3.人知を超えたもの
気が付くと、私は真っ白な空間にいた。自分の体も、何も見えない、ただ真っ白な空間だった。いや、正確には真っ白ですらないのかもしれない。本当に、何もないというしかない空間なのだ。
私の体にあったはずの疲労感も、感覚も何もない。死後の世界、なのだろうか。
「ここは……」
「ルクレーシャ。お前は最後に世界を救うことを願ったな」
何処からともなく聞こえてきた声。私はとっさに身構える。いや、身構えようとした。だがここには自分の体すら存在しないようだった。警戒する心は持てても、体がない。とても不安だ。
いや、それよりも重要なことがある。意思が伝わるにせよ、伝わらないにせよ、私が知りたいことはたくさんあるのだ。
「ここは、一体何だ。世界は……アドニスはどうなった!?」
声を出す他に可能な事は何もないと悟り、私はただ声の主に問い返した。奇跡的にアドニスが助かったと、その一言が欲しくて思わず彼の名を出してしまった。分かっている。アドニスが助かるはずはないと。どんな奇跡でも、死は避けられない。私の問いかけに、声の主は暫くの間沈黙していた。その間に耐えられず、もう一度彼がどうなったのか問おうとした時。ようやく相手が声を発した。
「あの世界はもう救えぬ。だが世界は無数に存在する。お前ほどの実力があれば、同じ運命を辿るであろう別の世界を救うことができるかもしれぬ。……お前達と同じように苦しむことが無いように、手伝ってみる気はないか。その為ならば、お前を救い力を貸そう」
私達の世界はもう救えない。その言葉に、ただただ絶望する。アドニスと、私と、数え切れないほど多くの者達が生きるために戦い、そして命を散らしていったのに。私たちが戦った意味はなく、何もかもが手遅れであったということだろうか。世界が無数に存在するということは、声の主にとっては私達が必死に生きたあの世界も、砂粒のようにただそこに転がっている無価値なものなのかもしれない。
私の心は震えた。救えないとどうして簡単に言い切るのだろう。私たちの努力は、死は意味があるものだと。信じることすら許されないのか。行き場の無い怒りが私を狂わせる。私は死んでも救いが欲しかったのに。この残酷に真実を告げるこの無情さ。
私の救いたかった世界は、もう救いようがないと声の主から捨てられたのだ。それは、声の主にとっては、既に終わった過去になったのか。私の愛した世界は、見捨てられた世界になったのか。
仮にこの声の主を神とする。神にすら救いようがないと、匙を投げられた世界に未来はない。それは私が見た夢に終止符が打たれるのと同じこと。もう二度とあの世界は帰ってこない。故郷を取り戻せると信じて戦っていたが、初めから希望なんてなかったということになる。
実は、もう無理かもしれないと諦めていた部分もあった。死にゆく仲間たちを見ていれば。それでも増え続ける魔物達を見ていれば。奇跡が起きなければ人間は絶滅すると、私は予感していた。
しかし、奇跡は起きると、あてもなく信じていた。そうしなければ立てないからだ。戦えないからだ。死んでも、心だけは戦いたかった。
だがこの存在が神であるのなら。避けようのない真実が私の心を嘆きで覆い尽くす。それは、愛する故郷との真実の別れであった。
ここが、夢の終わりなのだ。
だが私が助けられて、同じ運命を辿るであろう他の世界を救うことができるなら。一瞬、私の中に希望の心が芽生える。
それは、私が戦い続けた理由に起因していた。
私は愛する故郷を失っても、故郷を失いたくないと嘆く人々の声を聞いていた。私には守れなかった故郷。だけど、私は今は失われていない誰かの故郷を守りたい。そうすることで、救われる人がいるはずだから。
故郷を愛して、笑顔を浮かべる人々の姿に、私は自分を重ねた。ありえたかもしれない未来を、私は彼らの姿を通して見ることが出来たからだ。同じように故郷を失いたくないと、嘆く人々がいるならば、私は手を貸そうと思った。
自分の世界すら救えない私の力が、他の世界を救えるならば。
私は、同じ苦しみを抱く人を減らしたいと願う。そして、そのために私はまた立ち上がれるはずだ。
しかしながらアドニスについての答えはこの神らしき者からは得られていない。そして他の世界には彼は存在しないように感じられた。少々迷った後に、私にとってはこの取引が無価値であると気づき答えを出した。
「私はいい。アドニスはどうなったんだ。いや、私を救うくらいなら、アドニスを救ってくれ」
どうか、彼が助かって欲しい。命に代えても守りたかった彼を、救ってほしい。藁にも縋る思いで、言葉を紡ぐ。だが無情にも、声の主は鼻で笑っただけだった。
「奴はただ一属性に秀でているだけの凡才よ。理を曲げて救うほどの価値は存在せぬ」
私の一番大切な人を愚弄するというのか。心に、怒りという感情が満たされてゆくのが分かる。許せなかった。アドニスは、そんな風に言われていい人間なんかじゃない。彼に私は幾度も救われた。命だけじゃない、この心までも救ってくれたのだ。そんな彼を何故価値がないなどと言ってみせるのか。一度穏やかに努めようとした理性は一瞬で破壊された。
彼を、そんな風に言われて私が怒らないとでも思っているのだろうか。
私の生きた理由。私の努力の理由。全てが、彼に起因している。
彼を否定することは、私への否定だ。その残酷な言葉は私を深く傷つけた。抑えきれない怒りは、私を支配した。そしてそれは、震える声となり、声の主に向ける刃となる。
「お前……許さない!私は、アドニスと……!」
しかし言葉が、続かない。せめて一緒に死にたかったと愚かにも願う。独りぼっちだけは嫌だった。一人は寂しく、本当に苦しい。だがこうしている時点で、もう彼は傍にはいないことが確実なのだ。予感が私を絶望へと突き落とす。怒りを口にしてやっと分かる。私は、もう一人なのだ。
「奴は消えてゆく前に、お前を救うことを望んでいたぞ。命に代えても守りたかったと」