1
賑わいを見せるシムルス国城下の街、シルース。
海も山もある貿易盛んなこの街は、城下の広場から海岸沿いまでところせましと店が連なっていた。
店があれば客足も多くなる。街を気に入った者たちの中には、そのまま街に定着し、暮らす者も出てくる。そしてまたそんな人々が店や出店、屋台を出したり、服飾店や宝飾品店、大工や薬師などに弟子入りし、一人前になれば一人立ちしていく。
そんな風に大きくなっていくこの街は、いつだって人々の悲喜こもごもがつまっていた。
成功する者、夢破れる者、更なる高みを望む者、色々な思いを胸に人々は今日もシルースに訪れる。
そんなシルースがここまで大きな街になったのも、現シムルス国王の優秀な政治的手腕のお陰と言えるだろう。ここ数十年、戦争も他国とのいさかいの無いシムルス国は穏やかにいつもと同じ日常が流れていた。
「おい!ライザー!」
赤銅色の髪をした男が麦酒のカップを片手に訓練後の騎士達の間をかき分け、どかっとライザーの隣に座る。
しっかりとした造りの椅子とテーブルが微かに軋む音がする。だがそんな音をたてた主は気にもしない様子でそのままテーブルに肘をかけ、黒髪の青年の麦酒の入ったカップにガツンとカップを合わせた。
「お疲れさん!どうだい?罰ゲームみたいな仕事は?」
面倒な相手が来た、とばかりに黒檀の瞳を細めてライザーはぐっと麦酒をあおった。
騎士服を脱ぎ、シャツを着ただけのその体は、日々の鍛練を物語るかのように厚みがあった。
「お前ねぇ、よくないよーそんな顔~。怖い顔がもーっと怖くなってるぜ」
「ほっとけ」
確かにこの赤銅色の男の言うとおりだった。
ライザーの真夜中の月の無い夜のような切れ長の瞳は、いつだって鋭い光が指している。整った顔立ちのはずなのにどこか不機嫌そうに見えるその表情。本人は無意識だろう、気がつくと眉間にシワが寄って、更に鋭い目になってしまっている。
反面、この軽口を叩いてくる男はライザーとは正反対の、柔らかい雰囲気を持っている。ややたれ目気味の目元にはからかいの表情が浮かんでいる。
「あ、おばちゃーん!ここのテーブルに燻製肉の炙り焼きちょうだい」
「あいよ!待ってな!」
この騎士団の食堂は早くて美味いがモットーだ。それに酒もあれば飯もある。いつでも団員たちの腹を満たし、疲れを取るための酒を出してくれるのだ。いつだってここは人の出入りが多い。そしてライザーも仕事後に一杯やりに来たうちの一人だった。
「フェンネル、お前何か言いたいんだろう」
「あ、分かるー?分かっちゃうよねぇ」
赤銅色の髪の男、フェンネルはにやっと笑う。
「とうとう花売りの子とデキちゃったんだってぇ?」
「なんでそうなる」
ライザーはため息をひとつこぼすと麦酒をあおった。
「ただ一言言っただけだ。…仕事中だと」
「ぶふふふ!お前ね、26だろ?そんな色気の無い」
フェンネルは同じ時期に騎士団に入った同期で、彼のまわりには女がいなかった試しがない。軽い物腰と人好きのする雰囲気は人が寄りやすいのだろう。
「色気があろうが無かろうが、仕事中だ。騎士団員としての職務を全うするだけだ」
「お堅いねぇ、相変わらず」
「お堅くて結構」
炙り焼きお待ち!と燻製肉がドンとテーブルに置かれる。香ばしく焼かれた香りが鼻をくすぐる。
厚みのあるその肉はなかなかのボリュームだ。
「その女の子って、お前が見回りになってすぐ声かけてきたんだよな?こーんなおっかない顔のどこがいいんだか…」
あちあちっと言いながら切り分けた肉を口に運ぶ。ライザーも続いて口に入れると、ジュワっと油と旨味が広がった。鼻に抜ける燻製の香りがたまらない。
「で、実際どうなの?可愛いの?手、出しちゃうの?」
「うるさい。黙って飲むか食うかしろ」
「俺に黙れってのが無理でしょ」
フェンネルはいつもこうだ。からかいの種があるとすぐに面白がって絡んでくる。
だが、面白がるのも無理はない。
堅物で無愛想なこの男。だか、その端正な男らしい顔と均整の取れた鍛えられた身体に寄ってくる女は大勢いるはずなのに、この男の無愛想さに寄ってきた女も散ってゆく。
「どうとなるわけもないだろ。それに名前も知らないような…」
言いかけて止まる。
ん?とフェンネルもフォークに薫製肉をさしたまま動きを止め、カップルを持ったまま眉をひそめて怪訝な顔をした友人を見る。
この黒髪の同期は表情が読めない。いつも眉間にシワが寄っているせいか、大体は不機嫌な顔なのだが、長年訓練や仕事を共にしてきたからか、その不機嫌な顔に何が浮かんでいるのかくらいは分かってきた。
「なに?」
短く問うと、また薫製肉を口に放り込む。
「いや、…向こうは俺の名前を知っていた」
「お前の?」
「そうだ。この1ヶ月、声をかけられてたが話なんてしなかった。なのに知っていたんだ。ライザー様、と確かに俺の名前を言ったんだ」
ぶっく!とフェンネルは吹き出してしまいそうな口元を押さえた。危うく肉を口から飛ばすところだった。
「相手は名前を知ってるって?そんなのお前…宮廷の正騎士なんだから名前ぐらい知られててもおかしくないだろ?」
「…そうなのか」
「そうなのかって…分かってないねえ」
