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第二話

 雨でぬかるんだ坂道を泥跳ね気にしながら登って行くと、雑木林の中にそびえ立つひときわ大きなモミの木と小さな民家が見えてくる。

 九年前に離婚した後、文音を祖父母に預けて父の倉本武が一人でコツコツと建てた家だが、この家に文音の部屋は無い。

 なぜ武は舞台美術の仕事、しかも美術総監督という地位を捨ててまで農業を始めようと思ったのか、文音は一度だけ聞いてみたことがある。

「もうこれ以上、作っては壊す仕事が嫌になったんです」と、彼は答えた。

 その時はわからなかったが、今は文音にもなんとなくその気持ちがわかるような気がする。

 武は芸能界が嫌になったのかも知れない。文音が劇団に入るのを最後まで反対していたのも武だったから。


 武と友里恵の馴れ初めは、彼が美術を担当することが決まっていた舞台のオーデションでのこと。

 友里恵はプロダクションからサブキャストを決めるためのオーデションだと聞かされていた。その審査員の中に武がいたのだ。

 友里恵は事前に与えられていたセリフで演技をこなし、後は審査結果を待つのみだった。

 その頃の友里恵はデビューしたばかりの新人で、特に大役を射止めたこともなく、この日もどうせまたダメなんだろうなと早々に帰り支度を始めていた。

 ところがフタを開けてみると、友里恵がサブではなく主役に大抜擢されていたのだ。わけがわからない友里恵に当時のマネージャーが教えてくれたのは、美術監督の武が大プッシュしたとのこと。

 倉本武の創り上げる舞台美術は『倉本イマジン』と呼ばれる独特なカラーで、芸術作品としての評価も高く美術専門誌にもたびたび取り上げられるほど有名だった。ファンも多く、舞台人なら一度は武と仕事がしたいと思われる存在でもあった。

 その武が主役は友里恵しかいないと言うのだから監督を含め誰も反対する者はいなかった。今回の舞台、いや、のちに彼は友里恵こそ自分が手がける舞台美術とシンクロするために生まれてきた女優だとも言い放ったのだ。

 そして舞台は大成功をおさめ、国内外から高い評価を受けた友里恵の演技は一躍業界の注目を集めることになる。

 それが縁で、やがて二人は結婚し文音が生まれるのだが三年後に協議離婚。結婚の時以上にワイドショーを賑わせたのは言うまでもないが、その五年後に武が突然舞台美術の仕事から引退したことも世間を驚かせた。

 すべてを捨てた武は身ひとつでこの地に移り住み、自給自足の生活を始め世間から完全に隔絶した。ここには武の輝かしい過去を知る者は一人もいない。

 そういう暮らしを彼は望んだのだ。


「お父さーん! 文音です。お父さん、お留守ですかー!?」

 まったく、この家にはチャイムというものが無いので来るたびにこうして大声を張り上げなければならない。周りに家が無いからいいようなものの、難しい年頃の文音にとっては恥ずかしいことこの上ない。

 文音が劇団のレッスンで鍛えた声で呼んでも出てこないところをみると、この雨の中まだ畑から戻ってないらしい。

 勝手知ったる父の家。鍵などかけるように作られてはいない。いまどき物騒にも程がある家の、ちょっと建てつけの悪い玄関の戸を開けて文音は中に入った。

 ぷーんと木の湿った匂いがする小さな手作りの家の中は八畳間がひとつと六畳間がひとつ、土間の台所と狭い風呂があるだけの平屋だ。外にはトイレと農機具小屋と以前飼っていたヤギの小屋がある。

