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つまらないものですが

作者: 山田エズミ

 彼女とはじめて会った時、おれは無茶苦茶機嫌が悪かった。今から考えると笑い話にしかならないようなことだったのだが、その時は腑腸が煮えくり返っていたのだ。ただ単におれの気が短いと謂うのもあるが、若かった(馬鹿だった、ではない)所為でもある。ところが彼女の顔を見たら腹を立てているのが馬鹿らしくなってきた。別に彼女が間抜け面だったとか、ひっくり返るほど美人だった訳ではない。

 なんと謂うか、ひとを脱力させる雰囲気の持ち主だったのだ。だから彼女に対して怒ったことは一度もない。腹が立っても、面と向かうと膝カックンされたように怒りがへたへたと萎えていってしまうのだ。気が抜ける。


   +


 おれは中学に入った頃から音楽に興味を持ちはじめた。父親がジャズをよく聴いていたので、幼い頃から音楽漬けのような状態だったが、自分から意識して聴くようになったのはこの頃からだった。

 インターネットで古いプロモーション・ビデオなどを観て、おれがやれるのはどのポジションだろうか、と考えた。

 歌を唄うことなんてカラオケにでもゆけば(行ったことなどないが)、極端なことを云えば風呂に浸かってだって出来る。そうすると楽器、と謂えば縦笛? 出来るのはそれくらいだったが、子供じゃあるまいしそれはないだろう。

 映像を見ると、ギターを弾きながら唄っている奴が多かった。

 ギター、ギターね――と、つらつら思いを巡らせつつ街を歩いていたら、こじんまりとした楽器屋を見つけた。で、ギター入門とか謂うのを店にあったコンピューターで見せてもらった。

 コチコチなる音と共に外国人の男が阿呆でもやれそうなものを弾いていた。こんなタルいのじゃなくて、もうちょっとまともなのはないかと店の者らしき人物に訊ねたら(その中年男しか居なかった)、店の奥からA4程度の大きさの冊子を持ってきた。

 今時本とは珍しいこった、と驚いたが、状態から見てもかなり古いもので、店主が云うには倉庫から出てきたもので、所謂「デッドストック」なのだそうだ。棄てようと思ったが、勿体ない気がしておまけでつけようかと此方へ持ってきてあったのだという。

 紙を使ったものが殆どなくなって久しかったが、此処に来て復活しはじめた気配がある。世界でもトップレベルの日本の複合企業が、過疎と謂うか、誰も住んで居ない安い土地をがばっと買い取り、研究施設と生産工場をどかんと建てた。そして、和紙の原料を流用し、茅を品種改良して昔と殆ど変わらない紙の生産を始めたのだ。

 おれは祖父から譲り受けた本に慣れ親しんでいたので、斯う謂った風潮は難有かった。機械ばかりでは味気なさ過ぎる。人間性が損なわれる。画家も悲しむ。

 閑話休題。

 店内を見渡すと、ギターもピンからキリまであり、キリの一歩手前くらいのが手持ちの金で買える値段だった。で、おまけにと例の本を頂戴して家路についた。

 部屋に戻って早速ソフトケースに這入った青いギターを取り出して、ひとわたり眺めた後、「ロックギター/コード集」と謂う本を開いてみた。訳が判らなかった。

 それと謂うのも、学校で習った(と謂うほどでもないが)楽譜とは違っていたからだ。調べてみたらそれは「タブ譜」と謂うもので、五線譜ならぬギターの弦をその侭表した「六線譜」で、押さえるフレットから指までご丁寧に書かれているものであった。何もそこまでして戴かなくても……、と思った。

 ipodで曲を聴きながら手探りで弦を鳴らしていった。何うもおかしいと思ったらチューニングが合っていなかった。そんなことも知らなかったのである。そして、クラシック・ギターとは違って、取り敢えずコードさえ覚えればいいと謂うことが判ってきた。

 そこから先はちょろいもんだった。なめていた訳ではないが、恐らく音感が良かったのだろう(でもちゃんと勉強して練習した。真面目だから)。先にも触れたが、父親はジャズが好きで、普通の住宅街ではかなり浮いて見えるアメリカ南部風の家を買ったくらいの馬鹿者であった。中古だったと謂うその家を何うやって探し出したのかというと、大学時代の友人が不動産屋に勤務しており、彼女は散々探しまくって見つけたのだそうだ。我が親乍ら、傍迷惑な人間も居たものである。

 で、父親の聴くジャズと、母はジャズも聴いたが、どちらかと謂うとボブ・ディランやニール・ヤングなどが好きで(こいつら何処で音源を仕入れたのだろうか)、音楽漬けのような子供時代を送っていたのだ。

 文学は元々好きだったので、詩なども書いたりして曲も作ったりした。ああ、恥ずかしい。こんなことには触れずに済ませたい。萩原朔太郎が好きだなんて小指詰められたって云わねえぞ。いや、宮沢賢治の詩が好きだと云う方がもっと恥ずかしい。昔は誰でも知っていたような著名人ばかりではなく、吉岡実の詩や島尾敏雄の息子、写真家である島尾伸三の妙に女々しい随筆なども好きだった。

 おれは化石か?

 「智恵子抄」なんか突きつけられたらそいつを殴り倒す。外見だけ見てなよなよした奴だと思うなよ。はっきり云って喧嘩には強い。なにせ常にギターという凶器を持っているからだ。これで殴ったら大概の人間は気絶するか死ぬ。犯罪者にはなりたくないのでやったことはないが。

 そんなことは置いといて、自覚的に音楽を聴きだした頃は辛うじて残っている音源を頼りに大昔のブリットポップやネオ・サイケ、その後に流行ったマンチェスター・ブームやグランジに興味があった。そんなものは当時はもてはやされただろうが、今や誰も見向きもしない。個人が細々とインターネットに乗せているだけだった。そのうち、おれは日本語への拘りが異常に強いので、日本語で唄われる楽曲を手当り次第に探した。当たり前のこと乍ら日本人なので、日本語で歌われる曲の方が真っ直ぐに伝わってくるし、暗喩なども何度も聴くと判ってくる。云うまでもなく興味はそちらへ移行した。

 日本に若干遅れて入ってきたパンクブームは、先ずファッションからだったらしい。そりゃそうだろう、その本元もファッションと深い結びつきがあったのだから。向こうのパンクと日本のパンクは、先ず歌詞の内容がかなり違った。文化的背景が違うのだから当たり前なのだが、一部には前衛文学と思われるものもあった。

 しかし、あまり興味がなかったし、知る機会を得た時も詳しく調べなかった。だが、パンクの発生した背景はなかなか興味深いものがあった。

 その辺の失業保険で喰い繋いでいた破落戸を、策士のマルコム・マクラレンが寄せ集めてきて(元々パンク・ロックは ニューヨークで発生した音楽で、彼がイギリスに持ち込んだらしい)、仲間だった服飾デザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッドと組んで、鳴り物入りで世間に披露したのがセックス・ピストルズである。

 あちこち破けたガーゼ素材のTシャツを着て、短い金髪をつんつんおっ立てた男はジョニー・ロットンと名乗った。調べてみると、英語で「ロットン」が腐るといった意味だと謂うことを知った。それはイギリスならではのジョークで、本人も面白がって名乗っていたのかも知れない。しかし、おれの勝手な想像では、「おまえは痩せっぽちで薄汚えから、ライドンって面じゃねえな。ジョニー・『腐れ』って名乗りな」とかなんとかマルコム・マクラレンに云われたのではなかろうか、と思っている。

 きっと、彼は一攫千金の夢を見て、へろへろのTシャツを引き裂いて安全ピンで止めて、ちっぽけなライブハウスから、テムズ川の遊覧船の上から、若干斜視の眼で、「ロックは死んだ、女王なんか人間じゃねえ、政府は役に立たねえ、おれたちはそんなこと知らねえ」と喚き散らしていたのだろう(と、勝手に想像した)。

 そして、そのバンド、「セックス・ピストルズ」はアメリカ公演に赴き、空中分解した。

 そもそもアメリカは保守的な国である。芸術家気取りや最先端のものなら何にでも鼻を突っ込むか阿呆か、イカれたガキ以外は歓迎しなかった。勿論、マスコミも政府もいい顔をしなかった。そこへ来て、もともとたいしてやる気のなかった、と謂うか客を煽ってはどつき廻していたベーシストで(ベースはアンプに繋がれていなかったそうである)ヤク中のシド・ヴィシャスが脱退し、セックス・ピストルズは解散を余儀なくされたのである。

 シド・ヴィシャスはソロ活動も僅かな期間したが、グルーピー上がりの恋人であるナンシー・スパンゲンを刺殺し、その後ヘロインの過剰摂取で死んだ。楽器も弾けない男だったが、その雰囲気と生き様で、今やカリスマ扱いである。

 フロントマンのジョニー・ロットンはなんとか再起しようと足掻いて、後にP.I.L.(パブリック・イメージ・リミテッド)というユニットを組んだが不発に終わった。彼が操られていたにしろ、確信犯だったにしろ、「NO FUTUER」と喚かれたところで、それから何十年経った時代におれたちは生きている。科学が発展しまくり、それに寄り掛かって生きているおれたちは、「未来なんかねえ」などと叫んでいる場合ではないのだ。


   +


 そこそこの高校に進学して、音楽倶楽部という巫山戯た名前の部に入った。その中で、同じ新入生のドラムをやっている江木澤閎介という男と、ベースがまあまあ弾ける牧田俊介という奴と親しくなった。音楽で話が合う奴らと出会ったのははじめてだった。

