第十七話
「忍さん、おっそいな~」
忍が風呂へ入って、かれこれ一時間以上になる。
「お父さんどうしよう、もしかして倒れてるなんてこと!」
「いえ、それは大丈夫でしょう。それじゃあ、私たちだけで先に食べましょうか」
ここへ来てから忍に対する武の態度が、やはり気になる文音だった。
忍は風呂へ入る前、武に「ハサミを貸してほしい」と頼んだ。武は理由を聞くどころが何も言わずに裁ちバサミを持って来ると忍に手渡したのだ。
「お父さんは忍さんの何を知っているの?」
「ずいぶんと大雑把な質問ですね」
「はぐらかさないでよ」
「個人情報保護法です」
「個人情報っていえばさ、ボクたちのことニュースになってるのかな? おじさん、テレビ点けてよ」
忍のいない食卓を囲む中、ひたすら料理にガッついていた翔平が、思い出したようにそう言った。
「すみません。うちにはテレビが無いんです」
「え~~~っ、マジ!? いまどき信じらんねぇ!」
文音も気にはなっていた。いくらマスコミの間で報道協定が結ばれたとしても、あれだけ大勢の人間がいたロケ現場で起こった事件だ。どこから情報が漏れていてもおかしくない。
文音は小さな噂話が人の間を廻り廻るうちに、とんでもない内容に化ける恐ろしさを知っていた。
文音の場合は大女優小野寺友里恵のひとり娘ということで、今まで何度そんな思いをしてきたかわからない。SNSが普及したネット社会の現代では、さも見て来たかのような大嘘が垂れ流され拡散されていくのだ。
その証拠に文音はネットの中で二度死んで、一度は生まれていないことになっている。最新の情報では、二十四歳で一般企業のOLという説が有力らしい。そうすると、母の友里恵は十歳で文音を産んだことになるのだからバカバカしいにも程がある。
きっと今回も文音たち三人は、とっくに死んだ事になっているのだろう。
「じゃ、おじさんはボクがどれだけ有名なアクターか知らないわけだ」
お~お、アクターときたもんだ。
「はい、すみません」
「ちょっと翔平、お父さんがあんたみたいなザコ知ってるわけないじゃん!」
(もっとも~~~っと有名な人たちと知り合いなんだからね!)
「なんだとっ、ザコはお前の方だろ! 悔しかったら役付きになってみろよ! 万年エキストラのくせに……」
「翔平くん、それは言い過ぎだよ」
突然、背後から文音を擁護する声がした。
文音の父、武は以前ヤギを飼っていたことがある。閉園になる移動動物園から譲り受けたのだ。
ヤギの乳を採る目的で生後一年未満のオスとメスの二頭がやって来た。だがこの二頭、よほど相性が悪いのか、いつまでたっても交尾する気配がない。妊娠の兆候がみられないまま一年が過ぎようとしていたある日、メスヤギの異変に気づいたのは文音だった。
「お父さん、うちのメスヤギおしっこ前に向かって飛んでるよ。こないだ自然学校で見たメスヤギと違うよ!」
武が元園長に連絡を取って確認したところ、誠に申し訳ないことに飼育スタッフが間違えて渡してしまったとのこと。
なんとメスだと思っていたヤギは、実は去勢したオスだったのだ。
今となっては笑い話だが、あの時の武と文音の落胆ぶりはかなりのものだった。一年待ったにもかかわらず武はヤギの乳を、文音は可愛い仔ヤギを抱く夢が消えてしまったのだから……。
そうとわかれば飼っていても餌代がかかるだけだからと手放すことになり、ヤギたちは地元の幼稚園に引き取られて行った。
別れの時に涙は出なかったが、勝手にメスだと思われて妊娠の期待を一身に背負わされていた元メスヤギが文音は不憫でならなかった。きっと園児たちは性別など関係なく可愛がってくれることだろう。
……ふと、文音の頭の中を忘れかけていたヤギたちとの記憶が通り過ぎた。
「お風呂、使わせていただいてありがとうございました。文音ちゃん、遅くなってごめんね」
文音の視線の先には、武の洗いざらしたシャツとズボンを身に付けた美少年が立っていた。
「さぁ、忍くんも座って食べましょう。文音、忍くんにご飯をよそってあげなさい」
「……は、はい!」
横を見ると、翔平は箸の先に目玉焼きを突き刺して口元へ持っていこうとしたままの体勢で固まっていた。もちろん視線は「忍くん」と呼ばれた少年をガン見の状態である。
「あ、あの……忍さん? ……髪、は……?」
「切っちゃった。あ、お風呂場はちゃんと掃除しといたからね」
いえ、そういうことじゃなくて! ……と、ツッコミを入れる余裕も無いのは、胸まであった美しい長髪がバッサリと切られてベリーショートになっていたからだ。
「文音ちゃん、翔平くん、今まで騙しててごめん。実は俺、男なんだ」
バタン! という音がした方を見ると、翔平が目玉焼きを持ったまま後ろへひっくり返って気絶していた。
「文音、翔平くんの様子はどうですか?」
「あいつなら心配ないない。呑気に爆睡中よ」
「なんか責任感じるな」
「忍さんは何も悪くないですよ。そりゃ、驚かないって言ったら嘘だけど……」
本当は驚いたなんてもんじゃなかった。翔平が先に倒れてくれたおかげで文音はなんとか耐えることができたと言っていい。
食事の後、忍はすべてを話してくれた。長い話だったが、自分の感情を入れることなく淡々と今日に至るまでの複雑な生い立ちを打ち明けてくれた。
聞けば聞くほど小説のような内容だったので、文音は実感が伴わずドラマの打ち合わせをしているような錯覚に陥っていた。
