8 誘拐
アントニー・アンドレーノヴィチ・ゴルスキーは、かつて神童と呼ばれていた。ものおぼえが良く、同年代の子供が理解できないような本もすらすらと暗記してみせた。
周りの大人たちはそんな彼に驚愕した。そして口々に言った。この子は天才だ。故郷の誇りだ。ゆくゆくは大臣様になる器だ。地方の下級官吏をやっていたアントニーの父もまたその大人の一人だった。
アントニーは周囲の期待通りの道を歩んだ。地元で一番の名門校に入学し、そこで一番の成績をとり続け、一番の成績で卒業した。順風満帆な人生と言ってよかった。そして満を持してベルカルーシの最高学府である第一帝国大学への受験。そこで彼は初めての挫折を経験した。入学試験に落ちたのだった。
全国に五つある帝国大学は、将来を担う高級官僚育成のために設立された教育機関であり、首都アインホルンブルクの第一帝国大学の入学試験は最難関の試験として有名であった。
それゆえ何度も落第をしたのちに合格することは珍しくないのだが、幼いころから神童ともてはやされ肥大化したアントニーの自意識はそれを是としなかった。通っていた学校で常に二番手として彼の後塵を拝していた同輩が合格していたのも、それに余計に拍車をかけた。
アントニーは故郷へ帰ることもできず、その日をただ何となく過ごす日々を送っていた。そんなある日ふらりと立ち寄った本屋で、彼は運命を変える一冊の本に出合った。
『唯物史論』
フランク・マルテルの著した、のちに無産主義運動の聖典となる本であった(無産主義運動の取り締まりが厳しいベルカルーシで何故そのような本の出版が許可されたかというと、内容が難しすぎて検閲官が碌に理解できず、こんな難しい本を買う奴なんてそうそういないだろうと判断されたからであった)。
知識階級、特に学者向けに書かれていた本だけあり、専門用語ややたらと難しい比喩表現が多用されていたが、神童と呼ばれていたアントニーにとって内容を理解することは不可能ではなかった。
この日を境にアントニーは無産主義へと傾倒するようになる。
そうだ俺は特別だ、特別なのだ。だから俺には、資本家に搾取されている人民を開放する崇高な義務がある。搾取構造を生み出しているこの社会を正す偉大な使命がある。
彼が何より気に入ったのが、マルテルが理論的無産主義と自ら称した思想であった。理念や理想のみで具体論を語らず、資本家や学者からは貧乏人の僻みと揶揄された感情的無産主義(これもマルテルが考えた言葉だ)が無産主義思想の主流であった時代に、経済構造の発展の歴史から無産主義社会への可能性を示したマルテルの理論は非常に革新的であった。
アントニーは新奇なものを好み、それを良いものだと考える人間であった。しかしそれは、自分が進んだ優れた人種だと思い込むためにそうしているにすぎなかった。彼はマルテルの思想と自らの価値観を同一視することによって、彼にとって耐えがたい挫折や屈辱といったものから目を背けることにしたのだった。
つまりアントニー・アンドレーノヴィチ・ゴルスキーとは、理解力はあっても思考力のない人物であった。
薄暗い倉庫の中、アンナは自分が置かれている状況をどう切り抜けようか思案していた。ロープで手足を縛られ口には猿轡を噛まされている。身動きはおろか喋ることもできない。おそらくは誰も使っていないのだろう。倉庫の中には荷物らしい荷物はない。自力で逃げ出すことはできず、誰かがここにやって来ることもない。
さて、どうしたものか。いや、どうすることもできない。妙案が思いつかない。ここは一緒にいたサーシャに期待することにしよう。頑張れサーシャ。それにしても今ごろサーシャは大慌てだろうな。ふはは、その慌てた顔を見てみたかったわ。うん、わたしも内心大慌てです。態度に出てないだけで相当テンパってます。あばばばば。
しかしまあ、誘拐か。誘拐といえばドラマなんかじゃ逆探知するために犯人との電話を長引かせるようにするけど(でもって大抵失敗する)、最近の(もちろんアンナの前世の話だ)逆探知機は一瞬で電話主の居場所を特定できるらしい。昔テレビでやっていたのを視たことがある。そういえば携帯電話って逆探知できるのだろうか。仮にできたとしても犯人すぐ移動できるし役に立つのか。うーん、なんか気になってきた。
だんだんと現実逃避じみた思考に陥っているアンナだが、なぜだか取り乱していた心が落ち着きを取り戻してきた。いや、現実逃避とは心が壊れないようにするための精神の防御反応なのだから、これもパニックになっている心を守るための反応の一種なのかもしれない。
落ち着きを取り戻したアンナは再び思案する。自分を誘拐したのは一体何者なのか。なぜわたしを誘拐したのか。
たまたま? 計画的? わたしの正体を知っている? 目的は? 金銭? 政治的要求?
