(裏)第七十三話〜汚い汚い私の心〜
この家に嫁いで、あっという間に五年が経っていた。翌年には第一子を授かり、端から見れば幸せに包まれた新たな家族に見えただろう。彼女──サーシャの夫はシナブル・グランヴィ。現国王エドヴァルド・F・グランヴィの2番目の娘──アンナリリアン・F・グランヴィの臣下である。
サーシャとシナブルが出会ったのは六年前。アンナの母ネヴィアスの父母の節目の誕生祝いに、ネヴィアスが娘のアンナを引き連れ祖国トワクアライト家を訪れた時であった。アンナが同行するということは、臣下であるシナブルとルヴィスも同行するということ。ネヴィアスの親戚であるサーシャは、当時トワクアライト家のメイドとして、王家に仕えていたのだが、気量の良い彼女を「うちの者の相手にどうか」とネヴィアスが提案をしていたのである。
内情を知らず、サーシャが初めてシナブルを見た時の印象は「真面目で実直そうな方」。ルヴィスを見た時の印象は「優しくて愉快そうな方」であった。祝いの席でネヴィアス一行を世話する直前に、ネヴィアス本人から提案を明かされたサーシャは、今までにないほど真剣に二人の男を観察した。その時わかったことは、二人共主であるアンナを非常に尊敬し、大切にしているということ。二人のその愛情が、男女のそれなのか判別出来なかったということであった。
──「夫婦になれば勿論、あなたのことは愛し、大切にします。しかし俺の中で主であるアンナ様は一番で、それが揺らぐことは断じてありません。ですからどうか、あなたとアンナ様、俺がどちらが大切にしているかなど考えないようにして頂きたい。それでも本当にいいのかどうか、もう一度真剣に考えてほしい」
出会った翌年に婚姻の話がまとまり、いよいよサーシャとシナブルが結ばれようとしたその時、シナブルが言った言葉をサーシャが忘れることはなかった。今からでも遅くはないので、兄のルヴィスにしておかないかという提案を、サーシャは蹴ったのであった。
──「あなた様だから、私はこの国に嫁ぐことを決めたのです。事情は理解できています。ですからどうか、私を娶って下さい──……」
殺し屋の国の姫に仕える男に嫁ぐということが、どういうことであるか、わかっていた筈だった。わかっていた筈だったのに辛いことは多かった。
休みというものは基本的にはない、夫が務めるのはそんな仕事だ。用がなければ待機時間は自由であるものの、だからといって彼が日中自室に戻ってくることは基本的にはない。書類仕事をするのは主であるアンナの私室に繋がる執務室。サーシャがそこへ足を運ぶことは許されてはいない。
国外での殺しの仕事が入れば、数週間家を開けることは珍しくはない。血に塗れて帰城する彼が一番に向かうのはアンナの私室。彼は必ず主に帰城の挨拶を済ませてから自室に戻ってくるのだ。
主の部屋に顔を出したシナブルがそのまま部屋に戻ってくることも、戻ってこないこともあった。煙草の匂いを体に纏わせて──……その香りがそれが何を意味するのかは、すぐに理解することとなった。理解して絶望もしたが、婚姻前に言われた言葉を思い出し、頭を抱えながら朝を迎えたことも一度や二度ではなかった。
(何、昔のことを思い出しているんだか)
最早慣れたものであった。真面目なシナブルのことだから、きっと深い深い事情があるはずで。しかしサーシャがその事情を知る手立てはなかった。この城の僅かなメイドも臣下も、料理人から医師達に至るまで皆揃って口が硬い。噂話すら飛び交わないのだ。以前は夜な夜な臣下たちが集まり、酒を片手に談笑することがあったらしいが、ある事件をきっかけに臣下もメイドもそういうことをしなくなったそうだ。その事件すら、サーシャが知る術はなかった。シナブルにもルヴィスにも一度ずつそれについて触れてみたのだが、二人共顔を青くして詳しくは教えてくれず仕舞い。サーシャの親戚で今はアンナの姉マリーに仕えるヴィウィだけは、「一族内で内乱があった」とだけ教えてくれた。
その内乱が、シナブル アンナ エリックの複雑な三角関係を作り出していることは明白だった。アンナに聞くことは立場的に無理があるので、機会があればエリックに問うてみたいと思い続けて入るのだが、如何せん接点がない。エリック本人が忙しく国外で仕事をしているので、あまり顔を合わせることがないのだ。まあ良いかと半ば諦めててはいるものの、やはり妻としては真実を知りたいと躍起になってしまうのである。
