第七話 旧棟潜入大作戦
その夜、僕達は例の旧棟の前に立っていた。
あの後、私はやっぱり噂の事を調査したいと中条が言ってきた。もちろん荒垣くんも僕も止めたのだか、中条の意思は硬かった。あのままでは一人でも夜の学校に忍び込みそうだったので、それならばと僕らもついてきたのだ。
「確かここの窓を...うん、空いてる。」
旧棟へ入るには校内から鍵のかかったドアを開けて入らなければならないため、通常は外から中に入る事はできない。そこで、中条が吹奏楽部の友達に頼んで中に入れてもらい、予め窓の鍵を一箇所だけ開けておいたのだそうだ。
「おい、本当に入るのか?鳴海さんも言ってたけど、やめた方がいいんじゃないか?」
荒垣くんがもう一度確認するが、中条の考えは変わらなかった。
「私がわがまま言ってるのは分かってる。ごめん。でも、どうしても調べたいの。」
となれば、やっぱり僕達もついて行くしかない。さすがに事情を知った上で夜の校舎に女の子一人で行かせる訳にはいかない。ごめん、鳴海さん。
窓を開けて僕達は旧棟の建物内に侵入した。
当然ながら中は真っ暗だった。倉庫として使われているので中は物が多く、うっかりすると身体をぶつけてしまいそうになる。
倉庫として使われている区域、つまり通常立ち入りが許可されている区域は一階部分の廊下と教室。元の家庭科室と理科室にあたる部屋だ。それ以外は基本的に立ち入り禁止区域となっている。
使われていないであろう標本が並んだ棚を見るに、僕達は理科室から侵入したのだろう。
「なんかかび臭いっていうか、独特なにおいがするな。...そこの人体模型、動いたりしないよな?」
古いボロボロの人体模型を指して荒垣くんが言う。彼はもしかしてこういうのがダメな人なんだろうか。
「うーん。おかしな音は聞こえないし、変なものも見えないわよね。とりあえず廊下に出てみましょう。」
中条はまったく気にしていない様子。逞しいものだ。
僕は埃やかび臭い独特の匂いのせいか気分が悪くなってきた。早く調査を終わらせて中条を連れ帰ろう。
廊下に出ると、教室内より幾分かは明るくなった。こちら側は月光が差し込むようだ。ちなみに今日は満月だ。
「とりあえず。次は隣の...家庭科室って書いてるな。ここを調べてみるか。」
荒垣くんがドアを開く。
元家庭科室の空き教室は先程の理科室倉庫よりも雑然としていた。こちらの部屋は、おそらく生徒達が使っているのだろう。名前もよく分からない様な古びた楽器や、壊れた椅子等が乱雑に置かれている。
散らかっていてよく分からないが、特におかしな所は無さそうに見える。実際、その後に三人で室内を探ってみたが、異常は無かった。
「となると、やっぱり奥ね。」
中条が腕組みしながら言う。
そう。この旧棟にはまだ奥がある。
僕達が入ってきた理科室倉庫、そして隣の家庭科室倉庫。二階に上がる階段を挟んで、さらに奥に二部屋ある。この先、つまり奥二部屋と二階部分が立ち入り禁止区域となっていた。
「とりあえず一階奥からね。」
立ち入り禁止の立て札とロープを、何の躊躇いも無く超えていく中条。
「中条、待つんだ。もう十分だろ?これ以上はさすがにやめよう。」
声をかけたが中条は止まらないでどんどん先に行ってしまう。
「しょうがねぇ奴だな...ったく。」
荒垣くんも渋々ついて行く。
どうやら僕もついて行くしかなさそうだ。
階段の前を通り過ぎて一つ目の部屋。「多目的教室1」と書いてある。中は至って普通の教室といった感じで、古い椅子や机が角に積み重ねられていた。長年使われていないせいか先程の二部屋よりも埃が溜まっていて、空気も澱んでいる気がする。正直、いかにも何か出そうな雰囲気だった。
「くそ、マスクでもしてくれば良かった...。」
荒垣くんが顔を顰めながらシャツの襟元で口を覆った。確かにここの空気はなるべく吸いたくない。
「さっさと調べて出ようぜ。」
「そうね。付き合わせちゃってごめんね、荒垣くん。」
手早く部屋の中を調べて、ここも異常無しと判断し、僕達は一階最奥の教室の調査に取り掛かった。
「多目的教室2」と書かれたこの教室は、隣と同じく手入れのされていない普通の教室だった。やはり教室内は異常無し。ここも空振りだった。
「ふぅ...。なぁ、中条そろそろ帰ろう。時間も時間だし、二階は老朽化も進んでて本当に危ないぞ。」
「えっと、あ、日付変わってる。もうこんな時間なんだ...。」
時刻はとうに深夜。確かにそろそろ切り上げた方がいいかもしれない。帰り道で補導されたりしたら大問題だ。
「結局何も無かったんだし、ただの噂だったんだよ。僕も帰った方がいいと思う。」
中条はうーん...と悩むような素振りをみせ、
「そうだね、これ以上迷惑かけられないし、帰ろっか。」
表情からは納得した様子は見られなかったが、とりあえず今日のところは分かってくれたみたいだ。
任務達成。これ以上遅くなる前に、さっさと帰ってしまおう。
ギシ...