 江木澤はドラムセットなど家にある訳もなく、段ボールを積み上げて練習していたそうだ。なんと謂う涙ぐましい話だろうか。牧田はギターに持ち替えた先輩が、中学を卒業する時にくれたベースを後生大事に使っていた。ああ、清貧。

 音楽の好みは微妙に違うが、気に入っているバンドの話をしたり、音源を聴かせたりすると、「ああ、良いじゃない」と、各々自然にそう謂った反応が出た。それらの話題には、おれたち以外、誰もついて来れなかった。

 三人で、「古くせえー」と 笑ったものだった――昔の歌謡曲が好きだったのはおれだけで、音声など襤褸襤褸のその音源を聴かせても、反応は実に微妙だった。

 部室で既存の楽曲をおれが適当にアレンジしたものを適当に演っているうちに、それでは3ピースのバンドを作ろうか、と謂う話になった。牧田とおれは中学の時にコピーバンドとも云えないような、今からすると幼稚なことをしていたので下地がない訳ではなかった。

 江木澤は家で段ボールをコツコツ叩いていた割にはテクニックが素晴らしかった。おれは一年ほどドラムを担当していたのだが、もともとギターを弾きたかったので、彼の技術には足許にも及ばない。それなのに江木澤は実におとなしく控えめな男だった。

 その三人でなんとかものになる楽曲(と謂うほどのものでもないが)を作り上げていった。ボーカルを誰も担当したがらなかったので、阿弥陀籤で決めた。相当籖運が悪かったらしく、九本の線の中から一発でおれが引き当ててしまった。絶望のあまり、紙を丸めて江木澤に投げつけ、そのまま帰宅した。

 最初のうちは、やはり皆で持ち寄った曲のデータをアレンジして、外国のものは根性で聴き取りおれが日本語に訳した。が、ふたりに云わせると、これはもうコピーじゃない、曲は原形を留めていないし、訳も違うと思う、とのことだった。

 兎に角おれは、幼少の砌りより母方の祖父から日本語の美しさと特異性を脳味噌に叩き込まれていたので、外国語で唄うことなど微塵も考えなかった。何れだけ不自然であっても日本語にするので、これは「替え歌だ」と牧田に云われた。

 だからといって偏執狂的に日本語だけを使う訳ではない。既に日本語化しているものや、外国語だと思われていても、実は日本だけでしか通じない横文字は使用することもある。しかし、後々ずっとこの件に関しては他の人間からも同じようなことを云われ続けた。判らない外国語で唄われるよりはいいだろうが、ほっとけ。

 詞や曲のだいたいのイメージはおれが作り、残りのふたりがそれぞれの楽器に合うようにアレンジしていった。一応、元を考えたのはおれなので、イメージから外れた音は厳しくチェックしていった。そんなことをしているうちに、ギター以外のアレンジ能力もついていった。

 一年の夏休みに入った頃から路上で勝手に演奏するようになった。中央区の繁華街などでそんなことをやったら五分も経たずにしょっぴかれてしまうので、比較的警備の緩い東地区の路上でゲリラ的にライブをした。

 はじめのうち、大人たちは「なんだ、こいつら」と謂う顔をして通り過ぎてゆき、同世代の若者たちはちょっと興味を示したかと思うと立ち去っていった。しかし、「石の上にも三年」と謂う諺があるように、しつこく演っていたら、いつしか馴染みの見物人が出来、二年も経ったらひとだかりが出来るくらいまでになった。

 ライブハウスに出ることなどはなかったが、ブログなどで紹介してくれる子などもいて、局地的な知名度だけはあった。高校時代、数回ほど一発録りで(金に余裕がないので)レコーディングし、曲のデータを集まって居る子たちに無料で送信して、しっかり常連客まで摑んだ。

 努力しただけのことはある。その上、女の子からカッコイー(?)、素敵ぃ(??)、きれいー(???)、と謂うメールがじゃんじゃんきた。なんだそれは、と思った。

 おれはまあ、背は高くても華奢な方だし、毛むくじゃらでもないからそれだけで女の子にはウケるのかも知れない。その割に彼女はひとりしか出来なかった。それも、高校生にありがちな二年に進級した時に同じクラスだった女の子で、向こうから話し掛けてきたのだが、音楽にさして興味がある人間ではなかった。

 所謂「友達からはじまりました」というおつき合いである。

 一年の学園祭の時、部活のステージに出たから一応存在は学内にも知られたが、別に女目当てでバンドをやっていた訳ではないので特に気にもしなかった。後に牧田から、「おまえの写真で随分儲けさせてもらったよ」と云われた時には、半殺しにしてやろうかと思った。

「見た目はいいのに冷たそうに見えるから、近寄り難いんじゃない。喋ると面白いのにね」

 と、その娘は云った。

 冷たそう……。そうか? 慥かにひとえマブタ(正確には奥二重。瞳を覆う余裕がなければ、目蓋が閉じない)で時々目つきが悪いと指摘されることはあった。それは後に判明したのだが、おれはかなりの近眼だったのだ。

 何故そんなことに気づかなかったのか。おれたちの時代は昔と違って、健康に関しては病院が対処するものであって、学校は勉学に励む処である、と謂う実に単純明快な分業制になっていた。ただそれだけの理由である。

 黒板などと謂う前世紀の遺物など存在せず、各生徒の机には嵌め込み式のタッチ式モニターがついて居り(床に厳重に取りつけられ、無理矢理取り外そうもんならどえらい騒ぎになるので盗難されることはなかった)、顔を近づければ見えるし、フォントや活字の等級を上げれば目が悪くとも盲目ではないのだから読める。

 それよりも気になったのは、「面白いのにね」と云った後、彼女がぷっとさも可笑しげに吹き出したことだった。なんとなく不愉快な気分になったのを覚えている。

 不愉快だったことは覚えているのに、その女の子の名前はつるっと忘れてしまった。はじめてやらせてもらったのに、なんと謂う不義理な人間なのだろう。

 マサコとか、マイコとか、 「ま」のつく名前だった記憶がある。名前で呼ぶことがあまりなかった上に、彼女より音楽に熱中していたので、どうもすみませんでした、と云うしかない。

 まのつく何処かの女の子、ごめんなさい。あなたの名前も忘れて仕舞い、振られた所為なのか顔まで朧げにすら浮かんできませんが、エッチさせてくれたご恩は忘れません。こんな野郎と一年半もつき合ってくれて難有うございました。


   +


 そんなおれが大学まで行ったのは、親と教師のごり押しの所為だった。鬱陶しいから受ければ納得すると思い、クラスの者らの雰囲気にも押されそれなりに受験勉強をした。そしたら、世間的に名前は知れているがおれの頭でも入れる程度の大学に受かって仕舞った。そんな処でも近所の奥様方から「立派な大学に合格されて宜しかったですわねえ」と母親は云われ、苦笑いをしていた。

 ほっとけよ、ぼけなすどもが。大学だけが凡てじゃないだろうが。

 入学式の時、さっさと軽音部を呼び込みを見つけて入部申し込みの用紙に指示されるまま記入した。牧田と江木澤も律儀におれと同じ大学に入ってくれたので、同じサークルで活動を続けることが出来た。なんなのだろう、おれに惚れているのか? 然も、部内のひとらはおれたちの活動を知っており、「おお、よく来てくれた」と謂う歓待ぶりだった。

 真面目にやっているといいことがあるものだ。酒も奢ってくれたし、待遇も良かった。素晴らしい。ワンダホー。

 三年の先輩にライブハウスの前座がドタキャンしたから代わりにやってくれないか、と云われたのが夏休みも終わり頃、九月に入ったばかりのまだまだ暑い時だった。 路上での人気はライブハウスで演っているバンドよりあったが、ライブハウスには出演したことなどない。観に行ったことなら幾らでもあるし、先輩たちのチケットを捌かされたことはあっても、代役でステージに立てと云われたことなど一度もなかった。しかも、今日の今日云われては客を集めることも出来ない。

 部室に集まって、「エジマ先輩、本気なのかなあ」と調子外れにドラムを叩きながら江木澤が呟いた。

「ちゃんとそう云ってたし、本気だよ。午にオーナーに挨拶に行ってなんかの書類にサインしてきたし、デモのデータは先輩がもう渡してたみたいだったしさ」とおれが答えたら、折りたたみのパイプ椅子に座ってベースに寄り掛かり、「だって、おれたちライブハウスなんかじゃ無名どころか名無しだよ。バンド名どうすんだよ」と牧田がぼそぼそと云った。バンド名か……、 と今更ながら考えた。

 これまでまともにバンド名などつけようとしなかったことに思い至った。そんな奴ら居るか? 普通。それに店のオーナーもバンド名を訊ねて来なかった。此方としても、なんだか変なオッサンだったので、突っ込んで話す気になれなかったのだ。

「なんかさー、横文字の名前なんかつけると客が変に期待しちゃって駄目なんじゃない」

 江木澤がため息まじりで云った。慥かにおれたちの演っている音楽は、今時のノレればいいような、車のBGMになりそうなものではない。かといって静かにお琴をとんちんしゃん、と弾いている訳でもない。三人で弾き語りをしている訳でもない。パンクでもない(三人揃ってあれはよく判らない、と謂う意見で一致していた)。

 無理矢理云うなら、大昔の日本語に拘ったロックに、ノイズと歪みを掛けてグランジ風にしたような曲と云えばいいのだろうか。演っているおれたちですらよく判らない。こんなこととっくに誰かがやっていたかも知れない。

 しかし古すぎるデータはもうまともに聴くことが出来ない。表立って知られていないだけで、そんな奴らは昔じゃかすか演っていて、「あー、あの手のやつね」と事情通の人間は云うかも知れない。でもそんなことなど何うだっていい。こっちはそんな奴ら知らないんだから。

