表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/21

第九話

 矢沢彰子は桂木忍の母、智子と彰子の車の中にいた。

「局の車じゃないですから、ここなら人に聞かれることはありません」 

 智子は真山という人物と電話で話してから、ひどく怯えていた。

(忍は私の、たったひとつの宝物なの。あの子を守るためだったら死んでもかまわない。だから、この業界に入るのだって猛反対したわ。でも……でもね、あの人の血がそうさせているのかも知れないって思ったら……)

「桂木さん、"あの人"って誰ですか?」

 智子の言葉を思い出し彰子は聞いた。

 焦ってはいけない。

 彰子は逸る自分に言い聞かせた。今、智子は自ら鍵のかかった秘密の箱を開けようとしているのだ。どれほど時間がかかろうとかまわない。彰子は智子が話し始めるのをじっと待つことにした。

 前にもこんなことがあったような気がする。

 そうだ。初めて文音に会った時、彼女は小野寺友里恵の娘ではなく一般からの子役募集で入団オーデションを受けに来ていた。

 たまたま時間が空いていたのが彰子だけだったという理由で、マネージャー代表として面接する側に座っていたのだ。

 文音を見てどこかで会ったことがあると感じたのだが、はっきりと思い出せなかった彰子はオーデション用紙に目を通した。

 今でこそ保護者欄に書かれている名前が祖父母のものだとわかるが、その時は文音の両親でないことに気づくはずもなく淡々と面接は進んでいった。

 そこへ入って来たスタッフの言葉を聞くまでは。

「今日の入団オーデに小野寺友里恵の子供が来ているそうです!」

「なんだって!? そりゃ大変だ!」

 そう言うと、面接官たちはあわてて手元の資料をバサバサとめくり始めた。

「今、控室をのぞいて来たんですが、どの子なのかわからなくて……」

「とにかく、今日来た子を全員チェックするんだ!」

 文音にも聞こえるくらいの小声でスタッフに指示すると、何事もなかったかのように文音に向き直り面接を再開した。

 だが今の情報を聞いたとたん、文音の顔色が変わったことに彰子は気づいた。

(倉本文音……)

 間違いない。よく見るとこの子、小野寺友里恵の元夫で彰子の大学の先輩でもある倉本武にそっくりではないか!

「じゃあ次の質問だよ。特技の欄にジャズダンスって書いてあるけど、今ここで何か踊ってもらえるかな?」

 こういった面接ではよくある実技試験だ。

 うちの様なタレント養成所や芸能事務所に入ろうとしている子供たちにとっては、自分の特技をアピールする絶好のチャンスとばかりに率先して歌やダンスを披露する子が多い。時にはこちらがストップをかけたことにすら気づかず踊り続ける猛者もいる。

 だが、文音は違っていた。面接官の要求に答えないばかりか、下を向いて黙りこんでしまったのだ。

「どうしたの? ダンス、特技じゃないの? それとも恥ずかしいのかな?」

 この場合「できない」「やりたくない」「恥ずかしい」は、子役がいちばん言ってはいけない言葉だ。

 おそらく文音の態度を見て、面接官たちは子役不適格の烙印を押したに違いない。

 だが、彰子にはわかっていた。有名女優の子供というだけで優遇されることへの苛立ち……そう、この子は怒っているのだ。

 文音がもっと計算高い子なら自分の立場を思う存分利用して、目の前の値踏みする大人たちを跪かせることだってできたかも知れない。

 だが、文音はそんな稚拙なことをする子供ではなかった。

「今日は調子が悪いのかな?」

 面接官が黙ったままの文音を退室させようとした時、文音は突然立ち上がってこう言った。

「『ういろう売り』を暗唱します」

 『ういろう売り』とは、演劇の道を志す者なら必ずと言っていいほど覚えなくてはならない歌舞伎の口上だ。

 内容は薬の宣伝文句だが、発声や活舌や間の取り方などの勉強になると言われている。途中、早口言葉が入るこの口上はかなりの長文で、大人でも暗記するのに苦労する。

 それを小学一年生の子供が、みごと一文字一句間違わずに言ってのけたのだ。

 文音は自分の実力で劇団「とび箱」に合格したのである。

 

 ふと、桂木智子が彰子の方を向いた。車に乗ってから窓の外をぼんやりと眺めていただけの智子が、初めて彰子と目を合わせたのだった。だがその表情は何をどう話せばよいのかわからないとでも言いたげな、彰子へ向けてのSOSを含んだ表情だった。

「桂木さん、それじゃまず江藤から聞いた話ですが、本当かどうか教えてください。江藤が……忍さんは男だって言うんです」

 智子は再び窓の外へ目をやると、誰にともなく静かに頷いた。





 男が忍に飛びかかってきた!