「俺、倉本さんのおかげでどれだけ救われたかわかりません。だから倉本さんが業界を去ったって聞いた時は本当にショックでした」
「黙っていてすみませんでした。でも、きみは一人で頑張ったんですね」
「はい。母のためにも自分のためにも、すべてを受け入れることにしたんです。自分は間違って生まれて来たのかも知れない。でも、それでも生まれてきたことに意味があるのなら、それを探すために生きてみよう、って」
今の言葉を聞いて、忍はこの答えを出すまでに何度も生きることに背を向ける選択をしたに違いないと文音は感じた。
「忍さんは、どうしてお父さんに打ち明けようと思ったんですか?」
「それはね、男だってことを見破られたからだよ」
えぇぇぇーっ!! この父にそんな眼力があったなんて! どこからどう見たって忍が男だとわかる人間はまずいないと言っていい。すべてを聞かされた文音でも、まだ信じられないのだから。
「長年、立体造形なんかやってるとね、わかるものなんですよ」
「いえ、倉本さんだからです。それにわかった上で俺の相談役になってくれたばかりか、ずっと秘密を守っていてくれた」
「話す相手がいなかっただけです」
(おいおい、ここにいただろ!)と、文音は武を睨みつけた。
「もっと早く文音ちゃんが倉本さんの娘さんだって知ってたらよかったのにな」
「べつに宣伝して回ることでもありませんから……ねぇ、お父さん?」
じゃあ小野寺友里恵の娘だっていうことはどうなんだ? 宣伝して回るには十分過ぎる謳い文句だぞ。
「俺にはわかるよ。文音ちゃんの気持ち」
そうだ。忍は自分なんかよりもっと大きなものを隠して生きてきたのだ。ストレスに押し潰されそうになったこともあっただろう。ちっぽけな秘密を抱えた文音でさえ、そんな時があるのだから。
「今回の犯行は確かに俺をターゲットにしたものでした。犯人がそう言ってましたから」
「忍くんを造った……いや、失礼。その真山という人物が犯人だとは考えられませんか?」
「それは無いと思います。彼にはそんなことをする理由もメリットもありませんから……倉本さん、俺はもう疲れました。帰ったら母に打ち明けます。真山は俺たちの居場所も何もかも知ってる上で見逃してくれていたということを……(だから、もう俺は自分に戻ってもいいですよね? 倉本さん)」
武は忍の頭に手を置くと「今まで、よくがんばりました」と言って、短くなった頭髪をわしわしと撫でた。
忍の肩が震えているのを見て、文音はそっと目をそらした。
「そうしたら忍くんは、この後どうするんですか? 芸能界に戻るんですか?」
そうだった。大きな問題が残っていた! 芸能界に残るにしろ辞めるにしろ、国民的美少女女優が実は男でした(しかも自分からカミングアウトした)となれば、メディアの餌食になるのは目に見えている。
「俺、芸能界は辞めます。目的は果たせましたから……立場は違いましたが、結城英二に少しは近づけたと思います」
「そう、それはよかったです」
「ただ、文音ちゃんと翔平くんを巻き込んでしまったのが申し訳なくて」
そう言うと、忍は文音に向かって頭を下げた。
「や、やめてくださいよ! っていうか、忍さんとこんなにお話しできたことの方が嬉しいっていうか夢みたいっていうか……ごめんなさい、あたしこんな時でもほんとミーハーで……」
はぁ~、自分でも情けなくなる。
「俺の方こそ、文音ちゃんと友達になれて嬉しいよ。いろいろなことも教えてもらったし」
え? と・も・だ・ち? 聞き間違いではないようだ。このひと言でダダ下がりだった文音のテンションが一気に上を向いたのは言うまでもない。
「忍くんに何を教えてあげたんですか?」
「キ、キツネの鳴き声とか……」
言ってからしまった、と思ったが遅かった。
「ああ、ちょうど今は交尾の時期ですからね。あの声には驚かされますよ」
文音は自分でも耳まで真っ赤になるのがわかった。この時ほど忍が女性のままだったらよかったのにと思わずにはいられない。
「木登りも上手いんだよね」
「文音は木登りのインストラクターができるくらいの腕前を持っていますからね」
ガーーーーーン!! 忍さんに見られた? ……水玉パンティ……ガーーーーーン!!
「ところで倉本さん、家の裏を整地されてたみたいですけど、どうするんですか?」
「はい、文音の部屋を増築しようと思っているんです」
(え!? あたしの部屋?)
「よかったね、文音ちゃん」
知らなかった。ここは武ひとりだけの城だと思っていた。
「倉本さんさえご迷惑でなければ、俺にも手伝わせてもらえますか?」
「なに言い出すんですか! 忍さんにそんなことさせられるわけないじゃないですか。ねぇ、お父さん!」
「忍くんさえよければ助かります」
こンの親父はーーーーーっ!
「文音ちゃん、俺けっこうセンスいいんだよ。特に女の子の部屋に関してはね」
冗談とも本気とも受け取れず、大工仕事に汗を流す忍の姿を想像して軽くめまいを覚える文音だった。
たとえどんなに汚れた服を着ていても忍が美しいことに変わりなく、男だとわかっても文音にとって忍は天使以外の何者でもないのだが……。
「車が来ますね」
最初、その音に気づいたのは武だった。
「どうしよう、お父さん! 隠れた方がいいかな!?」
耳をすまさずとも、確かに車のタイヤが砂利道を踏みしめて近づいて来る音が文音にも聞こえてきた。
~ つづく ~




