第十二話
倉本文音、桂木忍、大野翔平の三人は明けゆく雑木林の中を彷徨っていた。
「おいっ、バカ文音。人のことバカバカ言いやがって! お前こそ大口たたいて迷ってんじゃねーよ!」
すっかり元気を取り戻した翔平は、新緑に茂った木々によって目印のモミの木を見失った文音を責め立てていた。
「大丈夫、文音ちゃん。落ち着いて」
ただでさえ追われているという焦りと、自分のせいで遭難(?)させてしまった申し訳なさと、チビッて泣いていた翔平になんでここまで言われなければならないのかという情けなさとで、忍の優しい言葉も文音の頭上を通り過ぎていくだけだった。
自分ではちゃんとモミの木の方角へ進んで来たつもりだったが、すでに三キロ以上は移動したと思われるのに父の家どころか家に続く林道にすら繋がる様子は無い。
どこか高い場所から周りを見ることさえできれば……。
「文音ちゃん!?」
忍が驚いたのも無理はない。文音は靴を脱ぐと、近くの立ち木に登り始めたのだ。
文音は比較的枝が多く登りやすそうな木を選んだのだが、着ているワンピースが邪魔をして思うように足が上がらないのがもどかしい。
「おっ、さすが山ザル! サルも木から……落ちンなよ~!」
「うるさい! 翔平、こっち見ないでよね!」
「み、見ねーよ! だれがサルのパンツなんか見たいかよ!」
くそ~っ! 翔平のヤツ、助かったらタダじゃおかないからね!
「文音ちゃん、気をつけて!」
上に向かうにつれ、幹や枝の太さが心もとなくなってきた。そう思った時、左足を掛けていた枝が体重移動した瞬間に根元から折れた。
「あっ!」
かろうじて右手で掴んでいた枝だけでぶら下がる格好になった文音は、下を見ることもできず足探りでなんとか足場になる枝を見つけ落下だけは免れたが、
(こんなことならダイエットしとくんだった……)と後悔しても遅い。
やがて周りの枝葉の密度が薄くなり、空の色が近くなってきた。
文音は伸び上がって枝の間から顔を出すと目印のモミの木を探した。すると、目指していた方角からかなり外れた方向にそれはあった。
「よし、わかった」
文音は今度こそ自分たちの位置情報を頭に入れると、下にいる忍にモミの木がある方角を手で指し示した。文音の記憶だけでは、また迷ってしまうかも知れない。翔平はいいとして、せめて忍には記憶しといてもらおうと思ったのだ。
『オーケー、わかった』
追手がどこにいるかわからないので、忍は両手でオーケーサインを送ってきた。
文音は登る時よりさらに身軽に着地すると、忍と方向を確認した。
「ここよりずいぶん右手の方ですね。すみません、方向オンチで」
「ううん、文音ちゃんのおかげで正しい方角がわかったんだから……それにしても、木登り上手だね!」
「ははは、昨日から忍さんには変なとこばかり感心されちゃって。こんな特技、なんの自慢にもなりませんよ」
そう、忍さんのストリートファイトに比べたら。
文音は今朝二人の男たちを倒した忍を思い出すと、忍の方こそ何者だと考えずにはいられなかった。きっと忍にも知られたくない秘密があるのかも知れない。
雑草をかき分け道なき道を進みながら文音は母、小野寺友里恵のことを想っていた。
文音にとって友里恵と暮らしていた頃の記憶は多いとは言えない。母親らしいことをしてもらったという記憶もわずかだ。別れた後の友里恵は、文音にとって一人の女優でしかなかった。映画やテレビの中で様々な女性を演じるアクトレス。
ただひとつ、文音の中で鮮明に覚えている情景があった。
西日に輝くススキ野原を友里恵の後を追っている文音はまだ幼稚園に上がる前だろうか……。
ただ西日が眩しくて、そしてススキの背が自分よりも高いのでかき分ける手を休めると、すぐに姿を見失ってしまう母が時々振り返って文音に向ける笑顔が嬉しくて、その笑顔を見るために必死になって追いかける……。
思い出す何もかもが、今でも文音の胸を熱くするのだった。
あのススキ野原はどこだったのか、それよりあれは現実だったのか……今となってはわからないが、あの時ススキの葉で頬を切った。痛みを感じて傷に触ると、指先に血がにじんだのを覚えている。傷口はヒリヒリと痛んだが文音は母を呼び止めるでもなく、もくもくとススキをかき分けて進んだのだ。
なぜか母に甘えてはいけないような気がしていたから。
今、文音は雑木林の中を歩きながら、あの時の情景とシンクロしている自分を感じていた。
「すみません、忍さん。こんなとこ歩いてるから脚……傷だらけ」
「文音ちゃんが謝ることないよ。それにこんな擦り傷、怪我のうちに入らないって」
文音も木登りをしたおかげで脚は忍以上に傷だらけだったが、もともと美しい忍の白い脚は文音よりも痛々しく見えた。
「忍さん、体の方は大丈夫ですか?」
忍の体が弱いのは周知の事実だ。現に撮影中や移動中に体調不良で倒れたことも何度かある。昨日からの過酷な状況下で体力を使い、文音たちを気遣っている忍の負担を思えば、すでに限界を超えていると考えてもおかしくない。
「心配かけちゃってごめんなさい。もう年かな……」
「年かなって……忍さん、まだ十五じゃないですか」
言葉には出さなかったものの、確かに忍には年齢以上のものを感じさせる何かがあった。それはなんと表現すればいいのか。
(あきらめ?)
そうだ。華やかな芸能界という世界に身を置き、その中でも頂点に立っていると言っても過言ではない忍から将来に対する夢や希望が伝わってこないことに文音は気づいていた。
それは夢が叶ったとか、すべてを手に入れた満足感からくるものではない。
あきらめ。
その言葉こそが、今の忍には当てはまる気がする。
「おーい、山の道案内さぁん。目的地はまだですかー?」
翔平だけは本当にノーテンキというか、これも才能のうちかと文音は別の意味で感心する。
突然、木々の向こうに明るい場所を見つけた文音は、それが父の家へ続く林道だとわかった。ここまで来れば、もう武の家に着いたも同然だ。
「忍さん、もうすぐ父の家です!」
「父の家?」
とっさに言ってしまったが、どうせ家に着いたらすべてわかってしまうことだ。それに、当時七歳の忍を感動させた舞台監督の倉本武はすっかり容姿が変わってしまったので、同一人物だとわかる確率はかなり低いだろう。
だとすれば、ここは余計なことには触れず「訳あって別居している父」とだけ紹介しよう。
「お前の父ちゃん、こんな山ン中に住んでんのか! マジでサルの親子だな」
「翔平くん、まさか文音ちゃんのお父様にはそんな失礼な口のきき方しないわよね?」
「も、もちろんですよ! ボクだってそれくらいのことわかってますよ……」
「そう、よかった」
そう言って、忍は文音に笑顔を向けた。
(グッジョブ、忍さん♡)
武以外に通る者はめったにいない林道に怪しい人影がいないことを確かめて雑木林の中から出た三人は、文音の父、武の家を目指して歩き出した。
~ つづく ~