 だが、忍の動きには無駄が無かった。

 男は飛びかかりざま忍の足を取ろうとしたが、忍の方が一瞬早く飛び退くと勢いで前かがみになった男のみぞおちを蹴り上げた。男は「ぐぇ」とも「ぎゃぁ」ともわからない呻き声を発して倒れ込み、そのはずみでサングラスが男の顔から吹き飛んだ。

 男はよろけながらも再び忍に向かって来た。

「文音ちゃん、今のうちに翔平くんを連れて逃げなさい!」

「ダメ! 忍さんを置いて行けないよ!」

 翔平は両手で耳をふさぎ丸くなったまま、相変わらず現実逃避している。

 文音は翔平の腕をつかむと引きずり起こした。

「翔平! 立ちなさいよ! あんた男でしょ! 忍さんに全部押し付けて恥ずかしくないの!?」

「そ、そんなこと言ったって……こ、怖くて動けないよぉ」

「バカッ!」

 その時、忍の呻き声が聞こえて振り向くと、いつの間にか形勢が逆転していた。男が忍の上に馬乗りになり、今にも忍の美しい顔に拳を振り下ろそうとしているではないか。

「忍さん!」

 その時、男の背後から思わぬ伏兵が登場した。気絶していた小太りの男が、どこから持ち出して来たのか角材で馬乗りになっている男の後頭部を一撃したのだ。

 突然の一撃をまともにくらった男は、忍を殴るために拳を振り上げたまま答えを求めるかのような顔をすると前のめりにどうと倒れた。と同時に、男の顔面を伝って滴り落ちた血が忍の顔を汚した。

 忍の上に乗りかかった男を小太りの男が邪魔だと押しのけ蹴りつける。

「このやろー、自分だけ抜け駆けしやがって! お前だけ美味しい思いしようたってそうはいくか!」

 どうやら小太りの男は、サングラス男が忍を襲うために自分を気絶させたと思い込み、意識が戻って見たらあの体勢だったのでブチ切れたらしい。

 小太りの男の勘違いのおかげもあるだろうが、普段からサングラス男に何かと馬鹿にされていた恨みもあったのだろう。どちらにせよ忍の顔は殴られることなく守られた。

「へへへ……いくらなんでも、こんなとこじゃ嫌だよなぁ」

 次の敵は、この男。

 いやらしい笑みを顔面に貼りつけ近づいて来る小太りの男との距離を忍はじっと計っているように動かない。今の今まで忍が繰り出した技を知らない男は、これから自分の身に何が起こるか想像できるはずもなく、じりじりと忍に近寄って行く。

「忍さん、危ない!」

 男の手が忍へ伸びた。

 そのタイミングを見計らうように、忍は座ったままの体勢から男の喉元めがけてナックルパンチを叩き込むと、息が止まり喉を押さえてよろけた男の腹をめがけて右脚を蹴り上げた。蹴りが胃に命中した男は吐しゃ物を撒き散らしながら前かがみになったところへ、忍はとどめとばかりに組んだ両手を男の頭上めがけて思い切り振り下ろした!

 GO TO HELL...

「し、忍さん……」

 忍は服に付いた泥を払うと、何事もなかったかのように文音たちの方を向いてニッコリ笑った。

 サングラス男の血で汚れた忍の顔はそれでも美しく、倒れた二人の男を足元に立つ姿はまるで汚れた地上に降り立った聖者か大天使そのものにしか見えず、あまりの神々しさに文音の頭の中ではパイプオルガンの音が鳴り響いた。

「さぁ、翔平くん。もう大丈夫だから、立って一緒に逃げましょう」

 翔平は震えながら頭を抱えている腕の間から忍を見、次に倒れている男たちを見ると再び泣き出す始末……やれやれ。

 文音と忍はなんとか翔平を立ち上がらせると、モミの木が見える方角の雑木林へと分け入った。

 その時、倒れた男のどちらかのケータイから着信音が鳴った。もちろんふたりとも出られるはずもなく、やがて着信音は鳴り止んだ。

 三人目の男、ノンフレームの男がこの惨状を目の当たりにするのは、それから数時間後のことになる。


~ つづく ~

 

 

 

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