 八畳間の本棚には農業に関する本ばかりが並んでいる。テレビが無いので文音がエキストラで出演したとしても武には知る術がなかった。

 お父さんは、あたしにもお母さんにも関心が無くなったんだ……。そう思わずにはいられない文音だ。

「お、文音。来てたんですか」

 台所の木戸が開いて、武がずぶ濡れで入ってきた。手にはザルいっぱいのエンドウ豆を持って。

「今日、学校はどうしたんです?」

「この近くでロケだったの。でも、雨で中止になったから」

「何度も言いますが学業優先ですよ。矢沢くんには平日に仕事は入れるなと言っておいたんですが、まったく」

「彰子さんが悪いんじゃないよ。あたしが頼んでるの。このお仕事が楽しいから」

 学校が楽しくないわけではなかったが、芸能界という一種独特の世界にある緊張感が文音は好きだった。子役といえど決して子供扱いされない世界。遅れた、忘れた、できませんは通用しない世界……それは子供の文音が、唯一大人になれる世界だった。

「お父さん、久しぶりにお風呂沸かしてあげるよ」

「そうですか、じゃあお父さんは豆ご飯を炊きましょうか。おかずはエンドウ豆入りオムレツです」

「うわぁ、豆づくしだね。なんだかすごく体に良さそう!」

 薪で沸かす風呂は焚口が外にあるので冬は寒くて大変だ。父が入ってきた木戸から外へ出て農機具小屋の横にある薪置き場からひと抱えの薪束と焚きつけ用の柴を取りに行くと、ヤギ小屋の隣にもう一棟小屋が増えていることに気がついた。軽トラが一台入るくらいの広さだが、板張りの壁は北側だけであとの三方は金網になっているところを見ると車庫のようではなさそうだ。

「お父さん、あの小屋はなに?」

「ああ、ニワトリ小屋ですよ。隣町の養鶏所から安く譲ってもらう予定なんです。次に来た時は、新鮮な卵が食べられますよ」

「目玉焼きは、あたしが作るね!」

「文音は目玉焼きにはうるさいですからね。お願いします」

 ニワトリねぇ……。着々と武の自給自足化は進んでいるようだ。

 文音は風呂の焚口から昨日の燃えカスをきれいに取り除くと、丸めた新聞紙の上に焚きつけの柴を並べた。そしてその上に三、四本の薪を重ねて置いたら新聞紙に火をつけ、うちわで風を送り込む。不完全燃焼にならないように空気量の調節が難しいところだ。

 文音は手際よく薪に着火させると煙突から立ち上る煙を見ながら、こんなに上手く薪をいこらす中学生はまずいないだろうと思うのだった。

 文音が風呂を沸かしている間に、武は採れたてのエンドウ豆で作った料理をテーブルに並べ、釜で炊いたご飯のおこげを文音の茶碗に取り分ける。文音は釜炊きご飯のおこげが大好物なのだ。

「今日は泊っていきますか?」

「うーん、ここケータイの電波圏外だし、明日は学校あるから帰る」

「じゃあ食べたら暗くならないうちに駅まで送りますね」

「あの軽トラ、まだ動いてンだ」

「当たり前です。ちょっとバッテリーが弱ってますが、まだまだ走りますよ」

 エンドウ豆のご飯は美味しくて塩加減とおこげの香ばしさが絶妙な風味を出していた。

「豆ご飯、おじいちゃんたちに持って帰ってもいい?」

「もちろんですよ。それじゃ包みましょう」

 武は決して両親に会おうとしない。離婚したかと思えば勝手に仕事を辞めて百姓の真似ごとを始めたバカ息子が、それだけでは飽き足らず子供の育児を放棄し子育てを押しつけられたと思っている両親のことを考えると、自分を許すわけがないからだ。

「おじいちゃんとおばあちゃんによろしくと伝えておいてください」

 文音は豆ご飯と茹でたエンドウ豆をお土産にもらい武の家を後にした。


 先日の雨で延期になったドラマ『飛べない天使~僕はきみを守りたい~』の撮影より先にCMの仕事がひとつ入った。

 私鉄道会社のテレビCMで、文音はプラットホームにいるモブ(その他大勢)のひとりだ。

 主役は大手プロダクション「ダンクシュート」所属の桂木忍。最近頭角を現してきた美少女女優で、歳は文音より三つ年上の十五歳だが、小柄で華奢な体形は長身の文音より年下か同学年に見える。

 また奇跡の美少女と言われているだけあって、その整った顔立ちは心なしか憂いを含み、透き通るような色白の頬に影を落とす長いまつ毛が同性の文音から見ても胸キュンものだった。これが「萌え」というのだろう。

