第十八話
友人の芸能記者、町田ミキから連絡が入ったのは彰子が自宅に戻ってすぐのことだった。
『彰子、犯人捕まったんだって!?』
「どうして、それを……」
しまった! 何か進展があった時はすぐミキに知らせる約束だったのに、真山にキレたり小野寺友里恵からの電話に出たりですっかりそのことを忘れてしまっていた。自分からミキを頼っておきながら薄情なものだ。
『犯行に使われたトラックが見つかって、その中に犯人がいたってネットに流れてるよ』
「そ、そんなの、がせネタかも知れないじゃない」
『オンラインゲームの中で、一部のアバターたちが騒いでるらしいのよ』
ゲーマーが? なぜ仮想空間の中で今回の事件が話題になっているのはかわからないが、重大事件にもかかわらず情報が少な過ぎるため、関係者は針の穴から漏れ聞こえてくるささいな手掛かりにさえ敏感になっていたのは確かだ。
『でも桂木忍が無事に保護されたってワードは出てきてないのよね。どういうことなの?』
「そうなの。どうやら自力で犯人たちからは逃げることができたみたいなんだけど、まだ見つかってな…………あっ!」
ミキに話ながら、彰子はあることに気がついた。
忍たちを拉致したトラックが見つかった場所はどこだった?
……倉本先輩!!
確か倉本先輩の家からそう遠くない場所だったはず。
もし文音がそれに気づいたら?
「ミキ、わたし大馬鹿だ!」
彰子は自分の推理をミキに話した。忍たちが武の家に向かったにしろそうでないにしろ、彰子は何よりも先に文音が誘拐されたことを親である武に知らせに行くべきだったのだ。
『でも、そのあたりは警察犬が捜索してるんでしょ?』
ミキの言うとおり、トラックが見つかった周辺やその地域に警察犬が導入されたが、彰子は犬の鼻があの山中では役に立たないかも知れないと思っていた。
なぜなら、あの区域には猪除けの駆除剤が撒かれているからだ。駆除剤は都市ガスのような臭いがしており、初めて匂いを嗅いだ彰子はガス漏れと勘違いしてガス会社に連絡したほどだった。
あの時は笑い話で済んだが、未だに忍たちの発見に至らないことを考えても警察犬が駆除剤に苦慮していることは間違いないだろう。
「とにかく、倉本先輩のところへ行って来る!」
彰子は帰って来た時の服装のまま自宅を飛び出すと、急いで武の家へ向かった。
武の家には通信手段が無いので警察に連絡するのは本当に彼らの無事な姿を確認してからでも遅くないと判断したのだが、災害や何かの時のためにせめて無線機を設置してほしいと何度も提案していた彰子にしてみれば、今回がその「何か」なんだから! と、武に詰め寄らずにはいられない心境だ。
彰子は車を走らせながら、武が小野寺友里恵と別れた時のことを思い出していた。
あの時、武はすでに着々と一人暮らしの準備を始めていたあの場所で畑を耕していたのだ。メディアが連日トップニュースで取り上げ、友里恵のもとには芸能リポーターが殺到して大変だった時に、彼はひとり陸の孤島と化したあの家で誰にも邪魔されることなく過ごしていたのだ。
結局、その隠れ家は発見されることなく現在に至っている。もしあの時見つかっていれば、きっとまたどこかの山奥に移っていたに違いない。
それほどまでに人を遠ざける武の心境が彰子には理解できなかった。単に仕事が嫌になっただけではない、もっと何か深い理由があるというのだろうか。
(倉本先輩はずるい。なんでも自分ひとりで抱え込み処理しようとする。離婚の時だって後輩のわたしにそんなそぶり微塵も見せなかったし、いくら幼かったとはいえ文音は完全に蚊帳の外だった。そのことで文音が傷ついていないとでも思っているのだろうか)
事件のあった件の公園を左手に通り過ぎ、穏やかな山道へと車を乗り入れた。
いくつかのカーブを曲がりアスファルトの道路から未舗装の林道へ入ると、時折キツネや鹿といった野生動物が突然目の前を横切ったりするので細心の注意を払って運転しなければならない。さすがに熊が出たという情報はないが、出没するのは時間の問題だと思える環境だ。
しばらく林道を進むと、正面に一本だけそびえ立つ巨大なモミの木が見えてくる。あそこが武の家の目印だ。その証拠にモミの木の下方から薄っすらと煙が立ち上っている。
いかにも人の手によって切り開かれたといっていい脇道に車を入れる。もちろん表札などかかっていないので、この先に人家があるのは知る人ぞ知るである。
