第十一話
真山透は、自らの手で生み出した桂木忍というクローン体を遺伝子研究の被検体にと考えていた。その証拠に智子にはいつでも会わせると言っておきながら、常に無菌カプセルの中に入れられ管や電極で繋がれた状態の赤ん坊を抱きしめられるはずもなく、隣室からガラスごしに眺めることしかできない智子だった。
「話がちがうわ真山くん。あれじゃまるで実験動物じゃない! 忍がかわいそうよ!」
「今だけだって。もう少し成長したら、ちゃんと会わせてやるからさ」
真山はそう言ったが、そんなつもりなどかけらも無いことくらい智子にはわかっていた。
彼にとっては、初のヒト型クローンの誕生だ。きっとこの子が死を迎える瞬間までデータを採取し続けるに違いない。
そんなことはさせるものか!
智子は愛する結城英二の移し身を連れて、真山から逃げる決心をした。
「真山くん、もうすぐ忍が生まれて三カ月目よ。お食い初めをしなくちゃ」
「おくいぞめ?」
「そう、生後百日前後に一生涯食べることに困らないようにって願いを込めて食事の真似をする儀式よ」
「真似ごとだろ? いいよ、そんなことやらなくても」
自分の研究に関係のない事は徹底的に排除しようとする。そういう男だ、この男は。
智子は怒りで目の前が真っ赤になったが、平静を装って真山に懇願した。
「だって、お宮参りもしてないのよ。せめて何かひとつくらい祝ってやりたいの」
「ちぇっ、仕方ねぇな~。それじゃ、一日だけだぞ」
智子はお食い初めの日を誕生から百三日目の大安に決めると、当日は親子水入らずで行いたいと真山に頼んだ。どみちそんな行事に関心のかけらも無い真山は快諾とまではいかないが了承してくれ、その日は一日中忍と過ごしてもかまわないと言ってくれた。
これで、実行の日は決まった。
お食い初めの当日、智子は忍を入れるクーハンを車の中に用意すると、忍が泣き出してもなだめられるようにミルクとおしゃぶりを鞄に忍ばせ無菌室へと向かった。
男子は朱塗りの漆器を使い女子は内側が朱塗りの黒漆器を使うと言われているが、智子はなぜか黒漆器を用意した。今思えば、この時から忍の運命は決まっていたのかも知れない。
本膳はお赤飯に蛤の御汁、花形に切った人参と面取りした里芋の煮物にほうれん草のおひたし。
そして河原から拾ってきた小石を(魂を強くするという意味を込め)膳に添える。
これらの他に御頭付きの魚は指導者になるようにとの願い、梅干と海老は皺と曲がった腰にちなんで長生きの象徴とされている。近年では、粘り強い人間になるようにと納豆を膳に添えることもあるという。
何にしても、すべて親の子に対する愛情と願いが込められたものであることには違いない。
智子はクーラーボックスと鞄を手にすると、真山と忍の待つ研究所へ入って行った。
無菌室の忍は窮屈な保育器から出してもらい産着に包まれてベビーベッドに寝かされていた。
部屋の中には智子と忍以外誰もいなかったが、頭上には作動中を示す赤い光が点った監視カメラの冷たい視線が決して二人きりではないのだと誇示していた。
智子は百三日ぶりに忍を胸にかき抱いた。赤子特有の甘いミルクの匂いが鼻孔をくすぐり、小さな手が智子の人差し指をひしと掴んだ時、胸の奥からこみ上げてくる狂おしいまでの愛情を抑えることができなかった。
この子のためなら自分の命はどうなってもかまわない。この子さえいれば他に欲しいものなど何も無い。
今日から自分の人生は、この子に捧げよう。
腹を痛めて産んだ子でないにもかかわらず、これが母性というものだと確信せずにはいられない。これこそが、無償の愛だと。
聖職者じゃあるまいし、そんな不公平で理不尽な感情があるものかと今の今まで信じてはいなかった。だが、智子に訪れたそれは、まさしく親が子に対する愛以の何物でもない。その暖かい感情は智子を心の芯から包んでいった。
「忍、迎えに来たわ。遅くなってごめんなさいね」
忍の耳元でささやいた。その言葉の意味を理解したかのように、智子の人差し指を握りしめている小さな手に力が入ったと感じたのは気のせいだろうか。
智子はベビーベッドの横に用意されたテーブルを拭き清め、お食い初めの膳を並べると親類縁者のいない母と子二人だけのお食い初めの儀式を始めた。箸の先端で忍が傷付かぬよう注意しながら、小さな口元へ少しづつ椀の中の具を近づけては食べる真似を繰り返す。
「丈夫で強い子に育つのよ」
智子はできるだけ監視カメラから見えないように忍を抱きかかえた。
こんな素人が立てた計画、失敗するかも知れない。成功したとしても忍に大きな負担を強いることになるのは確かだ。
