(続)第二十二話~嫉妬、羨望~
本編56話の裏話と、24話のシナブルの取った行動の裏付けのお話です。
「ふぅ……」
ネスよりも先に「蜂の巣」を後にしたエリックは、眩しすぎる青空を見上げ、小さく息を吐いた。
水の破壊者ネス・カートス。エリックは彼と話をしてみて、面白そうな子だと興味を惹かれていた。しかし、あそこまで話すつもりはなかったのだ。
(水の神力使いの特性……恐ろしいな。つい話しすぎてしまった)
ポケットから取り出した煙草に左指で火をつけ、店の角を曲がる。
「やあ」
そこに、濃紺のスーツを着た男が一人、姿勢よく立っていた。
歳は二十代の半ば程度。深縹色の前髪をアップにし、額を出している。そのせいもあり、鋭い眉と瞳にどうしても視線がいってしまう。
「どういうおつもりですか」
男――シナブル・グランヴィは、主に向かって言葉を投げた。
「俺だってあそこまで話すつもりはなかったさ。けど……なんだろう、喋らされた感覚だったな、あれは」
「それは……俺も経験しました。水使いの特性なのでしょうか?」
「ああ、そうだね」
煙草の煙を吐き出したエリックは、建物の壁にもたれ掛かる。そして再び取り出した煙草の箱を器用に振り、一本だけ取り出すと「吸うかい?」と、それをシナブルに差し出した。
「いえ、結構です。止めた身ですから」
「感心だねえ、意志が強い。流石はシナブルだ」
「お止めください」
「サーシャも幸福者だな。俺も見習わないとな……」
シナブルは自分の妻、サーシャが第一子を懐妊した時に、すっぱりと煙草を止めていた。つい昔のように、彼女と体を重ねると喫煙したくなることもあるが――そこは己を制して、我慢をしていた。
恐らく、妻以外とそういうことがあれば、間違いなく喫煙してしまう。過去にもそういうことがあった。自分自身のことだ――そのくらい分かっていた。
(意志なんて、強くない――)
「エリック様、また何を企んでおられるのです」
思い出しかけてしまった、蓋をせねばならぬ過去を押し退けて消し去り、シナブルは言う。
「人聞きが悪いな。いつも通りさ。アンナを驚かせてやろうってだけだよ」
「そうですか」
「心配性だな。俺がアンナを傷付けるわけがないだろう」
「わかっていますよ」
「本当かな」
エリックとシナブルの関係は、際どいものだった。
十年前のあの出来事――ファイアランス王国国王エドヴァルド二世がアンナとシナブルに出した、あの恐ろしい命令。それを目にしてしまったエリックは、憤慨した――シナブルを殴り飛ばしてしまうほどに。
その場にいたルヴィスから事情を説明され、エリックは理解し、納得はしていた。
していたつもりだった。
しかし、彼も一人の男なのだ。
エリックは「器が広い」「寛大だ」とよく称される。母国を滅ぼした国の姫と婚姻を結ぶのだ――どこに行っても大抵の人物は皆、同じ言葉を彼に掛けた。
しかしいくら寛大な彼でも、その光景を――国王の命令だったとはいえ、自分の愛する女とその臣下が体を重ねる光景を目にし、受け入れることは、容易ではなかった。
――地獄だった。
お互い、普通に接するようになるまで、結構な時間を要した。そんなことを知ってか知らずか、エドヴァルド二世はエリックの仕事にシナブルを同行させることも多かった。
今となって考えると、あれは国王なりの気遣いだったのかもしれない。
(いや、嫌がらせの間違いかな――)
過ぎたことだ。どちらでもよい。
「男の嫉妬は見苦しいからねえ……」
「何か仰いましたか?」
「いいや」
(俺が悪いんだ――)
虐殺王子と呼ばれていたエリックがファイアランスに取り込まれてからというもの、殺し屋一族グランヴィ家への殺しの依頼は跳ね上がったのだ――特に戦争の終結依頼。
『あの虐殺王子に来て貰えるのなら、いくらでも金を積もう!』
『良い見せしめになる。あの虐殺王子に殺してもらうとな』
『素晴らしい腕前だと聞く! 是非我が国にも来てほしい!』
玉座の上で胡座をかくことが仕事のような王たちは、こぞってエリックの力を利用したがった。
そのせいで彼は国に滞在すること自体が――アンナと共有する時間が、少しずつ減っていった。
勿論彼女も多忙だった。その上ここ数年は殆ど国に帰ることはなかった。
二十年前にフォード達が死に、彼女の心には大穴が開いてしまった。彼女はその時の夢を、今でも時々みるというが――あの頃は――当時は本当に頻繁にみていたのだという。
悪夢にうなされ、目覚めるも彼女は一人――
(俺が悪いんだ。シナブルは悪くない)
「君は悪くない、悪いのは俺だ。だから遠慮することなく、アンナの傍にいて、彼女を支えてやってくれ。勿論、約束した範囲でね」
あの時に三人が交わした約束。エリックがシナブルを殴り飛ばしてしまった直後に交わした約束。
彼女から求められない限り、彼女に触れるな――
シナブルはこの約束を、あの日からずっと忠実に守り続けていた。
だから胸を張って主の言葉に答える。
「わかりました」と。
「俺はそろそろ行くよ」
煙草を咥え、背を向けたエリックが軽く手を上げたのは、シナブルに対する別れの挨拶だ。
その背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、シナブルは頭を下げ続ける。
「ネス様を追わねば」
そう言って腕の時計で時刻を確認すると、シナブルは風のように姿を消した。