(それでも……あの人が私の所に帰ってきてくれるのであれば、それで……)
子まで儲けたのだからいいではないかと納得した時期もあった。元にシナブルは息子エルディアの面倒をよく見てくれている。自分との時間も大切にしてくれている。これ以上何を望むことがあるのだと、区切りをつけようと決意しようとする度に、あの言葉がフッと浮かび上がるのだ。
(きっと死ぬまで私は二番目で、アンナ様が一番。私は出会ってまだ経った六年。アンナ様にはもう百年も仕えている……わかっている、ちゃんとわかっている。納得して結婚したというのにどうして)
このように悩む度、自分の中でシナブルという存在が大きくなっていることに喜びを噛みしめることにしていた。愛しいが故に悩み、嫉妬をする。人とはそういうものだと己に暗示をかけるのだ。
「あ……見えた」
間もなくアンナの結婚式が執り行われる。その前に帰城すると夫から連絡は受けていた。門番守のサーシャは王城に繋がる門から遠くを見やり、こちらに向かって近付いてくる夫の姿を見つけ、口元を綻ばせた。
「見て、エルディア。父様よ」
「えー! どこどこ?」
「あそこ、ほら」
息子の肩に手を添え、上空を指差す。エルディアが父の姿を見つけ両手を振ると、サーシャの顔も綻んだ。
「おかえりなさい」
「ただいま。変わりはないか?」
「とおさまとおさま! ぼくね、こんなにはやくはしれるようになったんだよ! みてて!」
エルディアは両手を広げ、「びゅーん!」と声を上げながら両親の周りを走り回る。「すごいじゃないか」と目元を綻ばせたシナブルは、エルディアの体を抱きかかえ、高々とその体を持ち上げた。
「わあい!」
「体も重たくなったんじゃないのか?」
「たくさん、たべてるんだよ! かあさまにならって、けんじゅんもがんばってる」
「偉いぞ」
「かあさまのことも、アンナさまのことも、ぼくがまもるんだから!」
その言葉にサーシャの顔が一瞬曇る。母としては喜ばしい言葉なのであるが、息子の口から「アンナ様を守る」という言葉が出てくることが、女としては不快であった。シナブルの教育による思想なのであるが──年端もいかぬ我が子に教えるには早すぎやしないか、と苛立ち、そんな自分に酷く嫌気が差す。
(最低だわ、私。家族が揃っているというのになんてことを)
「エルディア、母様は父様とお話があるんだけど、いいかしら」
「うんっ!」
「どうした、サーシャ」
「あのね」
湧いて出た黒い感情に一旦蓋をする。夫に報告せねばならぬ大事なことがあるのだ。ふふっ、と優しく微笑んだサーシャはシナブルの手を取ると、それを自分の腹に添えた。何事かと顔を上げたシナブルの瞳を覗き込み、口角を上げる。
「二人目」
「ふたり……め?」
「ええ」
「……そうか……そうか!」
心の底から喜んでくれていることがわかる、表情──それに声。このような夫の姿、滅多と見れるものではない。恐らくは、自分の前でしか見せてくれぬその反応が嬉しくサーシャの目元は綻ぶばかり。
「ありがとう……ありがとうサーシャ」
「お礼なんて。私が言いたいくらい」
手を解き、シナブルはサーシャを抱き寄せた。重なる体、互いに腕に力が籠もる。
(子を授かることで、あなたとの絆が深まるのならば)
「あなたが愛してくれるのなら、あなたの為なら……あなたの為なら私はいくらでも子を生むわ」
「……そんなに出来るかな」
「出来るわよ。たくさん、たくさん愛してもらっているもの」
「そうかな」
「もっともっと、求めてくれてもいいくらい」
苦笑するシナブルの唇を、サーシャはじっとりと見つめる。弧を描くことの少ないこの男の唇を、一番歪めさせるのは自分でありたいと、願い、誓い、爪先立ちになり、瞼を下ろす。直後シナブルはサーシャの肩を掴み、フッと表情を崩すと唇を優しく塞いだ。
(愛してくれている、こんなにも。私にしか見せてくれない表情もたくさんあるのに。それなのに私は)
「……シナブル」
「ん?」
「愛してる」
「俺も、愛してる」
「嬉しい」
サーシャの肩を掴み、優しく唇を塞ぐ。一旦離れ、再び重なる唇にじっとりと吸い付き、舌を絡ませるのはサーシャの癖であった。子の前だというのに、いつも通りのサーシャの口づけに戸惑いながらもシナブルはそれに何度も応える。
まさかこの光景を──主の同行人一同に目撃されているとは露知らず、二人はもう少しだけこの時間を堪能したのであった。




