(裏)第一話~レノアとリサの井戸端会議~
第三十話 命の尊さ まで読んで頂けていれば、ネタバレはありません。
四月二十九日。午後。
レノア・カートスは明日の三人分の夕食に備えて、市場でいつもより多目に食材を購入した。
本当はこんなことをしたくはない。
しかし現実は残酷だ。
「あらレノアちゃん、こんにちは」
自宅まであと少しという所でレノアに話しかけてきたのは、坂の下に住むリサおばさんだ。レノアとシムノンが二十年前にこの村に越してきてからというもの、何かと世話を焼いてくれている、親切心の塊のような壮年の女性だ。
「こんにちはリサおばさん」
「あら、レノアちゃん。えらく沢山買い込んで、どうしたんだい?」
リサはレノアの持つ籐のバスケットを見ながら言った。ぎゅうぎゅうなバスケットの蓋は閉まらず、隙間から鮮やかな赤いパプリカが顔を覗かせている。
「明日、ネスの誕生日だからね。村の外からちょっと……お客さんが来るのよ」
「ネスちゃんももう……十六だったかね?」
「ええ、お陰様で」
「それにしてもお客さんとは珍しいね」
小振りな眼鏡の奥の目をぱちくりさせながらリサは言う。
「ネスの出産の時にお世話になった人でね」
「ああ、あのエルフの?」
「いいえ、ソフィアちゃんじゃなくて、もう一人の」
「赤い子かい?」
赤い子というリサの例えに、思わずレノアは笑ってしまう。間違ってはいないのだが、あれは赤というよりも血なのだから。
「また懐かしい子が来るんだねえ」
シムノンの仲間の魔法使い――レフ・バースレインによって、出産の手伝いをしたリサの記憶もまた、レノアと同様に多少改ざんされていた。
改ざんされた二人の記憶では、ネスを取り上げたのは赤い子ではなく、エルフということになっている。
「ところでレノアちゃん、戦士様を見たかい?」
「戦士様? いいえ」
戦士様というのは、今朝突如として村に現れた、一人の女のことだった。レノアにはその女が誰だか、心当たりがあった。
心当たりというよりも、それは確信だった。確信がなければ、三人分の夕食の材料を買い込んだりはしない。
アンナ・F・グランヴィ。
ネスの十六歳の誕生日に、彼女は必ずやって来るとシムノンは言った。
破壊者の地位を放棄し、下の息子に継がせるのだと、見ているこちらのほうが辛くなるような顔をして――
何故、上の息子にではなく、下の息子に継がせることにしたのか。その理由にレノアは納得できていた。
あの子の方が、ここぞというときに心が強いから。
しっかりしているようで、ルークは精神的に脆すぎる。
「なんでも、とんでもない美人さんらしいよ」
「そうなの」
リサは噂話が好きだ。勿論レノアだって、どちらかと言えば好きではある。狭い村だ、小さな噂でもあっという間に広まってしまう。
「あら、ごめんねえ、つい話し込んじゃって」
「いいのよ。それじゃまたね、リサおばさん」
リサと別れてレノアは帰路に着く。
しかし、何故なのだろう――アマルの森の回りには、アグリーが侵入出来ぬよう、結界が張り巡らされているというのに、どうしてアグリーは森から出てきたのだろうか。
(ひょっとして結界が壊れている?)
シムノンが張った結界が、そう簡単に壊れるものではないということは、レノアも重々承知していた。しかし、アグリーが森から出てきたということは、そういうことなのだ。
(――暗くなったら見に行かないとね)
家に着き、買ってきたものを冷蔵庫にしまう。これだけの材料ではまだ足りないので、明日の午後にでもまた買い物に行かなければならない。
「さてと……」
手間のかかる料理の仕込みをしなければならない。
明日の地獄の晩餐に向けて、レノアは包丁を握る手に力を込めた。




