(中編)男子はなぜ女子に壁ドンをするのか?ーーそこに壁があるからだ。
次の日、井の花高校2年C組の教室は大きなどよめきに包まれていた。
始業式からずっと姿を見せなかった有名人の乃木遊士が突然学校に来たかと思ったら、学級委員の須藤沙雪の隣の席に陣取り、執拗に絡んでいたからだ。
「おはよう、学級委員さん。言われた通り学校に来てあげたよ」
「乃木君。私はあなたに学校に来てと言った覚えはありませんが。それに私の名前は須藤です。『学級委員さん』ではありません」
「昨日は突然人の家に押しかけて上がりこんでおいてよく言うね」
「人聞きの悪いことを言わないでください。プリントを届けただけです」
制服をオシャレに着こなした背の高い少年は、さながらドラマの撮影のために学校にやって来た芸能人のようだった。無造作に伸びた金髪が造詣の整った顔にかかっていた。制服のYシャツの一番上のボタンは開け放たれ、緩めにネクタイが絞められている。スタイルが良いからか、だらしない印象はない。
その横で、黒縁メガネをかけておさげを垂らした少女が不機嫌そうに座っている。
シャツのボタンをぴっちり上まで留め、膝下までのスカートにくるぶしソックスを校則の指定そのままに着用した沙雪が、いかにもチャラそうな乃木に応酬している姿は、クラス中の注目を否応なしに集めていた。
「あ、あの……乃木君。そこ、僕の席なんだけど……」
沙雪の隣の席に元々座っている男子生徒が、おずおずと乃木に声をかけたが、「ん?ごめん、聞こえない」と乃木にあしらわれてすごすごと退散してしまった。
もしかして乃木は、これから沙雪の隣にずっと座るつもりなのだろうか。げんなりとした少女の前に担任の横田が現れた。
「須藤さん、すごいわ!乃木君が学校に来るなんて。乃木君、休んでいた間のことは何でも須藤さんに聞いてね」
「はーい、先生」
「あ、須藤さん。後ね、次の地理の授業で使うから地図を準備室から持って来ておいてくれる?」
昨日乃木の家にプリントを届けに行く雑用を果たしたことについてお礼も言わずに次の雑用を頼んでくる担任教師をちらりと見て、沙雪は疲れたように頷いた。
準備室から資料を持って来るのは、別に学級委員でなくてもよいだろう。日直だっている。それに、地図は女子の沙雪が持つには大きくて重い。
しかし、教室にいる他の生徒の中に沙雪を手伝おうと申し出る者は誰もいない。もう1人の学級委員の山田は……今日は休みのようだ。
使えないわね山田と脳内で呪詛を唱えながら席を立つと、なぜか乃木まで沙雪について来る。
「あなたまでついてこなくていいです」
「別についてきてるんじゃないよ。たまたま行きたい方向が同じなだけ」
ああ言えばこう言う。
学級委員と有名遊び人というでこぼこコンビが連れ立って歩くと大分目立つ。行き交う生徒の誰もが好奇の視線を投げかけてくる。
乃木は遊び人という噂通りの人物らしく、あちこちで女子生徒が挨拶をしてくる度ににこやかに手を振って返していた。
そうこうしているうちに、社会科準備室に着いた。
少し探すと、頼まれた地図はすぐに見つかった。大きな地図で、ポスターのように筒状に丸めて棚の中に収まっている。
埃臭い室内で棚から巨大な地図を引きずりだそうとした時、不意に後ろから乃木の両腕が伸びてきた。
少年の両腕が沙雪の両脇をかすめるほど近くに差し伸ばされ、目の前の棚の柱につかれる。
沙雪は乃木の体と棚の間に挟まれるような形になってしまった。
「……乃木君。あなたの腕がこのように棚につかれている必要性を感じないのだけれど」
沙雪はできるだけ平静を装った。
これは一体、どういう状況なのだろう?
背の高い乃木が少し屈むようにして、後ろから沙雪の耳に囁く。
「僕はこうしてるの楽しいけど。これ、何ていうか知ってる?」
少年の息が耳にかかりくすぐったい。「ちょっと、やめて」と言いながら振り返った沙雪と、乃木の視線が至近距離でまともにぶつかる。
「壁ドン。いや、棚ドンか、これは」
壁ドンという単語は聞いたことがある。確か、数年前に流行っていた。
男性が女性を壁に押し付けるようにして逃げられないような状態にしたり、密着しそうだけど触れていないもどかしさを楽しむ姿勢のことだったはずだ。
つまり、沙雪と乃木の現在の状態は、「壁ドン状態」である、ということになる。
……こんなことが本当に世間で流行ったのだろうか?