 などと考えていたら、牧田が、「リョウよお、ちゃんと考えてんのかあ、バンドの名前」と云った。リョウ、と呼ばれたのがおれである。木下亮二というのがおれの名前だ。何人だか判らない奇天烈な名前をつけられなくて良かった。

 子供の頃、クラスにコスモ君とかマキルちゃんとかライム君とかケイトちゃんとかいうのが居たが、なんじゃそら、としか思えなかった。おれは暫く考えて、変な名前をつけるより、きっぱりさっぱりない方がいい、と謂う結論に達した。

「バンド名はなし」

 そう云うと、江木澤とと牧田が口を揃えて「はあ?」と云って、此方を見遣った。

「名無し、名も無きひとたちと謂うことで行きましょう」

 ふたりはぽかんとしたまま、おれを見詰めていた。

 勿論、おれとしてもそう謂う訳にはいかないことくらい判っていたので、「当座は」と謂うつもりで云ったのである。


   +


 そして、棚ぼたのようなライブハウス初体験は、悲惨なものだった。世の中そんなに甘くない。ステージに上がったら客席にひとっ子ひとり居ないのだ。リハーサルの続きかと思ったくらいだ(前座は最後にやるので)。 いや、リハーサルの時の方がひとが居た――関係者だが。思わず「誰も居ねえ」と云ったら、マイクが既に入っていて、がらんとした客席に響き渡った。すると、奥の方から「居るよー」と云う女の声がした。

 ライトが当たっていたのでよく見えなかったが、「居るなら見えるとこに来てくんないかなあ。淋しすぎるよ」と手を翳して云ったら、女の子が三人くすくす笑いながら前の方へやって来た。どれだけ眼を凝らしても三人だった。此方も三人、向こうも三人。ステージ越しに合コンしているような気分になった(合コンなんてしたことないけど)。

 四曲くらい演ったあたりでちらほら客が這入って来た。歌詞の中に「おまえら遅すぎるんだよ、馬鹿野郎」と入れたらウケた。コミック・バンドを目指すべきだったのだろうか。

 全部演り終えて、厭味たらしく「ありがとうございました、さようなら」と云ったら、「頑張れよー」と声が掛かった。うるせえ、ほっとけ。

 ステージを下りて通路のような楽屋に戻ると、エジマ先輩がおれたちを見て腹を抱えて笑っていた。

「キノシター、なに考えてんだよ。はじめて出んのにバンド名も云わなきゃメンバー紹介もしないで、歌詞の中に罵詈雑言並べてさあ。ウケてたから良かったけど、曲調に合わなすぎだよ」

 彼はそう云って、まだ笑っていた。曲調に合わないことは判っている。自分で作っておきながらこんな表現をするのもなんだが、おれの作る曲は死にそうに暗いのだ。

 相手は先輩だし、喧嘩を売る訳にもいかないので、仕方がなく、「聴いてんのが三人しか居なかったもんで、ちょっと自棄糞気味になっちゃいましたねー」と自棄糞気味に答えた。

「後で客席半分くらい埋まってたじゃん。こそっと聞いてみたら『面白いのがやってる』って這入って来てたぜえ。何うするよ、この先お笑い系で演ってくれとか云われたら」

 ステージ上でうっすら頭を翳めたことを斯うもはっきり云われると、どんよりした気分に拍車が掛かるどころか、火花が散って導火線に引火しそうだった。

「もういいです、おうちに帰ります。バンド名もないし」おれはそう云ってギターをケースに仕舞った。

「そうなんだよな、今日までバンド名なかったことに気づかなかったよ。なんかおまえら動画とかが色んなとこで紹介されてて有名だったからアレなんだけど、よく考えてみたら『東地区のゲリラバンド』としか説明がなかったもんなあ。でも、ちゃんとボードに『ナナシ』って書いてあったよ。冗談かと思ったけど、結構ウケちゃったからそのままやってくしかないんじゃないの? それにおれたちこのあと出んのに見ないで帰る気かよ」

 アレとかなんとかぬかしやがってと思いつつ、先輩の方へ振り向き、

「帰るよ。茶化して喜んでんじゃねえ、ボケ」

 と云ってしまった。

 口を半開きにして唖然としているエジマ先輩とおれの間に江木澤と牧田が割って入り、「ちょっとショックが大きかったもんで、動揺しているんですよ、ドーヨー。赦してやって下さい」と云いながら、おれの腕を両側からふたりして抱え込み、引き摺るようにして楽屋の外へ出した。

 楽屋を出たと謂っても、狭い店なので客席の後ろを通ってすごすごと帰らなければならない。それ以前に、前座がさっさと先に帰ってはいけないのだ。ああ、皆ステージの方を見ていてくれて助かった、そう思ったら、もぎりのねーちゃんが、

「面白かったよー、『ナナシ』だっけ? たぶんまた声が掛かると思うよ」

 と声を掛けてきた。

 おれに話し掛けるなこのお多福が、と云いそうになったが、万が一この女が社長の愛人だったりしたら不味いので、「ええ、どーも。今後ともご贔屓に」と落語家のようなことを云いながら、階段を上がり(店は地下にあるのだ)外へ出た。

「リョウ、不味いよー。エジマ先輩が今回のステージ廻してくれたのにあんなこと云ったらさあ」

 牧田がそう云った。彼はまるで離したら何をするか判ったものではない、と思っているのか、おれの腕を抱え込んだままだった。

「云っちゃったもんはしょうがないだろ。謝る気もないし、戻る気もない」

 彼は大きくため息をついて、「おまえ、その短気なとこ直さないと敵増やすばっかだぜ。目え掛けてくれたひと怒らせてどうすんだよ」と云った。おれは苛々しながら煙草に火を点け、

「じゃあ、おまえらが残ってあの馬鹿に土下座でもなんでもしろよ。おれは帰る」

 そう云い残して歩き出そうとした。のに、しつこく牧田が腕を摑んで放さない。

 今度は江木澤が、

「リョウ、頭冷やせよ。おまえの曲を貶された訳じゃないんだし、客が少なかったのだって当たり前の話だろ。知りもしないバンド見に来る奴なんかよほどの閑人だよ。だいたい、ちゃんとした曲を滅茶苦茶にしたのおまえじゃないか」

 と、しごく尤もなことを云った。

 しかし、人間は腹を立てている時に正論を吐かれると余計腹が立つのだ。何故ならば、腹が立っているのに云い返すことが出来ないからだ。仕方がないから煙草を地面に捨ててぎりぎりと踏み潰した。

「あー、ポイ捨てした。見たよー」という女の声が後ろからした。

 振り向くと、美人と云えなくもない女がいつの間にやら立っていた。

 この髪の長い女は、慥かおれたちの後に出る筈のバンドのボーカルである。もう終わったのか。そんなに揉めていたのか、と考えつつ、この女のリハーサルでの姿を思い出した。

 舞台上の彼女の挙動は、実に不気味極まりないものだった。バックの奴ら三人(ギター、ベース、ドラム)はまともに演奏しているのだが、この女は詩を呟くようにぼそぼそ朗読して、あらぬ処を見たまま髪の毛を掻き廻したり、よろよろステージを行ったり来たりしていたかと思えば、いきなり奇声を発してのたうち廻ったりする。

 本物のキチガイかと思えるほどだった。しかし、ステージを下りると(幾分かは)普通のひとになる。しかも今、おれに煙草のポイ捨てを注意している。訳が判らない。バンド名は「キミドリ」だ。きっとメンバー全員狂っているのだろう。

「不貞腐れてるんだ。ステージ駄目にしたから」

 女はおれの顔を覗き込んでにっと笑った。真っ赤な口紅でそんな風に笑われると、正直云って本当に怖い。牧田も江木澤も完全に怯えていた。気を落ち着ける為に煙草を咥えると、

「だめー、捨てたの拾ってからじゃなきゃ」

 と云われて仕舞った。云う通りにしないと頭から喰われそうなので、先刻踏みにじった煙草の吸い殻を拾った。

 女はなんだか嬉しそうに口元で手を合わせ、「最初のお客さんの三人。あれ、あたしのトモダチなの。呼んできてあげる」と云って、ライブハウスの内へ戻って行った。

「あんな変な女の友達なんか呼んで要らねえよ」

 思わずそう呟いたら、「でも、最初のお客さんなんだから大切にしなきゃ……」と江木澤が消え入りそうな声で云った。

「おまえ、 本気でそう思ってるのか」

 彼を横目で見遣って訊ねると、江木澤は正直に首を横に振った。くどうようだが、彼は実に大人しい男なのだ。

「厭だね、あんな猫化けみたいなのがぞろぞろ来たら。やっぱ、おれ帰るわ」

 そう云って煙草に火を点けたところへ、件の女が「トモダチ」を三人連れて戻ってきた。難有いことに三人とも普通の女だった。

 ふたりは斯う謂う処に出入りし慣れているのか化粧も必要以上にきっちりとし、服装も派手目だったが、残るひとりは小柄で何うと謂うこともないワンピースを着て、すっぴんだった。

「ライブ、面白かったよー」と派手1が云った。「あんな無茶苦茶なこと、アドリブで歌えるなんてすごいよねー」と派手2が云った。どちらの意見も今、一番聞きたくないものだった。で、残った地味子ちゃんはなんと云うのだろうと思っていたら、