いつだったか車を玄関先まで乗り入れたはいいがサッカーボールほどの岩が目に入らず、みごとにブチ当たりバンパーを破損した記憶がここへ来るたびに蘇る。
すでにその岩は武によって取り除かれていたが、あの時のことがトラウマになっている彰子はいつものように少し離れたスペースに車を停めると、大きく深呼吸をして車を降りた。
(どうか文音たちがいますように)
「倉本先輩! 矢沢です! 倉本せ……」
祈る気持ちで彰子は玄関の引き戸へ向かって声をかけた。
すると突然戸が開いたと同時に黒い影が飛び出して来るや、彰子の胸にしがみついた。
「彰子さん!」
驚いて固まる彰子の耳に文音の声が響いた。
「文音! よかった! やっぱりここへ逃げて来てたんだね」
文音は彰子に飛びつくと、その胸に顔を埋めて泣きじゃくった。彰子の声を聞いたとたん今まで押し殺していたものが、一気に堰を切って溢れ出したのだ。
自分の予想に自身があったとはいえ、やはり本当に文音の元気な顔を見るまでは不安だった彰子も涙声になる。
「矢沢くん、やっと来てくれましたか」
「倉本先輩、遅くなって申し訳ありません」
「悪いのはお父さんだよ。だいたい軽トラが動いてたら、もっと早く知らせに行けたのに!」
「そうだったの……でも無事でよかった! 忍さんと翔平は!?」
その時になって、彰子は見知らぬ少年がいることに気がついた。
すらりとしたいでたちの少年は、どこか見覚えのある顔で彰子に頬笑みかけている。その笑顔は、まるでこの世のものとは思えないほどに美しく、少年の着てる服だけがやたらと現実味を帯びて見えるのだった。
「彰子さん、キョトンとする気持ちはわかるけど……彼、忍さんだよ」
文音の言葉の意味が理解できるまでどれくらいかかったろう。彰子は忍の母、桂木智子からすべて聞いていたにもかかわらず、目の前の少年が桂木忍だと認識するまでにかなり右脳をフル稼働させなければならなかった。
「この姿でお会いするのは初めまして、ですね。矢沢さん」
ハレルヤ!
少年は天使のような笑顔とともに静かに右手を差し出した。
言われてみれば、髪を伸ばして清楚なワンピース姿を思い重ねると確かに美少女女優の桂木忍に瓜二つだ。いや、本人だから当たり前か。
「で、でもどうして……」今さら、と言いかけて彰子は言葉を探した。
「もしかして忍さん、自分の秘密のことでお母様が脅迫されていると思っているならそれは違います。犯人は捕まりましたし、動機は他にあったんです」
「犯人の動機は関係ありません。俺は俺自身の意志で、嘘の自分にピリオドを打ったまでです」
思い違いで正体を明かしたのでないとすれば、今ならまだ元の桂木忍に戻る時間はあると説得する意味はない。
……なぜだろう。ただ髪を短くして一人称を「私」から「俺」と替えただけで、彰子の前にいる忍に昨日までの儚い少女の面影はどこにもなかった。
人間とは大きな決断をすることによって、こうも強く変われるものなのか。
拉致されてからここへ逃げ込むまでの経緯はあとで文音に聞くとして、今回の事件が皮肉にも母子で頑なに守り続けてきた結界を解くまでの決心を忍に芽生えさせたことは間違いなかった。
「それでね、彰子さん。忍さんは芸能界から引退するんだって……」
なぜか文音が申し訳なさそうにそう言った。
「文音ちゃんの言う通りです。もう決めました」
忍は本気で芸能界から姿を消すつもりなのだろう。
しかし辞めると宣言するのは簡単だが、忍の場合はいそうですかでは済まされない。CM契約やドラマのスケジュールが年内いっぱい埋まっているだけでなく、来年はもちろん今後最も期待されている女優のひとりなのだから。
それでなくても誘拐事件に巻き込まれて無事に戻って来たというだけで大ニュースなのに、実は男でしたなんてことになったらそれこそ大騒動だ。芸能界から去るにしろ、忍の将来にどんな影響を及ぼすか計り知れない。
(どうしよう。こんな重大なこと、わたしの力ではとても抑えきれない)
「本当にすみません。矢沢さんのご心配はよくわかります。それでも俺は……」
彰子の心中を察した忍自身も自分ではどうするのがベストの方法なのか考えてはいないようだ。
「私に一案があるのですが、矢沢くん。協力してもらえますか?」
成功率は限りなく低いが、という前提で武の立てた作戦が実行に移されることになった。
~ つづく ~