人生初の壁ドンというものに、優等生の沙雪は目を丸くするばかりであった。端正な顔立ちの少年に見つめられ、沙雪は自分が動揺しているのを感じていた。
思わず乃木に向かって言う。
「乃木君、近いです。この近さは……そう、満員電車を連想するほどです。悪いですが少し離れてください」
金髪の少年は一瞬ポカンとしたような顔になり、そして盛大に吹き出した。パッと身を翻し、背中を丸めてクックックといつまでも笑っている。
「須藤さん、面白いなー。色気もクソもないって感じ」
「……それはどうも」
「こういうこと、慣れてないんだ?」
「ご想像におまかせします」
「はははっ!ホント、いいよね須藤さんって」
「乃木君。早く教室に戻りましょう。授業が始まってしまいます」
どんな顔をしていいのかわからないでいる沙雪を棚の前からどかし、乃木は大きな地図を軽々持ち上げた。
「持ってあげる。重いでしょ、こんな大きな地図。須藤さん小さいんだから」
「小さいとは聞き捨てなりませんね。私の身長は155センチです。年齢別女子の平均的な値と言えます」
「はいはい、なんでもいいから。僕が言いたいのは――」
乃木は地図を抱えたまま、屈んで沙雪の耳に口を寄せた。
「荷物なんか男に持たせとけってことだよ」
ボソッと低い声で囁かれて、沙雪はピシリと固まってしまった。
この囁き方にも名前が付いているのだろうか?
名付けるとするならば、壁ドンではなく、耳ボソリか。
乃木はすでに廊下に出ている。
つまり、彼は荷物を持つのを手伝いに来てくれたということなのだろうか。
準備室の外に出た沙雪は、不覚にも赤くなった顔を冷ますために廊下の窓から外を眺めることに集中した。
自分の胸に起こりつつある鼓動の変化にできるだけ気がつかないようにしながら、急いで乃木の後を追い教室に向かうのだった。
※
※
※
乃木遊士が欠かさず登校してくるようになってから約1ヶ月が過ぎた。相変わらず乃木は事あるごとに沙雪にちょっかいを出してくる。
黒縁メガネにおさげの学級委員と金髪の遊び人という珍しい取り合わせは、すっかり2年C組の名物になってしまった。
乃木は、遊び人とは言われているが沙雪に対する態度はいたって紳士的だった。
下校の際は必ず沙雪にくっ付いてきて無理やり一緒に帰るのだが、それ以外は常に柔らかい物腰で、強引な態度を取ったり、暴言を吐いたりするようなことは一切なかった。
今日も乃木は沙雪の下校にくっ付いてきた。乃木がコンビニでアイスを買ってくれると言うので、遠慮なくおごってもらうことにした。いつも付きまとわれている迷惑料なら100円アイスは安いものだろう。
棒付きのアイスを持って近くの公園のベンチに並んで座る。
この1ヶ月で、乃木に対する沙雪の態度にも変化が見られた。まず、敬語ではなく普通の口調で話すようになった。
真面目過ぎるほど真面目で、合わせることが苦手な沙雪は人に対してすぐ壁を作ってしまう。しかし乃木はそんな沙雪の態度にもめげることなくどんどん距離を縮めてくるのだ。いつしかこの金髪の少年と話すのが楽しいと感じるようになっていた。
アイスを半分ほど食べたところてふと気になって、乃木が以前学校を休んでいた理由を尋ねてみると、驚くべき答えが返ってきた。
「……ダンス?」
「そう。って言っても社交ダンスみたいのじゃないよ。ブレイクっていうダンス。聞いたことない?ダンスバトルとかさー」
「ごめんなさい、全然わからない。……その世界大会に行ってたの?アメリカまで?」
「うん。高校生でも年齢制限とかないし。アメリカは本場でレベルも高いし、出場できてラッキーだった」
「それで学校に来なかったの……」
「練習が直前まであったしね。で、大会に出て結果も上々。だけど、親父にばれちゃって」
「ダンスをするの反対されてるの?」
「もう大反対」
「……そう……」
アイスを食べ終えた乃木が、沙雪に笑いかけた。
「見てみる?僕のダンス」
「いいの?」
「見て減るもんじゃないからね」
アイスを素早く食べ終えた乃木は、スマホを操作しベンチの端に置いた。一度も聞いたことのないテンポの良い外国の曲が最大音量で流れてくる。