「あの……、髪の毛をひとつに結わえてますよね」

 と、おどおどしながら云った。去年の暮れから散髪していないので、鬱陶しい時は縛っているが、それが何うしたと謂うのだろう。

「結びきれない髪の毛が顔に掛かってて、牛若丸みたいです」

 か細い声で彼女はそう云った。その場で仆れそうになった。

「もー、キヨセー、なに云ってんのよ。彼、呆れてるじゃん」と猫化け女が云った。

「キヨセ?」

 そう訊ねたら、

「この子ねえ、こんな夜遅く外出るのはじめてなのよー。音楽にも興味ないんだけど、幼なじみだからついチケット売りつけちゃって」

 横から猫化けが口を挟んだ。友達から金取んなよ、闇金融みたいな女だな。

 まあ、気持ちを改めてと謂うことでもないが、「で、キヨセ、ナニさん」と、何故かおれは名前を訊いていた。

「いえ、キヨセは名前で苗字はコダカです。小さいに高いって書く……」

 今までお目に掛かったことのないタイプだったからかなんなのか判らないが、おれはこの地味くさい女の子が気になりだした。キヨセはなんて書くの、と重ねて訊ねたら、

「清潔の清に、世界の世です」

 もう此処から立ち去りたい、そう謂う姿勢を明白地にして彼女は小さく答えた。面白いので、年は幾つか訊いてみたらば、「二十一歳です」という予想外の答えが返ってきた。十八のおれよりみっつもおねーさん……。

 嘘だろ、高校生かと思ってたのに。


   +


 この日はちゃんと楽屋に戻り、先輩にも平謝りにあやまった。元々悪いひとではないので、「いーよ、いーよ。からかったおれも悪かったし、おまえらもはじめてだから緊張しただろうしさ。……そうは見えなかったけど。まあ、今うちのサークルでまともなのおまえたちだけだから、頑張ってよ」と云ってくれた。

 ライブハウスを出る時、扉に打ちつけられたボードをふと見て笑ってしまった。先に歩いていたふたりが、「なに笑ってんだよ」と云いながら戻ってきた。

「だって、これ見てみろよ、おれたちが『ナナシ』で猫化けが『キミドリ』でエジマ先輩んとこが『ぼうふら』。ぜってー飛び入りの客来ねえよ」

 笑っておれが云うと、「此処の社長、ちょっとおかしいんじゃないのかな」そう云って江木澤も苦笑していた。「店の名前も『小坊主』だしなー」牧田も呆れ気味に笑った。

 しかし、「ナナシ」とは……。部室で話した後、電話で今日のところは名前なしでお願いしますと云ったら、聴き取り難かったようで、「え、なに?」と訊き返され、

「今日、代理で出るバンドの木下ですが、名前がまだ決まってない名無しの権兵衛なので、前座とか何とか、適当に書いておいて下さい」

 と伝えたのだ。電話の向こうの社長は、酔っているのかなんなのか、騒ぎ声の中から「判った、わかった」と応えていた。

 判ってねえじゃん。


   +


 初日のお笑い系ライブがウケたのか、お多福が進言したのか社長自身が気に入ったのかよく判らないが、時々「小坊主」からお呼びが掛かるようになった。しかも、穴を埋めるように頻繁に。

 おれたちは穴ぼこ補修剤か。

 すると、何故かいつも対バンが猫化けの「キミドリ」なのだ。こいつらも相当閑だとみえる。全員フリーターか無職のひとなのだろう。何処にも接点はないと思うのだが、トリを飾るのが昔のオルタナ系だったので納得出来ないこともなかった。

 二回目にライブをやった時、路上時代に曲のデータを送信した子たちにメールで知らせれば来てくれるのではないか、と謂うことに気づいた。実際メールでライブの告知をしたら聴いてくれていた子たちがどやどやとやって来て下さった。

 その上、出待ちまでしてくれた子まで居た。久し振りに聴けて嬉しい、とまで云ってくれた子も居た。難有いことである。

 牧田は熱心におれたちのバンドに対する世間の反応をインターネットで調べるのが習慣になっているのだが、話題になりはじめた頃だと、「変わった音楽」「ドラムセットがある状態で聴きたい」などである。路上では、アンプに繋いでいたのはギターとベースだけで、江木澤は高校の入学祝いに買ってもらったという、カホンで演奏するしかなかった。従って、ギターもベースもボリュームはかなり絞ってあった。

 あとは、「ボーカルの声が独特でいい」「もの凄く暗いけれど、演奏のレベルが高いから聴ける」「三人とも見た目がいい」と謂うのが主な意見だったそうな。この最後のがよく判らない。

 路上の時でもその後も適当な服を着ていたし、学校帰りの時など制服だった。互いの顔をじっくり見ても、飛び抜けていいとは思えなかった(牧田は女受けのしそうな顔立ちだったが)。

 ライブハウスに出るようになっても、家から着てきたTシャツにジーパンの侭。お洒落でも何でもない。おれなど履いている靴は、いつ買ったか忘れて仕舞ったような色褪せたローカットのオールスターである。君たちの目は何処か狂っているのではないかい?

 学園祭の時に、やっとフルセット(?)で演ったら、「思ったより激しめの演奏なのに暗いのが不思議で面白い」と謂うのが加わった。

 まあ、斯う謂ったことは、聴く側が勝手に感じてくれればいいことであって、斯うしてくれ、ああしてくれと云われて変えられるほど器用でもないし、素人なのだから自由に演ればいいのである。

 必要とされなくなったら、家で地味に弾き語りでもするさ。


   +


 ライブハウスに出るようになって、「キミドリ」が出る所為か、当然のようにトモダチの三人もやって来る。地味子ちゃんは二度と来ないだろうと思っていたが、何故かやって来た。しかも、おれを見つけると、恐るおそる寄って来ては特に意味もないことを話し掛けてくる。

「お元気ですか」「いつも怠そうですね」「ご飯食べてますか」「寒くなってきましたね」

 ああ、そ-ですね、と答えるしかなかった。

 或る時そこへ猫化けがやって来た(来ないで慾しい)。

「キヨセー、リョウ君気に入ったんだ。男の子怖がってたのに。偉い、成長したねえ」

 そう云って、携帯番号の交換はしたのかと普通の女のようなことを地味子ちゃんに訊ねた。そんなことはしようとも思わなかったので、おれはなんだか意外なことを云われたような気がした。

「え、だって、キノシタさんに意味もなく電話掛けちゃいけないでしょ」と、清世嬢は云った。

「なんでよー。別にこの子、ただのダイガクセーだよ。しかもあんたよりふたつ下(そうなのだ、去年の暮れに目出度く十九になったおれである。何故それをこの猫化けが知っているのかは謎だった)。朝掛けようが夜中に掛けようが、気にすることないよー」

 気にしろよ。いや、気にしてくれ。

「もー、じれったいなー。携帯貸して」

 猫化けはそう云って、おれたちの携帯電話をさっさと取り上げ情報のやり取りをちゃかちゃかと済ませてしまった。まるで掏摸のような鮮やかな手つきだった。ますます妖しく謎めいた女だ。

 友達から金をふんだくり、目にも留まらぬ早業で携帯電話を取り上げる。

 そして、おれの携帯電話には「小高清世」の電話番号とメールアドレスが登録された。何故か住所まで登録してあった。

 ナニ故に? 

 おれにそこへ行けってことか?

 練習している合間にも、江木澤が「あのちっちゃいおねーさんと仲いいじゃない」などと滅多に云わないようなことを口にして、牧田に至っては、「会ってから半年経ってるんだからデートに誘ったって罰は当たらねえと思うぜー」と云いだすようになった。

 しかし、おれの中で清世は、いつまで経ってもびくびくおどおどしている女の子に過ぎなかったのである。しかもみっつ年上(現在はふたつだが)。おれの中でそれはナイ。きっぱりない。

 だが、何う見ても年下にしか思えない。そう思う所為かなんなのか、もうきっちり結わえられる髪の毛を、彼女の云った牛若丸状態(牛若丸って前髪切り揃ってなかったか?)にする為に前髪だけほつれるように切っていた。床屋に行くのが面倒くさいから、自分でだが。

 おれって、もしかして馬鹿?

 アンケートを見ると、相も変わらず「ルックスがみんな良いのが珍しい」とか「ボーカルのひとの気怠い声が好き」とか、酷いのになると「やる気がなさそうなところが色っぽくていい」と謂うのまであった。やる気なんか滅茶苦茶あんだよ、張り倒すぞこの糞アマが、と思ったら「田中泰治」と書いてあった。ちょっと悪寒がした。

「ルックスがいいってさー」

 何処がだよ、とアンケート用紙を紙飛行機にして飛ばして牧田は云った。「おれ、全然モテてねえぞ」それが不満だったのか。音楽性に対して何の意見もないことに不満を覚えろよ。

「いや、田中泰治君がきっとマキタ君のことを思ってくれているよ」と、おれは彼の肩を抱いて、厭味たらしく云った。

「要らねえよ、タイジだかなんだか知んねーけどよ。発展しないのが気に入らねえんだよ」

 発展ねえ……。彼の言葉を聞いておれは沈思黙考した。あんなちっぽけなライブハウスで譬えワンマンをやらせてもらったところで、立ち見にして七、八十人? もうちょっといくか?

 慥かに発展性はない。だからといって大学を卒業してもこの浮き草稼業をしてゆくのかと問われれば考えてしまう。今はまだ十九だ。だから何をやっても許されるような気がしている。だが、これが三十、四十、五十となれば話が違う。ジジイになってもこんなことをしているのか?