アンナは周囲を見渡す。それほど広くない倉庫の中には複数の男がいる。人数は五人。荷物の代わりに机や椅子が置かれており、まるで簡易な事務所のようだった。というよりここは連中のアジトなのだろう。
つまり組織的な犯行か。組織の規模はどれくらいだろうか。大きさによってはこれが計画的な犯行の可能性もある。アンナの頭にそんな考えがよぎったが、今日出かけたのはたまたまであることを思い出し、おそらくそれはないだろうと考え直した。まあ、誘拐犯が四六時中自分を見張っていた可能性は否定できないが。
次は連中の素性だ。人さらいの犯罪者か、反政府主義のテロリストか、それとも叔父かその側近が差し向けた刺客の類か。答えは誘拐犯たちの怒鳴り声によってすぐに判明した。
アントニーは目の前に横たわっている少女の扱いについて頭を抱えていた。
――アンナ・ゲルトルート・フォン・ウント・ツー・キルヒバッハ。
この国の皇女でいずれ打倒すべき特権階級の一員。しかしそれは今ではなかった。
「同志カクマルノフ、なぜアンナ・キルヒバッハを攫ったのかね」目の前の男を罵りたい衝動を抑え、アントニーは言った。
「それは愚問というものだぞ、同志ゴルスキー。帝族を我らの手中に収めていれば決起の際に支配者どもにより大きな鉄槌を与えられる」アントニーの眼前にいる男――カクマルノフは得意気な笑みを浮かべていった。
「その帝族を攫ったおかげで計画が実行できるかどうか怪しくなったのだぞ!」アントニーは怒鳴り声で言った。怒りにまかせ机を叩いたせいでペン立てが倒れた。
「けれども同志ゴルスキー、我らは官憲に気取られることなく計画をここまで進めてきたのだ。あとはそれを実行に移すだけではないか」カクマルノフは、なぜアントニーが怒りをあらわにしているのか、わからないといった様子だった。
頭の足らない奴は素直に俺の言うことだけ聞いていろ。アントニーは心中でそう罵った。だいたい広場での演説もそうだ。その場で逮捕されないだけで、監視がついているから止めろと言っても聞きやしない。どうして連中はこうも馬鹿なのか。いや、馬鹿だから俺の力を借りようとしているのか。
帝族が誘拐されたとなれば、政府はその面子にかけて全力で彼女を探すだろう。つまり官憲の眼がこれまでの何倍も厳しくなることを意味する。その中で決起を行うのは、ほぼ不可能とみて間違いない。
だいいち今回の計画は体制への揺さぶり――いってしまえば嫌がらせに過ぎないのだ。国家を覆すような行動ならともかく、現状ではアンナ・キルヒバッハの存在はリスクの塊でしかなかった。
ならば彼女をどうするか。いずれ役立つだろうから、それまでどこかに監禁しておくか。いや、その『どこか』を見つけるのが手間だ。仮に見つけたとしても、そこまで官憲の目を盗んで移送するのにまた手間がかかる。
ならばいっそのこと殺してしまうか。しかしそれも得策とはいえなかった。前皇帝が暗殺されもたらされた結果は、反政府運動の苛烈なまでの弾圧であった。ここでこの帝族を殺せば確実にその二の舞となるだろう。そうなれば自分の身が危ない。アントニーが己の輝かしい名を歴史に刻むためには、それだけは避けねばならなかった。
「同志カクマルノフ、今度の計画は中止すべきだ」アントニーは言った。
「なぜだ同志ゴルスキー。この計画こそ我らの志の集大成ではないのか。それに我らの手中には帝族がある。今こそ人民の意思を見せつける絶好の機会ではないか!」
カクマルノフの言葉にほかにメンバーも賛同を示す。ああ、こいつらは駄目だ。その様子を見て、アントニーは彼らを見限ることを決めた。
奴らは先ほどの言葉が、最後通告だと理解できなかった。ならばあのような馬鹿は、早々に牢屋に入れた方が世の中のためだ。決起遂行だと盛り上がっているカクマルノフたちをよそに、アントニーはひどく冷めた目をしていた。
なるほど、連中は無産主義者のテロリストか。どうやらわたしの誘拐は、計画的なものではなく突発的なものらしい。そして自分の扱いをめぐって揉めている。
冷たい床の横たわっているアンナは今の状況を整理した。そう、床が冷たいのである。もう一度言おう。床が冷たい。
床の冷たさのせいでアンナはある状態に陥っていた。下半身がピンチなのである。もっといってしまえば、彼女は大変に尿意を催していた。そしてそれは、今にも漏れそうなのであった。