少年がおもむろに曲に合わせて身体を動かし始めた。床に這いつくばるような姿勢から身体の周りを脚で蹴りながらリズミカルに高速で回転する。そこから一気に立ち上がり一瞬でポーズを決め、ロボットのような動きになったかと思うとまた滑らかに動き出す。
圧巻の動きに、沙雪は目を奪われていた。ダンスについて何の知識もないが、乃木の踊りが凄いことだけは理解できた。
短い曲が終わる。
たかだか2、3分の出来事であったが、乃木のダンスを見る前と見た後では景色が違って見えた。手に持っていたアイスの残りはすっかり溶けてしまっている。
「……どお?練習用の曲だけど」
「すごいわ!」
「ははは、ありがとう」
「ダンスなんて全然わからないけれど、あなたの踊りは胸に響くものがある」
「大袈裟だなあ」
「本当よ。あなたのお父さんも、あなたの踊りを見るべきだと思うわ。素晴らしいもの」
困ったような微笑みを浮かべた少年は、汗で湿った髪を掻き上げた。
「親父に僕のダンスを見せたって、須藤さんみたいに褒めてくれないだろうけど。自分の興味のないことにはとことん冷たい人だから」
「あら、わからないわよ。自慢じゃないけど私だってあなたのお父さんと同じタイプの人間だと思うもの。だけど、あなたの踊りを見て感動した。試してみる価値はあるわよ」
「……ありがとう」
一生懸命に語る沙雪の顔を見て、少年がにっこりと微笑んだ。
眩しいほどの笑顔を不意に向けられ、沙雪はなぜか動揺してしまった。そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、乃木は無邪気に尋ねてくる。
「須藤さんの家はどんな感じ?みんな頭いいんだろうね、きっと」
「うち?うちはいたって普通よ。父はサラリーマン。母は主婦で、たまにパートに出ている。6つ違いの姉がいるんだけど、都内で美容師をしてる」
「へえ、本当に普通だね」と乃木は失礼とも取れる正直な感想を述べた。
「なんで須藤さんだけそんなに成績優秀なの?」
改めて問われて、克服したはずの「できるのは勉強だけ」コンプレックスが首をもたげる。隠すのも馬鹿らしいので素直に自分の気持ちを告げる。
「別にそういうわけじゃないわ。趣味が他にないから勉強してるだけ。乃木君みたいにダンスに打ち込める方が素敵よ」
乃木は、驚いたようにちょっと目を見開いた。照れたように言う。
「……今度、仲間とやってる練習見に来ない?もし興味を持ったら、須藤さんもやってみたらいいよ」
「無理よ。それほど運動は得意じゃないもの」
「じゃ、見に来るだけでいいから。約束だよ」
行くとも言っていないのに、勝手に約束したことになってしまっている。だが、嬉しそうにする乃木を見ていると文句を言う気が失せてしまった。
「一緒につるんでる奴らは不良とか遊び人って思われがちだけど、実際はそんなことないよ。まあ、僕もだけど」
「乃木君は遊び人じゃなかったの?私、誤解してたわ。ごめんなさい」
「髪がこんな色だからかな。いつも遊んでるでしょって言われる。実際はダンスばっかしてて遊ぶ時間なんてないよ。てか、金髪だから不良なんて古いよー、まったく」
「ふふ、そうよね」
微笑んだ沙雪を、乃木が驚いた顔で凝視する。
「……どうしたのよ」
「……た」
「え?」
「僕の前で笑ったの、初めてだよ」
乃木は照れたように明後日の方向を向いた。そして、横目でちらりと沙雪を見る。
「かわいい」
「!? へ、変なこと言わないで」
むせ込みそうになった沙雪は、ベンチを立とうとした。
「待って」と、その腕を少年が掴む。
「乃木君……離して」
「離さない」
「ちょっと……」
文句を言おうとした沙雪の腕を乃木はグイッと引き、ベンチに再度座らせてしまった。沙雪の腕を握る少年の手が熱い。
「須藤さんは優等生だから、僕みたいなやつにこんなこと言われたら困るのかもしれないけど…………好きだよ」
沙雪の胸に、大きな鼓動が鳴り響く。
どうしよう。
何か言わなくては。
だけど、何も考えられない。喉が乾く……。
なんとかして声を絞りだそうとしたその時。明るい女の子の声が聞こえてきた。
「あれ~遊士じゃん。何してんの、こんなとこで」