プランナーの胸の真ん中。


「わ、私は……」


 震える声で、


「生まれながらの、強者だ。こんな、こんな結末があるわけが……」

「プランナー・セントバーグ。こんな話を知っていますか」


 また、クインはにっこりと笑って、





「どんなに強い生き物だって、殺されるか餓死するかして死ぬんです」

「やめろォオオオおおおおお!!!」





 光。


 発散。







「…………あちぃ」

「……おい、次に言ったら罰金だと言っただろう」


 ミーンミーンミーン、と。

 蝉の鳴く、夏の日に。


 小さな部屋で、汗まみれの美少年と、汗だらっだらの大男が、死にかけの虫みたいに、日陰に寝そべっていた。


 だいたいよ、とバルトロが言う。


「お前がもっと威力を抑えて長距離砲を打ちゃよかったんだよ。なんだ、オーバーヒートって。しかもクール期間が数ヶ月単位って。そんで氷系の魔法が一切使えませんって。ふざけてんのか」

「うるさい。過ぎたことを言うな」

「いーや、言うね。あーあ、去年の夏はよかったなー! まだこのガキにも可愛げがあったしなー!」

「うるさい。臭いんだよお前。シャワーを浴びろ」

「おいてめえ! 今のはケンカだぞ!!」

「やるかぁ!?」


 ガバリ、とふたり揃って立ち上がる。睨み合って、一秒。へなへなと床に倒れ込む。


「やめないか。無駄な体力を使うのは……」

「ばっきゃろー。俺だって、まだまだ現役世代よ……」


 暑さで今にも溶けそうなふたりは、ここちょっと冷たい、と床に顔を押し付けながら、夜が来るのを待っていた。


 そのとき、とんとん、と部屋の扉が叩かれる。


「おーい。ふたりとも、いるー?」

「います」

「勝手に入ってきてくれー」


 おじゃまします、と入ってきたのは大家のアル。二人揃って地べたで死んでるセミみたいな有様になっているのに「うわ」と声を上げて、


「スイカ貰ってきたんだけど、食べる?」


 がばっ、とふたりの顔が上がる。


「まだ冷やしてないけど」


 へなへな、と下がる。


 えー、とアルは言う。


「まだクインくん、氷の魔法使えないの? ちょっと期待して来たんだけど」

「まだ熱を持ってる感じがするので、たぶん……」

「試しにちょっとだけ! やってみたらできるかもしれないじゃん!」

「おいやめろやめろ! 失敗したらその分排熱が遅くなんだよ! 冬ごろになって『回復しました』とか言われたら俺ァぶちギレんぞ!」


 えー、とアルはもう一度言って、頬を膨らまして、


「んじゃクインくんの弟子にでも冷やしてもらおうかな。教会で」


 ぴくり、とふたつの死体が動いた。


「そうだ、その手があんじゃねーか……」

「僕は気付いていたぞ。迷惑になりそうだからお前に教えなかっただけで」

「バカ野郎! 迷惑なわけねーだろ! あのシスターの嬢ちゃんお前に惚れてんぞ!!」

「おい! 適当なことを言うな! 失礼だろう!」


 はいはい、とアルが手を叩いて、二人を宥めて、狭い部屋から抜け出していく。

 夏の日に散々炙られた末に、教会に辿り着く。


「あ……。クインさん……来てくれたんですね……」

「あ、ああ。はい……」

「ぷぷ、意識してやんの」

「うるさいぞデリカシー無し男!!」


 いつものようにクインがバルトロに牙を剥くのを、くすくすとシスターは微笑みながら見ている。そこに、でん、とアルが、


「わ……スイカですか……?」

「そう! で、クインくんがまだ氷魔法使えないって言うからさ。愛弟子ちゃんに冷やしてもらおうかと思って」

「愛弟子って……そんな……」


 ちらり、とシスターがクインを見る。クインはバルトロとの言い合いに夢中でその視線に気付かない。シスターががっくり肩を落とせば、まあまあドンマイ、とアルがその背を叩く。


