第八話
急に睡魔が襲ってきて、危うく文音は翔平と同様この状況下で爆睡モードに突入するところだった。
小太りの男が一度ライトを照らして小屋の中を覗いただけで、あたりはシンと静まりかえっている。もう動物の声も聞こえなくなったことを考えると、日付はとうに変わった頃か。
月が昇ったおかげで窓から月明かりが差し込み、小屋の中がぼんやりと見えるようになった。連れてこられた当初は周りを見る余裕などなかったので、文音は目が慣れてくるのを待ってゆっくりと首をめぐらせた。
一見して物置小屋のようだった。広さは八畳間くらいだが長らく使用されていないのか、ほとんど物は置かれていない。正面に引き戸があって、窓は向かって左側面にひとつだけ。右と背後の壁には鍬などの農具を掛けていたのだろう金具が取り付けてあるだけで他は何も無かった。
(まるでお父さんちの納屋みたい)
一度眠って体力を回復した翔平は、またさっきから腹が減ったとか背中が痛いとかぶつぶつ文句を言い出した。
確かに菓子パン一つと牛乳だけでは、さすがの文音も翔平を責めることはできない。こんな状況下でさえ空腹を覚えるなんて、我ながら成長期の体を恨めしく思う。
犯人たちは忍の母親を脅すだけだと言っていた。それは、身代金目的ではないということなのか?
忍は時折、苦しそうに体勢を変えているのできっと眠れないのだろう。こんな状態では健康優良児の文音でさえ参りそうなものを、繊細な忍にすればすでに限界にきているのかも知れない。文音は、もしここで忍の身に何かあったらと考えるだけで震えが止まらなくなりそうだった。
「文音ちゃん、起きてる?」
文音の想いを察したのか薄闇の中、忍が文音の方に近づいてくるのがわかった。
「ちょっとだけじっとしててね」
忍はそう言うと文音の後ろに回り、手を縛っている縄を解きにかかった。
「し、忍さん!……縄、どうしたんですか!?」
忍はいつの間にか手足の縄を外していた。さっきから何やらゴソゴソ動いていたのは苦しいからではなく、自分を拘束している縄を解いていたのだ。
「シッ、静かに。次に戸が開いた時が逃げ出すチャンスよ、いい?」
忍は手際よく文音の手首と足首に巻きついている縄を外すと、次は翔平の作業に取り掛かった。
だが忍はその前に「決して足手まといにならないように」と、翔平に釘を刺すことを忘れなかった。翔平は、助かるのなら何でも言うことを聞きますと誓い、半日ぶりに自由になった手足を伸ばすと再び寝息をたて始めた。一体どれだけズ太い神経をしているか見てみたいものだ。
翔平の神経にも驚いたが、文音は忍の行動力に驚かずにはいられなかった。自分の目の前にいる忍は、昨日までの忍と本当に同一人物なのだろうか。あの、お嬢様然としてはかなげな美少女の姿を今の忍に見ることはできない。
また、いくら器用だからといって、大の男が縛った縄を解くというのも考えられないことだった。火事場の馬鹿力という言葉があるが、そんなものでは片づけられない。
忍は小屋の戸が開いた時が逃げ出す合図だと言ったが、男たちを振り切ってどうやって逃げるというのだろう。最初に戸を開けるのが三人の中で愚鈍そうな小太りの男だという確証はないし、もし三人同時に入って来たら?
だが、忍には文音を信じさせる何かがあった。そして文音も別の意味で大丈夫だと確信していた。
もし文音が見たものが正しければ、の話である。
トイレに行った時、木立の遥か向こうに見慣れた巨木を文音は見つけていた。山を覆う落葉樹林の中に一本だけ突き出た常緑針葉樹のモミの木は見間違うはずもない。その大きさから、まるで文音にもよく見えるようにと空へ向かって枝を伸ばしている木の下には父、武の家があるはずだ。その証拠にモミの木の横から立ち上る一筋の煙は、時間からして武が風呂の釜に薪をくべている煙に違いなかった。
距離はだいたい見て三キロか。
そうだ、もう鶏小屋が完成しているかも知れない。文音は新鮮な卵で作った目玉焼きを想像してヨダレが落ちそうになった。目玉焼きは簡単なようでいて結構難しいのだ。黄身が半熟なのがお気に入りの文音は必ず自分で焼くことにしている。完全に火が通る前に火から下ろし、フライパンに蓋をしたまま待つこと約三十秒、すると黄身の表面だけが薄っすらと白くなり中はトロトロの目玉焼きが出来上がるのだ。
父の武は半熟だろうが固めだろうが崩れていようがお構いなしなので、黄身はカチカチ白身の部分は焦げてパリパリという悲惨な目玉焼きを食べるハメになったことがある。それ以来、目玉焼きの担当は文音になった。さらにハムエッグだと、また火加減や加熱時間などのタイミングが変わってくるので詳しくは助かった後にでも。
夜明けが近い。
「文音ちゃん、翔平くん。男が入って来たら、私が引きとめている間に逃げるのよ。わかった?」
「ちょ……引き止めるって、忍さんひとりでどうやってですか!? それに、向こうがもし凶器を持ってたら殺されますよ!」
忍の突然の提案を聞いて、文音は一瞬で睡魔が吹っ飛んだ。
「あ、トイレ行きたいボク」
「バカ! 今トイレに行ったら縄が解けてることがバレちゃうじゃん。我慢しな!」
「えーっ、漏れちゃうよぉ!」
翔平のバカ! 本当に助かりたいと思っているのか、こいつは!