 いや、それはない。それでは無職のひとと大差ない。普通に生きてゆくには金を稼がねばならない。

 ぺぺん、ぺん、ぺん、と三味線を弾いて、「旦那~恋ぃしや~」と唄って金を貰っている芸者だって、歌だけでは済みゃしない。寝てなんぼだ。然も女だから身請けしてくれる旦那が現れなけりゃ、ババアになる前に野垂れ死にだ——とか考えていたら、何故か清世に電話を掛けていた。

 キヨセって芸者の源氏名みたいだよなー、などと思いながら。

「あー、こんばんは」

 実に間抜けな挨拶である。しかし、彼女に電話を掛けたのははじめてなのだからそう云う他はない。

「キノシタさん、ですよね」と電話の向こうの彼女は云った。「着信出てたでしょ」おれがそう云うと、出てましたけど……、と彼女は口籠って仕舞った。

「あのー、今、なにしてんの」

 まったく以て意味のないことを訊いて、既に後悔しはじめていた。

「特にこれといったことはしていませんけれど……」

 ああ、だれる。

「そりゃあ、そーだろうねえ。電話に出られるくらいだから」もう、だるだるの気分でおれは云った。

「別にこっちも用はないんだけどね」

「ああ、そうなんですか」

 もう、電話切りたい。掛けたおれが馬鹿だった。ところが此処から話が急展開していった。

「いつでもいいんですけれど、お閑な時間、ありますか」

 彼女がそう云った時には驚いた。そりゃもう、おでれえた。バイトが木曜休みだけど、と答えたら、家に来ていただけませんかと云われて仕舞った。なんで? おれ、まだなんにもしてないよ。つーか、あんたの髪の毛一筋にだって触ったこともない、と云いそうになった。

「それはまた、何故に」やけに改まった口調でおれは訊き返した。

「母が会いたいと云ってるんです」

 それを聞いた時には、思わず南無阿弥陀仏……、と唱えそうになった。

 理由を訊いてみると、今まで七時以降には外出したことのなかった娘が夜遅くに帰って来るようになったので、両親揃って心配していたのだそうな。そして母親が代表して娘に問いただしたところ、ライブハウスやら謂う胡散臭い場所に出入りしていると云うのを聞いて、「なんでそんな処に」と心配した母親に向かい、彼女はすごくいいひとが出ているから、と答えたという。

 特に「すごくいいひと」と思われるような行動をした覚えはなかったが、彼女の特殊な思考回路の中で、おれはいつの間にやらそう謂う人物になっていたらしい。

「じゃあ、今度の木曜日のお午頃にいらして戴けないでしょうか。母が何かご馳走したいと申しておりますので」

 この言葉遣いはなんなの。いったいおれは何様? あーた、おれよりふたつおねーさんなのよ。


    +


 そして決戦の日は来た。いや、別に戦う必要はないのだが。

 指定された地下鉄の駅を出ると、ずらずら並んだ無断駐輪の自転車の脇に清世は立っていた。やはり地味だった。三月のはじめだったが、糞寒かった。

「お呼び立てして申し訳ありません」

 消え入りそうな声で彼女は云った。

「その言葉遣い、なんとかなんないの」

 ついにその言葉を云うことが出来た。

「え、でもステージなんかに立っていらっしゃる方だから……」と云う彼女の返答におれはげんなりして仕舞った。そこら辺の女など、初対面でもタメ口で、「リョー君、今度のライブ、いつ~」とか訊いてきて、誰だよおまえと思うことばかりなのに、なんなのだ、この時代錯誤感は。

「あのさあ、おれ、ただの大学生だから。あの猫ば……、友達も云ってたでしょ。第一、年上の女にそんな馬鹿丁寧な口の利き方されると居心地悪いって謂うか……」そこまで云うと、おれは彼女の異変に気がついた。なんということか、泣き出してしまったのである。

 うそー。泣く? 普通。

「大丈夫?」

 何うしていいか判らずに、取り敢えずそう訊ねてみたら、彼女はすみませんと云ってコートのポケットからハンカチを出して涙を拭いていた。何か気に触ること云ったかな、と顔を覗き込んで訊いたら、「いいえ、いいひとだなあって思って」そう彼女は小さい声で答えた。

 なんなんだよ、それ。こんなことでいちいち泣かれていたら「いいひと」どころか周囲からおれがものすごく悪い人間に思われるじゃないか。目が赤くなったりして彼女の母親に誤解されても困るので、もう一度顔を覗き込んでみた。

 そうしてみると、随分小さいんだなあと今更ながら思った。彼女はおれにじっと覗き込まれて恥ずかしかったのか、真っ赤になって両手で顔を覆ってしまった。

 そこでやっと猫化けの「男の子を怖がっていた」と謂う言葉を思い出した。幼少時に苛められたか、それとも強姦でもされたのかと考え込んで仕舞った。しかし、こんな駅の入り口の、自転車がぐしゃぐしゃに並んでいる処にじっと立っていてもしょうがない。

「家、遠いの?」そう訊ねたら、そこの坂を上がった処の住宅地にあります、と彼女は答えた。ああ、そう、坂ね。坂くらい登ろうじゃないの。泣かれるよりはよっぽどましだ。

 彼女の家は、何れがなんだか判らないような分譲住宅が並んだ中の一軒だった。もう一度ひとりで来いと云われても行けないだろう。

 家に着いて、「お母さん、 キノシタさん連れてきたよ」と云う彼女の言葉遣いに、正直驚いた。家庭内でもあの喋り方をしているものだとばかり思っていたのだ。普通の喋り方が出来るんならおれにもそう謂う言葉で喋れよ、と呆れるのを通り越して、不思議の塊でも見る気分で彼女の後ろ姿を眺め遣った。

「まー、いらっしゃい。キノシタ君ねー。あら、可愛らしい、髷結って」

 髷ってあんた。清世からは想像もつかない元気なおっかさんだった。

「あらー、楽器持ってるのねえ。さすが音楽家」

 大学の部室で練習する約束が六時にしてあるのでギターを持っていたのだ。

「バイオリン?」

「いや、バイオリンはもっと小さいかと……」

 そう答えると、コントラバス? とおっかさんは云った。知ってる弦楽器の名前出しゃいいってもんじゃないだろうが、とムカつきだした気持ちをなんとか抑えた。

「それよりは小さいんですが……」

「オーボエかしら」

 なんなの、このおばさん。清世より性質悪りい。

「お母さん、 楽団員じゃないんだから。キノシタさんは三人で音楽やってるの」と清世が口を挟んだ。

「ああ、室内楽ねえ」

 ぶっ殺してえ、このババア、と思った。

「ああー、ごめんなさいねえ。玄関口で無駄話ししちゃって、さ、さ、上がってあがって」

 上がりたくない、帰りたい、と真剣に思った。

「キノシタ……、なに君かしら」そう訊かれて、亮二です、と答えた。

「リョウジ君、男前だから名前も男前なのねー。切れ長のぱっちりした目で役者さんみたい。そうそう、特上寿司とってあるのよー。きよちゃんがねえ、はじめて男の子連れて来るっていうから奮発しちゃったの。お父さんには内緒でね。ウニ、イクラつきよー。トロもどっさり。もー、電話で注文する時手が顫えちゃって、なんだったかしら、ああそう『金剛』って名前のセット……。コース? メニュー?」

 玄関口に立たされた侭のおれは、なんでもいいから家に上げるか帰すかしてくれよ、と思った。

 慥かに出前の寿司は豪華だった。こんなもん喰ったことがない。何故ならば、おれは異様に食が細いのだ、男の癖に。おっかさんの「もっと食べて、あれもこれも」攻撃で限界ぎりぎりまで喰ったが、すみません、もう食べられませんと音を上げた。

「あらー、ちゃんと三人前なのよー。少食なのねえ。だからそんなに痩せてるのよー。そんな細っこい体、見てられないわ。ひとり暮らしなの?」と一番訊かれたくないことを訊かれた。

「えーと、家が割と学校に近いんで親元にいます」

 ああ、 恥ずかしい。バンドとかやって女にちやほやされて(バンド関係での女は何うでもいいのだが)、家に帰るとかーちゃんが作っておいてくれた飯をレンジでチンして喰う。情けないこと山の如しである。

「あー、それはいいわねえ。ひとり暮らしなんかすると不良化するのよー。悪いことばっか覚えてねえ。きよちゃんがいいひとだって云うのがなんだか判るような気がするわー。親御さんの教育がしっかりしてるのねえ。らいぶなんとかで夜遅く帰ってくるから、もー心配で心配で。この子はちゃんとした娘だから駅に着く時間を知らせてくれるのよ。で、わたしがねえ、歩いて迎えに行ってるの。免許持ってないから。そうするとねえ、きよちゃん、なんか浮きうきして帰ってくるのよねえ。これまで夜遊びなんかしたことのない娘だから、適当なこと云われて変な子たちとつるんで遊んでるんじゃないかってお父さんと心配してねえ、何処行ってるの? って訊いたら音楽聴く処だって云うじゃない。コンサートホールに行ってるのかと思ったら、なんか狭くて薄暗がりの中でエリちゃんが狂ったようにのたうち廻ってるって云うじゃない。まあ、あの子は昔っからちょっと変わった子だったんだけどねえ、そんな如何わしい処に娘をやる訳にゆかないでしょー。この子はエリちゃんが一緒だから大丈夫だって云うんだけど、どうもそれだけじゃないような気がしてねえ。で、問いつめたらすごく優しいひとが居てそのひとの姿が見たいから何うしても行きたいって」

 そこまで一気におっかさんは喋くり捲くって、やっと娘が真っ赤な顔をして縮こまっているのに気づいたようだった。話の中に出てきた「エリちゃん」と謂うのはあの猫化けのことなのだろう。名前だけはまともだったのか。

「あら、きよちゃん、何うしたの」

 何うしたも斯うしたもないだろうが。本人がおれに云ってないことまで立て板に水に捲し立てられたら恥ずかしいに決まってるじゃねえか。何うかしてんじゃないのか、このおっかさん。