 忍の母親は元女優で、やはり美人だ。忍が美しいのも納得がいく。では文音はというと、悲しいかなガッツリ父親に似てしまったようだ。

 忍が芸能界に入ったのは十歳の時、街でスカウトされたのがきっかけだったのもスタートからして文音とは違っている。

 だが忍の母は彼女の芸能界入りをかなり反対していたという。忍が虚弱体質ということもあったが、自分が身を置いていた世界なので華やかな部分ばかりではない厳しさや辛さを知っているからだろう。それもあってか、最初はあえて地味な仕事ばかりを選んでいたが、忍ほどの美貌の持ち主をこの業界が放っておくはずもなく、携帯電話会社のスチール写真に起用されるや母の思惑とは反対にたちまちブレイクしてしまったのである。

 そんな高嶺の忍とはもちろん会話などしたことがない文音だったが、仕事で一緒になることがよくあった。言うまでもなく文音はエキストラだが。

 今日もメイクさんや大勢のスタッフに囲まれている忍を遠くから見ているだけの文音だったが、自分が忍に好感を抱く理由は彼女の美しい容姿によるところだけではなかった。忍は芸能界の中にいて珍しいほど控え目で自ら目立つ振る舞いはしない。これだけ注目を浴びてちやほやされれば少しぐらい誰かさんの様に天狗になってもよさそうなものだが、忍は驕るどころか誰に対しても謙虚だった。それもまた忍の人気に拍車をかける要因のひとつだ。まったく、翔平に忍の爪の垢でも飲ませてやりたい。

「おはよう文音。今日も学校を早引きさせちゃって悪い。また倉本先輩に怒られちゃうね」

「おはようございます、彰子さん」

 この業界は二十四時間「おはようございます」だ。最初は慣れるまで違和感があった文音だが、今では学校でもつい言ってしまうのでそのたびに友達から「今、朝じゃないよ」と注意されるのだった。

「彰子さん、なっちゃんのオーデの結果は今日出るの?」

「それがまだなんだ。二、三日中には出ると思うんだけど、今度こそ合格させてやりたいね」

 今日、夏美はミュージックビデオのダンスオーデションへ行っていた。合格すればミュージシャンのサイドで踊れるおいしい立ち位置なのだが、B系のバンドなのでヒップホップやストリートダンスが苦手だと言っていた夏美のことが心配だった。

 忍のスタンバイが完了したようだ。監督の声が掛かり、文音たちも立ち位置につく。帰宅ラッシュ前の短い時間を使っての撮影なので監督は一発OKを狙っている。

 忍の役どころは、恋人が乗っている電車がホームに入ってくるのを待つ少女で、会える喜びと少しの恥ずかしさが入り混じったはにかんだ表情のアップで幸せを表現するというものだった。

『あなたとなら、どこまでも……N電鉄』

 キャッチコピーのナレーションも、ハスキーなところがたまらないと言われている忍が担当している。

「ではいきます。ハイ、よーい……スタート!」 

 現場に緊張感が走る。カメラが回り文音たちエキストラは不自然にならないようホームにいる客たちを演じる。

 時間通りに電車が入ってきた。一般の客をさばくADとスタッフ。もうすぐ忍がホームに走って来る頃だ。

「ストーーーップ!!」

 思わぬところで監督の止めが入った。何事かとその場にいた者が動きを止めると、急に階段のあたりが慌ただしくなった。電車が去った後、人垣の中心に忍が倒れているのが見えた。

 すぐに救急車が呼ばれ忍は病院へ運ばれたが、制作側にとっては忍の心配よりスケジュールが狂ってしまったことで受けるダメージの方が大きいのは否めない。

「またかよ、最近多いな」

「忙しすぎなんじゃないの」

「もともと体弱いらしいよ」

 あちらこちらからエキストラのひそひそ話が聞こえてくる。

 結局、このCM撮影も忍の回復を待って延期されることになった。どうしても忍でなければダメだというクライアントの希望があってこその延期だ。普通の役者なら即、交代である。