忍は黙って文音と目を合わせた。忍の澄んだ瞳は「だいじょうぶ」だと告げている。
「忍さん、それじゃ無事に外へ出られたら、今度はあたしの言う方向へ走ってくれますか?」
「文音ちゃんの後について行けばいいのね。ここがどこかわかったの?」
「はい、たぶん。ここから出たら右手にあるトイレと小屋の間を突っ切って逃げます。直線距離で三キロほど行ったところに人家があるはずです」
「文音ちゃんて頼もしいのね」
あ、そんな笑顔を向けられたら逃げる前に溶けてしまいます♡
「バカ翔平、わかった!?」
「バカとはなんだ! バカとはっ。万年エキストラのくせに生意気だぞ!」
「バカだからバカっつってんじゃん! 外へ出たらトイレの方角にダッシュだからね。遅れたら置いて行くよ!」
小屋の外に車が停まる音がした。ここへ連れて来られた時のトラックではなく、乗用車のエンジン音だった。
戸の外から「いつまで寝てんだ! さっさと起きろ!」という男の怒鳴り声がした。どうやら見張り役の小太りの男は熟睡中だったらしい。
やって来た男は声からするとサングラスの奴だ。三人の中で、文音がいちばん気に入らない男だった。感じ悪い態度も癇に障ったが、忍にした屈辱は許し難い。
思った通り、木戸を開けて入って来たのはサングラス男だった。その後ろには小太りの男が、まだ眠そうな目をしばたかせている。ノンフレームの男の姿はないようだ。
「おやおや、もうお目覚めでしたか……って、一睡もできなかったって言った方がよかったかな? こんな状態でグースカ眠れるわけないよなぁ……」
いやらしい顔でサングラス男が忍の方へ近づいて来た時だった。
忍は解いていた縄からスルリと抜け出すと、立ち上がりざまに男の顔面めがけて回し蹴りをくらわせた。そして間髪入れずみぞおちにも蹴りを入れると、サングラス男は背後にいる小太り男もろとも木戸の外まで吹っ飛んだ。
男たちは何が起こったのか理解する間もなく気絶してしまったらしい。いや、男たち以上に何が起こったのか理解できないでいたのは、それを見ていた文音と翔平の二人だった。
(ななななな! なに今のなに!? 忍さん今のなになんなのぉぉぉぉぉ!!??)
文音の脳裏には、忍の長い脚がしなやかに伸びて翻るがえったスカートから振り下ろされるまでの美しい軌道が何度もフラッシュバックしていた。
「今よ! はやく逃げて!」
忍の声で我に返った文音は、男たちもろとも飛ばされて壊れた木戸から外へ出た。すでに忍は文音の言った方角へ走り出していた。
文音は、ふと嫌な予感がして小屋を振り返った。
翔平が出て来てない!? あのバカ!
男はまだ気を失ったままだ。文音が踵を返した時、一陣の風が文音の横を吹きぬけたかと思いきや、忍が小屋へ入って行くのが見えた。速い!
「翔平くん! 早く!」
文音も追いつくと、小屋の中では翔平が失禁したあげく泣きじゃくり「怖いよぉ、怖いよぉ」と震えていた。忍に縄を外してもらったままの寝転がった姿で、逃げようという意志が全く感じられない。
「なにしてんのよ! 助かりたくないの!? 早く立てバカ翔平!」
翔平はダメだ。ここから逃げられても武の家まで走りきれるかどうかわからない。
とにかく、男たちが気絶している間に忍と二人で駄々をこねて丸まっている翔平を引きずり出すと、文音はもう一度モミの木の方角を確認した。
翔平はさらに号泣しながら「ママー! ママー!」と叫んでいる。文音は怒りを通り越して呆れ返るほかなかった。
「こ、こ……の、あま……!」
そんな翔平の泣き声が目覚まし代わりになったのか、サングラス男が意識を取り戻した。
「かわいい顔してとんでもねぇ女だ。油断してたぜ」
忍は文音と翔平を庇うように男と向かい合った。男は二度と同じ手には乗らないというように、こちらの隙をうかがいながらじりじりと間を詰めて来る。
今度こそ、もうダメだ。
頃会いだと判断したのだろう。男が忍に飛びかかった。
~ つづく ~