 なんか落語に出てくる長屋の女将さんみたいなひとだな。よくこんな母親の元で清世みたいな女が育ったもんだ。反面教師ってやつかな。

 居間に通されて、「リョウジ君はコーヒー、紅茶、日本茶、何れがいいかしら」と訊かれて、コーヒーでいいですと答えたら、

「コーヒーね、楽で助かるわー。インスタントなんだけどいい? ネスカフェのでっかい瓶なんだけど、これねえ、お徳用だと思って買うじゃない。でも使い切る前に底がかっちんこっちんになってねえ、一度千枚通しでぐりぐりやってみたんだけど穴が開くだけでびくともしないのよ。悪徳商法だと思わない?」

 いや、毎日飲んでいればちゃんと使い切れると思うのだが、と思ったが黙っていた。ひとつ突っ込みを入れたら百倍になって返ってきそうだったからだ。

「お砂糖とミルクは?」

 そう訊ねられ、何も入れなくていいですと答えたら、母娘揃ってまるで偉人でも見るような目つきでおれを眺めた。

「なんか……、不味いですか?」

 そう恐るおそる訊ねたらば、

「ブラックで飲むひとなんてうちには居ないのよー。お父さんは砂糖三杯入れるし、わたしときよちゃんは砂糖二杯とミルクを入れてやっと飲むんだけど……。リョウジ君、大人なのねー」と、清世母は感心したように云った。

 だったらコーヒーなんか買ってくるなよ。馬鹿じゃねえのか、この一家。

 もう、どっと疲れて清世の家を後にした。

 坂道を下りながら、あんたのお母さん、えれえ元気なひとなんだな、と云ったら、厭味とはとらず、「楽しいひとでしょ」と少し嬉しそうに彼女は答えた。普通の言葉遣いになったようだが、あのおっかさんは寄席で見るなら兎も角、身近に居て慾しくないタイプだった。あの弁舌には圧倒される。

「キノシタさんはこれから何うされるんですか」

 また元の言葉遣いに戻って仕舞った彼女に向かって、どーすんの、って訊けばいいんだよと云ったら、彼女は律儀に「どうするの?」と改めて訊いてきた。おれの顔を見上げて何うするの、と訊ねる彼女が、なんと謂うか、ものすごく愛おしく感じられた。往来でなかったら抱きしめていたかも知れない。

 学校の部室でライブの準備と謂うか練習みたいなことをするんだけど、と答えたら、「熱心なんですね、頑張って下さい」真剣な眼差しで彼女はそう云った。 それに対して、はい、頑張ってきますと答えたおれ。まるで出征する兵隊みたいだった。

 敬礼でもすればいいのか?


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 彼女の家から大学まではちょっと遠かったが、それでも時間に余裕があった。長居をしたら晩飯も喰ってゆけと云われそうだったので、早々に退散したのである。 地下鉄に乗ってぼーっとして吊り革に摑まっていたら、学校最寄りの駅を乗り越して仕舞っていた。やれやれ、と思いながら反対側のホームへ向かう途中、「あー、リョウ君だー」と云う女の声がした。

 誰かと思ったら清世の友人ふたりだった。名前をちゃんと聞いた筈なのだがきれいさっぱり忘れていた。毎回ライブに足を運んでくれるというのに失礼な話だが、今更「名前なんだっけ」とも訊けない。

「ギターなんか持って、今日ライブなの」

 片方にそう訊かれて、いや、練習に行くとこだけど、とつい答えて仕舞った。清世母ショックで防備が完全ではなくなっていたようである。

「えー、何処でやんの。見たいー」と、二部合唱で彼女らは云った。見せるか、馬鹿。遊びでやってんじゃねえんだよ。いや、遊びではないと謂うか、趣味でやっているだけなのだが。

 黙っていたら、向こうで勝手に話題を変えてくれた。

「リョウ君さー、キヨセちゃんのこと、気をつけた方がいいよ」と友人1が意味深な科白を吐いた。

「気をつけるって、何を」

「リョウ君の前からのファンの子たちに睨まれてんのよ。ただでさえあんなとこには場違いな子だしさあ」と友人2が云った。

 ファン……。 そんなもんが居るのか。客が這入っているのだから自分達のバンドが気入って貰えているとは思っていたが、ファンと謂う言葉に結びつけて考えたことはなかった。バンド名のことといい、斯う謂った常識的なことといい、その手のことにはどうも巧く頭が廻らないらしい。

「ファンだかなんだか知らないけど、何うしてあいつが目の敵にされるんだよ」

「えー、だってリョウ君、他の子は適当にあしらってるけど、キヨセちゃんとは仲良く喋ってるじゃん。ひとり占めされてる気がしてむかつくんじゃないのー」

  金払ってまで足を運んで下さるお客様を適当にあしらっているつもりはない。見も知らない女に気安くこっちから話し掛ける方がおかしいじゃないか。別にナンパする為にライブしてる訳じゃないんだから。そう思って、別に普通にしてるつもりだけどと云うおれに、

「だってさー、あたしたちが座ってるとわざと聞こえるように『なんでこの子がー』とか『だっさい、 ムカつくー』とか云って通り過ぎてくんだよ。酷いと思わない」そう友人2が云った。

 それは酷い。と謂うか、まるで小学生の苛めだ。そもそもおれは清世とつき合っている訳ではない。何うして彼女がそんな迫害を受ける羽目になっているのかさっぱり判らなかったが、おれがこの先誰かとおつき合いをしたらその女がそう謂う扱いを受けるのかと思って考え込んでしまった。

「ナニぼけっとしてんのー。リョウ君、頼りなさすぎー」と云われて少々むっとした。うるせえ、脳たりん。

 ふたりは用があるらしく、意外とあっさり去って行った。練習が見たいと謂うのは単なる社交辞令か、特に考えもなく口にした言葉なのだろう。部室には早めに着いてしまったが、誰も居なかったのでひとり淋しくスナフキンのようにギターを弾いていたおれだった。

 おさびし山よ~。今度これ演ろうかな、などと阿呆なことを考えていたら、牧田と江木澤も約束していた時間より早めにやって来た。実に真面目なおれたち。

「リョウ、何うしたんだよ、こんな早くに」と江木澤に訊ねられ、いや、ちょっと小高清世嬢の家に連れて行かれてさ、と答えたら、「家ぇ? デートすっとばしていきなり親に紹介するって、変わってると思ってたけど、すごいなあ、キヨセさん」牧田が呆れ顔で云った。

「で、あれなの? 親もああ謂う馬鹿丁寧なひとだったの」

 何故か同情するような顔つきで江木澤が訊いてきた。

「いや、その反対。うるせえくらい喋くるおっかさんだった」

 はあ、とふたりして感心したような声を出した。その後は新しい曲が難しいだのややこしいだの文句を垂れるのを、ケチつけんな馬鹿、と押さえつけ、練習に励んだ。

 本当に、まじめ。非のつけようがないくらい真面目な青年たち。他のふたりは何うなのか詳しくは知らないが、おれは「おつき合い」をしている女などいないのだ。それなのになんで女の小競り合いに巻き込まれなきゃならないのだ。


   +


 単位も落とさず――第二外国語のフランス語はやばかったが、そんな国に興味もないのに何故フランス語を選択したのかまったく記憶になかった。コマンタレブー。何はともあれ無事進級して、桜が咲いて新入部員が入ってきて、ああ、緑がきれいだ、と謂う一年で最も過ごしやすく、爽やかな季節になった。おれは相変わらずアルバイトとバンドに精を出していた。

 なんのアルバイトをしていたかと云えば、ありきたりなコンビニエンス・ストアーの店員である。楽だし時給もそこそこだったし、店長が話の判るひとで時間の融通も利いたからである。

 小坊主からも月一でちゃんとお声が掛かった――と謂うよりも、当然のように予定に組み込まれていた。

 しかも、結構ひとが入る土曜日。難有えこった、と思っていたが、ただ単に学生だから、と気を遣っていてくれたのかも知れない。社長はこれまでの印象を総合すると、そんな細やかな気配りの出来る人間ではないようにしか見受けられない人物だったが。

 そして、何故か知らないが、おれたちのバンド「ナナシ」は評判が良いらしく、三バンド纏めて、ではなくふたつのバンドのトリを任せられるまでになった。と云っても、もの凄く小規模なライブハウスの中の出来事なのだが。

 時々、誰も知らないであろう大昔の曲を戯れに演ってみた。ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」をだるだるの死にそうなメロディーで唄ったり、伊藤咲子の 「ひまわり娘」を隠花植物の歌でも唄うようにしてみたり、キャンディーズの「年下の男の子」を「年寄りな男の子」みたいに陰鬱に唄ったりした。

 これがウケた。皆オリジナルだと思ったらしい。社長からも、「いいよ、あれ。ああ謂うのもっと演ってよ」とまで云われた。アレンジしたのはおれだが、他人の曲がそんなにウケるのは面白くない(原型は殆ど留めていないのだが)。

 そんなこと云うと松田聖子の「赤いスイートピー」演っちゃうぞ。

 オリジナルと思われる原因は曲調以外にもあった。どうもおれの唄い方は曲によって言葉が聴き取り辛くなるらしいのだ。客の中にはそう謂ったものを外国語で唄っていると思い込んでいるひとすら結構居た。敢えて訂正はしなかったが。

 自分の書いた詩をきっちり知られてしまうのはなんとなく気恥ずかしい気がしするので、まあいいか、とも思う。

 ライブにはちゃんと友人ふたり組に守られるようにして、清世が毎回、何故か早めにやって来る。何遍見ても地味だった。

 或る日、いつものようにカウンター席に座ってバーテンのにいちゃんと話している処へ、やはりいつも通り友達と早めにやって来た清世は、保護者もどきのふたりに押し出されるようにされ、おれの傍へやってきて立ち竦んでいた。