音がした。
全員の動きが止まる。
ギシ...ミシ...
気の所為などでは無い。
呼吸をするのも忘れる。
無意識に、感覚が耳に集中する。
ギシ...ギシ...
木の軋む音。
何かが、木の床の上を歩くような音。
ドサッ
一度大きな音がした。
上から。
この部屋の真上。
二階の最奥から。
静かになった。
やがて
ゴッ...ゴッ...ゴッ...
鈍い音が響いてきた。
絶え間なく。
一定のリズムで。
何かがいる。
確実に。僕達の上に。
恐怖で身体が動かないという経験は初めてだった。
ゴッ...ゴッ...
音は止まない。
「に、逃げよう...。」
荒垣くんが、一番初めに口を開いた。
関わってはいけない。本能がそう告げていた。
恐らく荒垣くんも同じだったのだろう。
「音を立てるとバレるかもしれない...。ゆっくり、最初の理科室倉庫まで戻るんだ。」
音を立てずに。
そう思えば思うほど、身体が強ばって思うように動かない。
息が震える。
どうにか...。どうにかして逃げないと。
そんな時だった。
「私は...行く。」
中条だった。
は?
何を言っている?
行く?どこへ?
彼女の言っている事が理解出来なかった。
「二階。音の正体を調べる。」
「な、何を...」
「馬鹿な事を言うな!」
僕の言葉を、荒垣くんが遮った。
思わず大声を出してしまって、しまったという様子で口を塞ぐ荒垣くん。
ゴッ...ゴッ...ゴッ...
音は続いている。
どうやら気付かれていないようだ。
「お前、自分が何言ってるか分かってるのか?明らかにヤバいだろ。関わっちゃダメだ。」
荒垣くんが中条の肩を掴んで説得する。
「私はこのために来たの。行かなきゃ。確かめなきゃならないの。」
中条は折れない。
「いい加減にしろ!何かあったらどうする?鳴海さんにはどう説明するつもりだ!」
中条はそれを聞き、一瞬俯き、そして荒垣くんの手を払って、
「ごめん。」
と、呟いて走っていった。
「待て、おい!クッソ!!」
僕と荒垣くんも急いで教室を出た。
階段を上がっていく音。
中条は一体どうしたんだ?
とにかく後を追うしかない。僕達も階段を駆け上がり、中条を追って、音の方へと向かった。
二階の最奥。さっきまでいた場所の真上まで辿り着いた。
中条は教室の前で立ち止まって、呆然と部屋の中を見つめていた。
僕も荒垣くんも、何も言わずに中条に近付く。
部屋には美術室と書かれている。
ゴッ...ゴッ...
鈍い音は、先程よりも鮮明に聞こえる。
時折、グチャ...と湿った音がする。
何だ?何が起きてるんだ?
中条の視線は教室内を見つめたまま、一向に動かない。
真っ直ぐ。
ただ一点を見つめて。
信じられないものを見るような様子で、目を見開いていた。
僕も視線を移した。
見たくなかった。
見るしかなかった。
ゴッ...グシャ...ゴッ...
何かが、動いていた。
拳を打ち付けている様に見える。
右手。左手。右手。左手。
交互に。一定のリズムで。
それは、こちらには目もくれず必死に拳を打ち付けていた。
自分の血か、相手の血か。
その手を真っ赤に染め上げて。
返り血でべっとりと汚れた横顔は。
僕達がよく知る顔だった。
グチャ...グチャ...
頭蓋を砕かれ、原型を失った人の形をした何か。
元の美しさは失われ、ただの肉塊となったお姫様。
動かなくなった手首には、中条が身に付けているのと同じヘアゴムが血液でどす黒く染まっていた。
――香取が鳴海さんを殴り殺していた。