だが今日実行しなければ、この子は一生実験動物のままなのだ。
智子は横に置いた鞄にそっと手を伸ばした。ここへ入るまでに手荷物検査が無かったのは幸いだった。
赤ん坊とは、たった三カ月でこんなにも成長するものなのか。真山の手の中でチアノーゼを起こし人形のようにぐったりしていたのが嘘のようだ。智子を真っ直ぐに見つめ返す美しい瞳は、今から起こるすべてのことを理解しているように思えた。
この子は頭のいい子だ。だって結城英二の子……いや、英二そのものだもの。
鞄の中には、智子が今日のために作った人形が入っている。ちょうど忍と同じくらいの大きさにしたつもりだったが、少し小さかったようだ。子供の成長速度とはなんて早いのだろう。あっという間に背を追い越されたなんていう話はまんざら嘘でもないらしい。
さて、問題はいつどうやって忍と人形をすり替えるか、だ。
「真山くん!」
智子は別室で見ているであろう真山に向かって呼びかけた。
『どうしたぁ?』
カメラに取り付けてあるスピーカーから、真山ののんびりとした声が返ってきた。どうやら居眠りでもしていたらしい。智子は心の中で舌打ちした。
「カメラを持って来るのを忘れてしまったの。記念写真を撮りたいんだけど、お願いできるかしら?」
『オーケー、ちょっと待ってて』
しばらくして真山がデジタルカメラを持って来た。今でこそ珍しくないが、十五年前はまだフイルム式カメラが一般的な時代だ。
「何百枚だって撮れるぞ~! データをパソコンに移したら、すぐにプリントアウトできるから便利なことこの上ないよ。フイルム式カメラが姿を消すのも時間の問題だな」
智子は忍の頬に自分の頬を寄せると、真山が構えるカメラのレンズに向かって微笑んだ。おそらく見ることがないであろう写真のために、作る笑顔が引きつっていないことを願いながら。
真山は何十枚と違う角度から智子たちを撮影すると「すぐプリントしてくるから」と、言い残して部屋を出て行った。
真山の姿が見えなくなると同時に鞄から人形を取り出すと、ベッドへ寝かし毛布を被せた。
「少しの間、苦しいけど我慢してちょうだいね」
智子の言うことがわかったのか、忍はおとなしく身をまかせ狭い鞄の中へ入った。
智子は鞄を抱えると、無菌室を飛び出した。真山に気づかれる前に研究所を出なければ、もう二度と忍を助けることはできないだろう。いや、二度と忍に会えなくなるかも知れない。
いつでも発進できるように車のキーは付けたまま駐車しておいた。カンの鋭い真山が先回りして車を移動していなければいいが。
駐車場へ着くと、智子の車が来た時と同じ場所に停まっていた。
智子は忍を狭い鞄から後部座席のクーハンへ移すと、運転席に滑り込んだと同時に思い切りアクセルを踏み込んだ。
忍が触れた初めての外気の中、あとはもう遠くへ逃げることだけを考えて……。
真山の視線の先には水色のベビー服を着た人形が、プラスチックのボタンの瞳で真山をじっと見上げていた。
「真山はなぜか追ってこなかった。その気になればいつでも探し出せるとでも言うようにね」
智子は忍との思い出をひとつひとつ紐解くように彰子に語り続けた。きっと今日まで抱えて来た苦しみを誰かに吐き出してしまいたかったのだろう。
「出生証明書の偽造や登録なんて思ったより簡単なことだった。お金さえ出せばどんな書類だって手に入るわ」
「その時、忍さんの性別を変えたんですね」
「そうよ。子供騙しだってことはわかっていたわ。でも……」
彰子がいちばん気になっているのは、いつから忍は自分に課せられた試練を受け入れたか、ということだ。いくら追手から逃れるためとはいえ、それは智子の事情であって忍自身には関係ない。
性同一性障害でない限り、異性として生きていかねばならないと告げられた時、もしくは自分が育ってきた状況に違和感を覚えた時、忍は何を思ったのか。
「あの子は……忍は賢い子だから、私からはひと言も理由を言ったことはないけれど、反抗することなく従ってくれたわ。何もかも、すべてわかっているかのようにね」
彰子の疑問に答えるかのように智子はそう言った。
「まさか! それじゃ誰かが話したとか」
「いいえ、本当に。だって私以外に誰が何を忍に話すというの? でも不思議とあの子は、自分がクローンで誰の細胞から生まれたのかもちゃんと理解しているようだった……もしかしたら、結城の細胞があの子に語りかけていたのかもしれないわね」
そんなことが本当にあるのか。
「真山が来る」
「え!?」
「真山が来るわ。私との決着を付けに必ず来る」
気が付けば、外は白々として朝焼けが公園の芝生を浮かび上がらせていた。
~ つづく ~