 何が彼女を地味に感じさせるのかつくづく眺めてみた。服装はごく普通。別にダサい訳でも襤褸を纏っている訳でもない。髪型を見ると、前髪を斜め後ろの位置で、何処にでもある黒いピン二本で留めていた。これが不味いのかな、と思って外してみた。

 外しただけでは癖がついておりたいして変わらなかったので、手櫛で取り敢えず前に下ろしてみた。顎の辺りできっちりすべての髪が切り揃えられている。何処で切ってもらっているのか訊いてみたら、「お母さんに……」と申し訳なさそうに答えた。

 おかーさんですか、とほほ。

 おれも自分で切っているからひとのことは云えないが。

 真ん中で分けたらどうだろう、と思ってやってみたが、横分けになるような癖があるのか顔の真ん中に一束の毛がぼさっと垂れ下がってしまう。だったらもう横分けにするしかないか、と髪が額に掛かるような感じで眉の横辺りにピンで留めた。

 ああ、いいじゃないの。額が丸見えなのが似合っていなかっただけだったのか。なるほどね。ピンが一本余ったのでついでにそれもつけておいた。そんなことをしていたら、カウンターの向こうから江木澤が声を掛けてきた。おれは彼女にじゃーね、と云い残して奥に這入った。

「リョウ、あんなとこで何いちゃついてるんだよ。女の子たちが凄い目で睨んでたよ。キヨセさん、袋叩きに遭ったらどうするのさ」

 いちゃついていた覚えはないが、以前友人ふたり組から彼女が他の女どもに迫害されていると聞いたことを思い出した。

「幾らなんでも袋叩きはないだろ、スケバンじゃあるまいし」

 おれの言葉を聞いて、呑気だなあと江木澤は呟いていた。呑気も何も、おれはただの一般人。タレントでもなければ俳優でもない。ちょっと曲が書けてギターを弾いて唄っているだけの人間だ。

 などと思っていたおれが甘かった。

 ステージが終わって後片づけをして店を出ると、いつも居る出待ちのひとの数が普段より少なかった上に、何処か気をとられているようだった。

 お忙しいから皆さんお帰りになったのね、と思っていたら、「ちょっと、なんかあそこで女たちが揉めてるよ」と牧田が云った。彼が指さした先を見ると、壁に向かって半円を描くように数人の女が何やら揉めていた。

 ちらほら居るひとたちの雰囲気が妙な感じだったのはこの所為だったのか。なんだろうと覗いてみると、取り囲まれていたのは清世と友人1、友人2だった。

「あんた、なんなのよ。べたべたしてさあ」「うざいからもう来んな、ブス」「リョウが迷惑してるだろ。ダサい女は家でおとなしくしてな」「鬱陶しいんだよ、馬鹿女」とまあ、非れもないお言葉が飛び交っていた。友人ふたりが「あんたたちに関係ないでしょ」「うるさいなー、放っといてよ」と応戦していたが、清世はただただ俯いているばかりだった。

 仕方がないので輪の中に割って這入ると、なんだかんだ云っていた女どもは急に静かになった。

 おれは彼女の肩を抱いて、なにしてんの、もう帰んないと駄目じゃんと声を掛けて、さっさと近くの駅に向かった。女どもには「どーも、また来てねー」と、牧田と江木澤には 「じゃーなー」と云い残して。

 よく考えたら彼女の体に触れたのはこれがはじめてだった(髪の毛は弄り廻したが)。か細い肩だなあと思った。

 家に帰ると早速携帯電話が鳴った。牧田からだった。

「リョウ、すげえじゃん。もー、おまえヒーローよ、ヒーロー」と興奮した声が聞こえてきた。何が、と答えたら、「なにがって、寄ってたかってわーわー云われてたキヨセさんをさっと連れ去って行くなんて、おまえカッコ良すぎ。おれでも惚れる」だと。何をぬかしとるんだ。前々から思っていたが、こいつは底無しの阿呆だ。

「みんな唖然としてたもん。おれ、いつもみたいに怒鳴って女どもびびらせるかと思ったらあれじゃん。なに考えてたの」

 別に何も考えていなかったが、金払ってわざわざ聴きに来てくれたお客さんを怒鳴りつける訳にもいかないし、怯えて縮こまっている彼女の姿を見ていたら、一刻も早くそこから連れ出してやらないとあまりにも気の毒だ、と思っただけである。

 電話を切ると、 今度は江木澤から掛かってきた。その後には何と猫化けからも掛かってきた。こいつ、なんでおれの電話番号を知ってるんだ、と思ったが、そういえば清世の携帯電話に情報を送ったのはこの女だった。あの時ちゃっかり自分の携帯電話にも入れやがったな。

「リョウ君、聞いたわよー。キヨセを守る白馬の王子様。恰好いいじゃない。あたしもそんな目に遭ったら助けてねー」

 誰がおまえなんか取り囲むか。逆に取って喰われちまうよ。自覚しろ。


    +


 当人の清世からは月曜日の午頃掛かってきた。恰度学食で蕎麦を手繰っている時だった。

「先日はありがとうございました。ご迷惑お掛けして申し訳ありません」

 まあ、ご丁寧に。

「特になんにもしてないけど」と返したら、「そんなことありません、助かりました」そう彼女は云った。

「怖かっただろ、あんなおねーさんたちに取り囲まれて襤褸糞云われて」

 殺されるかと思いました、と云う彼女の言葉を聞いて笑って仕舞った。お礼がしたいと云うので、アルバイトも練習の予定もない木曜日に会うことになった。お礼って、いちいち丁寧な女だなあ、とつくづく思った。しかしお礼とはなんだろうかと考えた。

 お礼にこの体を捧げます……。そんなことにはならないだろう。

 約束した喫茶店、カフェと謂うのか? なんでもいいが、そこへ授業が引けてから赴いた。難有いことに喫煙席があった。煙草を吸いながらふと考えた。もしかしたら、これはデート?  逢い引き? 

 少し困惑しているところへ清世が、「お待たせして申し訳ありません」とやって来た。彼女が「つまらないものですが」と云っておれに手渡したのは菓子折りの入った袋だった。

 本当に、お礼。なんとか饅頭。笑えてきた。彼女はすみません、と俯いた。

「いや、ごめん。難有く戴きます」と云いながらも、笑いが止まらなかった。俯いて小さくなっている彼女がいじらしくて、甘い物が苦手だからこんなもんもらっても喰えないとは云えなかった。よく見たら、この間おれが勝手に弄った通りの髪型をしていた。

 ああ、なんちゅう素直な奴。

 途切れがちながらも話をしていると、来月の、つまり六月の三日に誕生日を迎えるという。はあ、そりゃおめでたいことで、と思い、「で、幾つになるんだっけ」 と訊いたら、二十二ですと答えた。そりゃそうだ。二十一の次は二十二。せっかくひとつ追いついたのに、ふたつ違いの期間は半年だったのか。

 しかし、何う見てもみっつ年上の人間には思えなかった。だが年下の男相手に意味もなく年齢を多くサバ読む訳はないので、本当に二十二歳なのだろう。

 大学生だと云っていたから来年卒業するのか。就職すんのかな。この方が職業婦人になられるとは。あれ、なんでそんな普通の情報を知らないのだろう。

 それにしても、こんなんでまともに就職出来るのだろうか。試験に全部落っこちて、家事手伝いと謂う名の無職のひとになってしまったりするんじゃなかろうか——などと考えていたら、六月なんてあと一週間くらいじゃないか、と謂う事実に思い当たった。

 何か慾しいものはあるかと訊ねたら、きょとんとした顔で彼女は此方を見遣った。

「誕生日に、慾しいもん」

 やっとおれが何を云わんとしているかを理解したらしく、手をぱたぱた振って、「そんなことをして戴く訳にはいきません」と、ほぼ予想通りの答えが返ってきた。


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 カフェだか喫茶店だかを出ると小雨がぱらついていたので、地下街に避難した。何やかやと店がずらずら並んでいるので、黙って歩いてもそれほど気不味くはならないだろうと安心した。

 小さい花屋があって、清世はそこで足を止めた。じっと眺めているので花が好きなのかと訊ねたら、「はい。でも切り花は好きじゃありません」そう彼女は答えた。じゃあじっくり見るなよ、ややこしい女だな。で、何故嫌いなのか訊いてみたら、「生きているのを切って飾るなんて可哀想です」と彼女は云った。

 なんとお優しいことで。乙女心ってやつか? いや、女は花束なんか贈られると普通は喜ぶものだ。

 花屋の前から立ち去ってぶらぶら歩いてると、「あー、リョウ君だー」と呼ばわる女の声がした。誰だと思ったら、服屋から髪の短い女が此方へ向かって手を振っていた。ぼんやり見えるその姿に何処かで見たことがあるなあと思ってその店の前へ行った。

「デートしてんだー、キヨセ……、さんと」

 細い目で鹿尾菜みたいな睫をぐりぐりにカールさせて、全身黒尽くめ。黒いTシャツに黒いミニスカート、膝上までくる黒い靴下に黒いDr.マーチンの十二ホールのブーツ。どっかに色使ってめりはり効かせろよ、と考えたところでやっと彼女が何者か思い出した。ライブハウスでよく見掛ける常連さんだ。