「文音もツイてないね。この前といい今日といい」

 そう言う彰子さんも、またエキストラのスケジュール調整をしなければならない。

「忍さん『飛べ天』の主役だよね。体、大丈夫なのかなぁ」

 次の土曜日に撮影が決まった延期になっている二時間ドラマ『飛べない天使~僕はきみを守りたい~』での忍の役は、家出した少年(大野翔平)が恋をする病気がちな少女の役なのではまり役といえなくもないのだが。

「でさ、ここだけの話だけど文音の耳には入れとくわ。マネージャーの江藤だけど、桂木忍をダンクシュートからうちへ引き抜く気でいるみたいだよ」

「マジ!? それいくらなんでも無理でしょ」

「無理は承知で計画でもあるんじゃないの? うちには女子の看板子役がいないから江藤としてはどうしても欲しいんだろ。忍はまんま江藤好みだし。あ~あ、私も文音をプロデュースできりゃ負けない自信あるんだけどなぁ」

「残念でした」

 それにしても、えこひいき……じゃない江藤喜一が桂木忍を狙っているとは驚いた。いくら劇団「とび箱」が子役の有名どころとはいえ、忍を見出したのはダンクシュートプロダクションの社長自身である。たとえ忍がOKしたとしても、ただでさえ芸能界から遠ざかりたいと思っている母親の桂木智子が阻止するに決まっている。

 桂木智子は二十五年前に女優を引退してからジュエリーデザイナーとして成功を収め、今では世界的に活躍するセレブだ。ゆくゆくは忍にも自分の後を継いでジュエリーデザイナーになってもらいたいというのが本音だった。

 その智子が芸能界から引退した理由に、当時付き合っていた二枚目俳優の結城英二が映画の撮影中にバイク事故で亡くなったショックからだと言われている。そして忍は、その結城の子供らしいというのだが定かではない。

 文音は映画で結城英二を見たことがある。忍の年齢が二十五歳以上なら、本当に結城の子供だと噂されてもあながち嘘ではないかも知れないが。父親に似ても、かなりの美形に育ったことは間違いないからだ。それくらい結城英二はイケメンだった。

 美人薄命か……。

 同じ女優の子供でも忍とは正反対の自分に少しばかり安心する文音だった。


「文音、時間が余ったことだし、今から小野寺友里恵の舞台稽古見に行くかい?」

「どうしよっかなぁ、行ってもいいけど翔平いるじゃん。それに……」

「大丈夫だよ。二階席の端で見てればわからないって」

「じゃ、演技の勉強がてら見に行きますか」

 小野寺友里恵が主演の舞台『女王ヘレンディア』は、1700年代フランス革命の時代に生きた架空の女王の物語だ。有名脚本家が、わざわざ友里恵のために書き下ろした作品で制作発表から話題になっていた。

 劇場に着くと彰子は翔平の様子を見てくると言い、文音をひとり残して楽屋へ行ってしまった。

 文音が目立たないように二階席の端の扉を開けると、耳に飛び込んできたのは友里恵の歌声だった。

 圧倒的な声量。マイクを通さずとも劇場の端まで届く美しい歌声に感動のあまり鳥肌が立ち、文音は動くことができなかった。 

 女王ヘレンディアが王子と引き裂かれ国を追われるくだりでは、友里恵の芝居に賭ける情熱がひしひしと感じられ、文音は流れる涙をぬぐうことも忘れて見入っていた。

「やっぱり凄いね、小野寺友里恵は」

 いつの間にか彰子が文音の隣に座っていた。

「うん。あたしを産んでくれた人だなんて思えない」

 物語の後半は、侍女と共に平民となって身を隠していたヘケンディアが王子と再会し、再び国を築き上げていくという内容だ。悔しいが、翔平の演技も様になっている。

 ラストシーン、再会した王子と喜びを歌い上げる友里恵の姿に感動と嫉妬を覚えずにはいられなかった。

 やはり小野寺友里恵は凄い。どうあがいても彼女には追いつけない、と改めて感じる文音だった。


~ つづく ~


 

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