 冷やしているうちに、子どもたちが来た。


 いつも人気なのはバルトロで、あっという間に遊具にされてしまう。今日は学習ボランティアのない日だけれど、教会はいつでも子どもたちの遊び場として開放されている。


 それにしても、とアルが言った。


「随分立派になったよね、教会も」

「はい……。建物ばかり立派でも、あまり意味はないんですが……」

「まあまあ、教会本部の気合の入りようとも見ればいいでしょ。それに、ここの工事は結構手当てが美味しいから、みんなから人気だったんだよ」


 以前と大して広さは変わらない。

 けれど、ところどころの古くなった部分が改築されただけで、教会はがらりと雰囲気を変えたように見えた。


 前は少し、寂しい雰囲気だったけれど。

 今はもっと、賑やかで。


「クインさんたちの……おかげです……」

「いや、僕は何も」

「でも、よく捕まんなかったよねえ。あたし、話聞いたときはとうとうバルトロも入るべきところに入ることになったかと思ったもん」

「おいお前。ひでーぞ」


 耳ざとくアルの発言を捕まえたバルトロが子どもたちにお馬さんパカパカを強いられながら、不平の声を上げる。アルはさっと手を振って返した。


 クインもバルトロも、あれだけの騒ぎを起こしながら、厳重注意のほかのお咎めはなかった。


 もちろん、理由がある。『輝ける王道』関係者一斉逮捕ののち、信じられないような量の犯罪の証拠とが出てたからである。警察の捜査によって、彼らの人を人とも思わない恐ろしい事業と計画は、白日の下に晒された。それこそ、国家転覆に至るまでの、あまりにも壮大な計画まで、一気に。


「尻尾切りだったんでしょうね」

「そう……ですね。中央教会の幹部の人たちも……そう言ってました……」


 一連の裁判があまりにもスムーズに終わったこと。

 そしてその際に提出された証拠が、A級冒険者パーティのスケールと比してもなお明らかに過大だったこと。そのことから、クインはそう結論付けている。


 つまるところ、何者かが『輝ける王道』にすべての責任をおっ被せた。

 そして、目くらましのためにクインとバルトロを救国の英雄に仕立て上げた。


 アルがふと気付いて、クインに訊いた。


「そういえばクインくん、勲章つけてないの? 国からあれだけ仰々しく貰ったのに」

「ええ、まあ……。国だって、信用できませんから」


 わかっていた。

 世の中は、社会は、誰かひとり悪者を倒せば終わり、という風にはできていない。プランナー・セントバーグが取引していたはずの事業者たちは、陰も形も見当たらないままなのだ。


 でも、それでも構わないとクインは思っている。


「まあ、クインくんは賢いもんね……。バルトロは?」

「質に入れた」


 ぶっ、とクインが水を噴いた。

 あわわ、とシスターがハンカチを口元まで寄せてくれるが、それどころではない。


「お、おまっ……馬鹿か!!」

「いや、仕方ねーだろ。お馬さんレースの種銭がいるし。大丈夫だよ。倍になるから買い戻せる買い戻せる」

「ほんっと、この男は……」


 クインとアルが頭を抱えていると、絶賛お馬さん中のバルトロは、もう一度仕方ねーだろ、と言って、


「だいたい、前の竜殺しのときも同じの貰ってんだよ。ふたつも持ってたって仕方ねーし、ひとに見せるときだって一個見せりゃ二個持ってるって思うだろ。平気だよ、平気」

「こすっからい手を……」


 クインが呆れながら、


「で、その勲章はあの狭い部屋のどこにしまってあるんだ?」

「…………あれ? やべ。もう流したんだっけ」

「お前というやつは……」

「少年。権威におもねるな。未来ある若人なら過去の勲章を誇るより、これからの選択肢の豊かさに胸を張れ……」


 もっともらしい言い訳を始めるバルトロに、またクインが噛みついてわーわーぎゃーぎゃー。今度は子どもたちもいるから、やれやれいけいけもっとやれ、と囃し立てる。


 アルはそれを苦笑しながら見ていた。


「ほんと、仲良しよねあいつら」

「はい……。ちょっと、羨ましくなるくらい……」

「お、どっちが羨ましいの?」

「え……っ? えっと……、その……」


 冗談冗談、とアルが笑い飛ばせば、シスターはあからさまにホッとした。


「ちくしょークソガキが!! 今日という今日は決着付けてやる!!」

「望むところだ!!」


 あーあー、また始まった、とアルは呆れ顔で。

 本当に仲良し、とシスターは幸せそうな顔で。


 クインとバルトロが、子どもたちを引き連れて教会の外に出て行く。

 夏の強烈な日差しが、光になって彼らを包む。


 その眩さに目を細めながら、クインは思った。


 でも、それでも構わない。


 戦なくちゃいけない場面が来たなら、またいくらでも戦ってやる。


 だって、この街には自分がいるのだから。

 だって、この街には――、


 半年前より、ずっと明るくなった街並みが、彼らを迎え入れている。

 幅の広い、新しくできた道の端に、クインとバルトロは、並んで立って。


 子どもの一人が、彼らの横に並び立った。


 その子が手を上げて、こんなことを言う。




「――――位置について、よーい」




 どん、と腕を下げれば。


 二人揃って、走り出す。




 どこまでも明るい街道を、ダメ人間ふたりが、全速力で。




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― 新着の感想 ―
[一言] 自殺企図がゲロによって阻まれる、ハートフルストーリーでした!!!
2021/05/07 22:58 退会済み
管理
[一言] 気持ちの良いお話でした
[一言] キャラクターから展開まで全て好きです。全力で熱くなれるいい話でした。
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