自分自身に疎いこの男は、宮廷の騎士というものがいかに乙女たちの心をくすぐる存在なのかを知らないようだ。
「宮廷騎士は騎士の中でも花形だぞ!精鋭中の精鋭!王の直属の騎士!」
「声が大きいんだよ、お前は…」
「そして麗しい貴婦人から下町の花売りの騎士!」
「頼むから黙ってくれ…」
フェンネルの言葉にげんなりとため息をつく。こうなると誰にも彼を止められないという事を、ライザーは何度もその身をもって経験していた。
「昨日生まれた赤子まで夢に見る存在だぞ、俺達騎士は。お前はもう少し自分がどんな目で見られているのか知るべきだな。おばちゃーん!麦酒2つ追加ねー!」
軽口を叩くフェンネルを無視して残り少ない麦酒を喉に流し込む。相手をすれば更に軽快にこの男の口は調子よく滑り出しそうな予感がした。
そんな時は黙っているに限る。
不機嫌そうな顔のまま、ライザーは空になったカップをテーブルに置いた瞬間。
「フェンネル、酒もほどほどにしておけよ」
訓練後の騎士や騎士見習い達でざわつく食堂に、宮廷騎士を束ねる長の声が響く。
「団長!お疲れ様です」
ライザーは挨拶すると同時に素早く椅子から立ち上がり、食堂の入り口に立つ騎士団長のヴァイアスに向かって敬礼をとる。その場にいる者達も皆、食事や酒を飲む手を止め一様に立ち上がり敬礼する。
「日々の鍛練、職務、ご苦労。この騎士団の働きにより、この国の平和は守られている。引き続き気を緩ませることなく、己の役割に勤めよ」
オオ!と男達の口から太い声が上がる。貴族の子息から農家の息子まで身分は様々の彼らが敬愛する団長の労いと士気を高める言葉に応える。
ヴァイアスは秀麗な顔に笑みを称え、その底の知れないアイスブルーの双眸がライザーを捉える。一見、彫像のように整っているその顔は、少しでも気を抜けば自分自身の何かが食われてしまうような美しさがある。
「喜べ、ライザー。本日をもって見回りの任が解かれた。お役目ご苦労」
ライザーの顔に驚きが浮かぶ。隣にいるフェンネルがおや、と眉を上げる。
「後で私の部屋に来い。フェンネル、お前もだ。二人揃って来るように」
「はっ」
「寛いでるところ、悪かったな。では、皆疲れを癒してくれ」
ヴァイアスは妖艶な笑みをその目元に浮かべ、ザッと騎士服の裾を翻し食堂の入り口から靴音を響かせ、張りつめた空気の余韻だけを残し去っていく。
そのコツコツという規則正しい音が聞こえなくなると、食堂にいた男達は皆息をついて各々の椅子に座り直し、徐々に元の騒がしさを取り戻していく。
「しかし…団長はなんとも言えない迫力があるな…」
はああ、と息を吐き出しフェンネルは新しく運ばれてきた麦酒に口をつける。
騎士団の誰もがヴァイアスの前に出ると、その優麗な顔と、それでいて冷たさすら感じるような透き通ったアイスブルーの瞳に射抜かれてしまう。
繊細な顔の作りと、すらりとしたその身体から発せられる獣のように濃厚な空気は、騎士団長という重い役職から作られるものなのだろうか。
「俺も団長室に呼び出しなんて、何か悪いことしたっけ?」
「お前の場合は思い当たる節が多すぎなんじゃないか」
「あら、言ってくれるねー」
「本当の事だ」
「否定できないのが悲しいね」
すっかり冷めてしまった炙り肉をブスッとフォークに刺すと、ひょいっと口に入れる。
それを咀嚼しながらライザーは少し考え込む。
予定ではあと1ヶ月見回りを任せられていた。どういう理由でその任が解かれたのか、検討も付かなかった。
「まあ、思ったより早く終わってよかったな。見回りなんて騎士見習いがやるような仕事なんだし」
お疲れさん、とライザーの背を叩くとまたもや面白そうに垂れ気味の目をイタズラっ子のように光らせながら肩と肩がぶつかる程に距離を縮める。
「それとも残念か?花売りの子に会えないと思うと」
「っな…!?」
肘にカップが当たり、倒しはしなかったが麦酒がテーブルにこぼれ、ライザーの袖口を濡らした。
その明らかに動揺した様子が、フェンネルのイタズラ心を刺激する。
「当たりか」
「当たりなわけあるか!子供だぞ、相手は」
ニヤつく顔を見ないようにやや声を荒げる。
「ただ見回り中に顔を合わせた程度だ。そんな浮わついた気持ちで仕事をしてたんじゃない」
街の平和な風景の中にいるただの花売りの少女だ。
華奢で小ささすら感じるその身体を伸びやかにくるくると動かし、背中に流れる艶のあるプラチナの髪を風に遊ばれながら、表情豊かな少女特有の瑞々しさをその頬に称え、飽きもせずに毎日声をかけてきた。
その瞳は潤み、吸い込まれるような深い夜の色をしていた。清廉な聖女のようなその瞳と、形のいい小さな唇はまるで色づき始めた蕾のように柔らかそうで…
ブルッと頭を振り、自分の思考を追い出す。
何だ。今自分は何を考えた。
ライザーは音をたてて唐突に立ち上がり、まだカップに残った麦酒もそのままに男達の喧騒のなかを縫うように大股に足を進める。
「なんだ?どこ行くんだー?」
ライザーに届くように口元に手を添えて声を張る。
と、振り向きもしないまま 「鍛練だ」 と微かにフェンネルの耳に答えが届く。そしてまもなくその姿を食堂から消した。
「分かりやすいヤツ」
グイっとカップの残りを飲み干すと、フェンネルはふっと笑った。