「ああ、よく来てくれる……」

 おれがそう云いかけたら、「覚えててくれてたんだー。キヨセさんしか目に入ってないかと思ってた」と、その女はけらけら笑った。

「この間、凄かったねえ。女の子たちが滅茶苦茶云ってて」

 清世の方を見遣って彼女は面白そうに云った。

 見てたんなら止めに入るとかしてよ、と云ったら、「やだー、怖いもん」そう彼女は即答した。そりゃそうだろう、無理もない。

「で、なにしてんの、買い物?」おれがそう訊ねたら、「違うよー。此処で働いてんの、店長よ、てんちょー」と女は云った。そりゃ、たいしたもんだ。

 彼女は首を傾げておれの方をじっと見て、普段着でステージ上がってるんだ、と少し呆れたように云った。ステージ衣装着るような音楽なんかやってないだろうが。

「なんかいっつもワンサイズくらい上の無地のTシャツに細めのジーンズばっかだなー、と思ってたけど、それはそれでなんかスゴいねえ」

 凄くはないだろう。

「キヨセさんも災難だったよねー。別に普通のカッコしてるだけなのに、いっつもあの娘らから『ダサい、ダサい』って云われてさあ」

 そう云って女は彼女を覗き込んだ。清世は怯えたようにおれの後ろに隠れて仕舞った。

「かわいー。これはリョウ君も可愛がる筈だねえ」

 可愛がった覚えはないが、この女は悪い人間ではないらしい。

「そうだ、うちの店の服でコーディネートしたげるよ」そう云うと、彼女はまだおれの後ろで小さくなっている清世の手を引っ張って店の内に連れて行った。

  すげえ商売上手。歩合制なのだろうか。店を眺めてみたが、服の量がやけに多い。高級な服屋みたいにこぎれいに陳列していない。と謂うことは安物を扱っている訳だ。しかし、女物の服だけでも色々取り揃えるとこんな量になるのか。見たところ珍妙な服は置いてないので、ふたりをほかっておいた。

 隣の店を見ると、此処よりはもう少し高そうな、やはり女物の服屋だった。向かいの三軒もそうだった。何故こんなに女物の服屋が多いのだろう。男は裸で勝負しろと謂うことなのか?

 服屋の隣にいきなり丼屋があるのには驚いた。そう謂えば、おれは丼飯を喰いきったことがない。なんと謂う軟弱者なのだろうか。裸で勝負しろと云われたらどんな小狡い手を使ってでもおれは逃げ出すだろう。この貧弱極まりない体を隠す為に、梅雨が明けても長袖を着ているおれだ。

 背丈はある。背丈はあるが、重量がない。

「彼氏ぃ、彼女の服、見てあげてよ」と云う声に、やっと我に返った。先刻は気づかなかったが店内には一応客が数人あれこれと服を見ていた。店員は他に居ないのか、と思ったら器用に立ったまま服をたたみ整頓する女がひとり居た。よく見ると胸に名札をつけている。ならばあの女は店員なのだろう。

 そうか、名札をみればこの馴れ馴れしい女の名前が判るのかと思い、彼女の胸元を見た。「とりしま」と平仮名で書かれた手書きの名札がつけられていた。

 ナニ故ひらがな? 漢字が書けないのか、誰でも読めるように配慮してあるのか。

「キヨセさんの服見てって云ってんのになにひとの胸見てんのよ」

 別に助平な気持ちで見ていた訳ではなく名札を見ていただけなのだが、誤解を解くのも面倒くさいので黙っていた。

 ほら何う、と云われて試着室の中の清世を見ると、なんと謂うか珍妙な身成をしていた。変ではないと思う。かなり昔に流行って、今また一部で流行り出した服装のようだった。斯う謂う恰好をしている女は慥かに居る。そして似合う人間も居る。が、彼女には恐ろしく似合っていなかった。選んだとりしまとやらが着れば様になるかも知れないが、相手の個性を考えろよ。よくこれで店長なんか任せられたものだ。

 はっきり云って似合ってない、ときっぱり指摘したら、でもこれなら苛められなくなると思うよー、と店長とりしまはむっとして返してきた。なるほど、そう謂う観点で彼女なりに考えてくれた訳か。

「でも、何う見たって似合ってないだろ」

 シンプルに纏めたのになー、と彼女はぶすっとして答えたが、似合っていないのは判っているようだった。判ってるなら着せるな、時間の無駄だろうが。

「じゃあ、いいのがある」

 そう云って彼女が持ってきたのは、淡い青灰色で、半袖のごくシンプルなワンピースだった。なんで最初からそれ着せないんだよ、とおれが云ったら、「これだと今までと変わんないじゃん」という答えが返ってきた。

 慥かに。

 着たくもないものを着せられた上に、更にまたワンピースを押しつけられ困った様な顔をしている清世を他所に、とりしま店長はさっさとカーテンを閉めて仕舞った。いつもこんな接客をしているのか、この女は。限りなく押し売りに近いではないか。

 着替えたー? と訊ねるとりしまに、「はい……」と弱々しい声がカーテンの向こうから返ってきた。カーテンをしゃっと開けると、ごく普通だと思っていたが、そのワンピースは結構垢抜けたデザインだった。

「わー、似合うじゃん。何う、これなら文句ないでしょ」

 自慢げにとりしまは云ったが、 清世はなんとも情けない顔をしていた。似合ってるよ、とおれが云ったら、ほっとしたような顔をした。またカーテンを閉められて、開けられて、どっと疲れた顔の清世が元の服に戻って試着室から出てきた。

 別にそれだって他人に何う斯う云われる服ではない。そこら辺の女の子が着ている肘下くらいの袖のTシャツにスカートだ。そう謂えば、彼女は何故かおれと同じくいつも無地のものを着ていた。

 彼女は魂でも抜かれたように、強引に渡された服を抱えてぼやっと突っ立っていた。

「このワンピース、幾らすんの」

 店長とりしまに訊ねると、値札を見て五千八百円、と答えた。

「随分安いのな。一回洗濯したら襤褸襤褸になったりすんじゃないの」

 おれがそう云ったら、「うち、安物衣料店だから。でも縫製とかは悪くないんだよー。ただ、 流行ってる服のパクリとかが多いし、外国で大量生産してるから安いだけで……」と、やっと店長らしいこと(いや、云ってはいけないこと)を口にした。

 おれは自分の服装にも他人の服装にも構う方ではない。それなのに何故女物の服の相場を知っているのかと云うと、従姉妹の買い物につき合った時に、百貨店で彼女が手にする服の値段を見て腰を抜かしそうになったことがあったからだ。安いギターが買える値段の服ってどんなんだよ。

 まあ、それは何うでもいい。

「そんじゃあ、これ買うわ」と云って財布を出したら、清世はおれと違って本当に腰を抜かして仕舞った。

「どうしたの、大丈夫?」慌ててとりしま店長が腕を引っ張って立ち上がらせた。心配されても仕方がない。現実に腰を抜かした人間を見たのはおれもはじめてだった。

 呆然としておれを見つめている彼女をうっちゃっておいて、

「ああ、そうだ。来月誕生日だっつーからそれらしくして」

 そう云ったおれの言葉に、

「きゃー、誕生日プレゼント。すてきぃ。じゃあ、あたしからもお祝いに社販にしてあげる」

 と、とりしまは自分がプレゼントされるようにはしゃいだ声を出した。社販と謂うのは難有いが、別に安いからそんなことまでしてくれなくてもいいのだけれど。

 おれたちがそんな遣り取りをしていたら、漸く我に返ったのか清世が、「そんな、買って戴けません。わたしが払います」と、鞄を探ろうとしては取り落とし、落ちた鞄を拾えば中身をぶち撒かしと、「狼狽するひと」の見本演技のようなことをしていた。

 おれは気の毒になって、いいよ、安いし菓子折りくれたお礼だと思えばと、云って落ち着く何うかも判らない言葉を掛けた。

 レジカウンターでワンピースを包んでいたとりしまが、「あー、その紙袋、キヨセさんからもらったの。 どっかに挨拶にでも行くのかと思ってた」と云った。まあ、それが妥当な考え方だろう。

「バンドやってるひとに菓子折りって、面白いことすんのねー。ああ、でもリョウ君ピアスもしてなきゃ腕時計もしてないから何あげたらいいか困っちゃうよね」

 はあ、なるほど、そう謂う訳だったのか。やっと納得がいった。

 きれいに包装して、リボンまで掛けた服の包みを店の袋に入れながら、

「これは皆に黙っとくね。ナニされるか判んないから」

 それを聞いて、「だいたい、 あれなんなんだよ。訳判んないんだけど」と、おれは店長とりしまに訊ねた。

「えー、だってあんだけ集まってる女の子の半分以上がリョウ君目当てだよー。まあ、牧田君も親しみ易いから人気あるけど」

 江木澤は何うしたのだ、嫌われているのか?

 それにしても、自分の外見が女ひとりを吊るし上げにさせるほどだとは何う贔屓目に見ても考えられない。背は高い方だが、矢鱈と痩せ細ってるではないか。おれにとって、これは今までかなりの劣等感を抱かせてきた。病人と勘違いされることもあったし、実際、栄養失調でぶっ仆れたこともある。

 などと考えを巡らせていたら、

「はーい、おめでとー。仲良くねー」そう云って、とりしま店長は何故かワンピースの入った袋をおれに渡した。そして、はいはい、もう用はないわよ、と謂った感じで店を出されて仕舞った。おれは袋を黙って清世に渡した。

「すみません、難有うございます。このお礼はちゃんとしますから」

 まだあたふたとしている彼女を見たら笑えてきた。とりしまが袋をおれに渡したのはなかなか粋な計らいだった訳である。やはり馬鹿では店長は勤まらない。

「そんなにお礼ばっかしてたらきりがねえじゃん。あんた、本当に面白いのな」

 おれがそう云うと、清世は猿の尻のように真っ赤になって俯いてしまった。見ていて飽きない女だな、と思った。みっつ年上——いや、今のところふたつ年上なのだが。

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