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ぼすん、と心地のいい疲労感が行き渡る身体をベッドに投げ出す。予定に無かった鍛練のお陰で、足も腕も棒のようだ。先ほど浴場で汗を流したばっかりだが、熱い湯を浴びたせいかほんのりと汗が額に浮かぶ。
ため息をひとつつくと、気だるい身体を起こす。
明日までにやることはまだある。ダラダラとベッドの上で過ごしているわけにもいかない。
今日の分の報告書と書類の整理、入団希望者の名簿作り…は他の団員にやらせるとして、あとは一番大切な剣の手入れをしなくては。
王家の紋章にもある鷹と見事な細工の花々が鞘を飾る長剣は、王と王国に誓う忠誠の証だ。
その剣で王を守り、民を守り、そして自分の身を守る。騎士団の組織の中でも王直属の宮廷騎士にしか与えられない、なにものにも代えがたいものだった。
ライザーは頭の中を切り替え立ち上がり、部屋を横切る。正騎士になった時に与えられたこの部屋は、ベッドが一つに机と椅子、日用品の入ったキャビネット、騎士の制服と私服が仕舞われているクローゼットくらいなものだ。
どれもが頑丈そうな作りだが、部屋を照らすランプの光で飴色の艶と光沢を放ち蔦の装飾が影を落とす。その装飾は、腕のいい家具職人が丁寧に作ったものだと一目で分かるほどの緻密さだった。
浮かぶ汗を引かせたくて、窓の鍵を外し開け放つ。頂きに昇る月が、もう夜も更けたことを知らせてくれた。
さえざえと真っ白に輝く月の夜は、星も綺麗にみえる。
慌ただしい日常のなかで、この静かな時間がライザーにとって何より穏やかになれる一時だった。
窓の外を見渡せば、鍛練場が息を潜めるように広がっていた。また朝になれば剣や槍のぶつかり合う金属音が鳴り響き、見習い騎士の訓練を受け持つ指導者の怒号があちらこちらで上がることだろう。
そしてその横にある城の調理場にはまだ灯りがついていた。どんなに遅い時間になっても、料理人達はまだ仕込みやら食器の整理やらがあるのだろう。窓越しに見える彼らの姿は、パタパタと動き回っていた。
こんな遅い時間になっても働いている人を見ていると、親近感がわいてくる。残った仕事を前にすれば、どんな身分の違いだろうが、例え役職や職業が違えど一緒なのだなと。
一際冷えた風がライザーの首もとを冷やす。黒鉛の髪はほんのりとまだ濡れていて冷たい。
身体にこもった熱は、いつの間にか夜風によってぬぐい去られていた。
風邪を引く前に窓を閉めよう、そして今日中に報告書と剣の手入れをしなければ。
と、窓を閉めようとした手に馴染みのない柔らかい感触が手にあたった。
「あぁ…」
感触の主の姿を確認し、そうだった、と納得した。
そこには、月の光を受けて燦然と輝く大輪の真白い花が、ほの暗い窓辺を照らすように咲いていた。
花びらに走る幾つもの淡い紫の筋が、妖しくその身を彩っていた。
不思議な事に、昼間あの少女の手から胸ポケットに差された時より、更に白さが増し、まるで己自身が輝いているように見える。
この姿が本当の姿だと、暗に言っているようだ。
ちょんちょん、と剣を握るために節くれだった指で花びらをつつくと、花が所在なさげに揺れ、グラスの中の水が窓辺に影を作る。
この花を差すための花瓶などこの部屋には無かった。花瓶の代わりの武骨なグラスに差された真白い花は、不思議な存在感を放っている。
ほのかに匂いたつ花の香りがライザーを包む。その香りは、日に照らさせて笑う少女を思い浮かばせた。
何の返事もしない自分に飽きもせずに毎日声をかけ、そしてたった一言返事を返しただけで、幼さの残る笑みを満面に浮かべたかと思えば、神聖で汚しがたい瞳で見つめてくる。
あの目が頭から離れない。
夜明けのようなあの瞳が、金に輝いて見えたのは、果たして目の錯覚だったのだろうか。
月の光を受けて、少女のプラチナの髪と同じ色を放つ花びらが優しい夜の風に震えた。
『それとも残念か?花売りの子に会えないと思うと』
そんなわけない。
ただの花売りだ。
面白がって声をかけてきただけだ。
ライザーは眉根を絞ると、渋い顔でフェンネルの言葉を追い出すように窓を閉めた。