5 チャリオ
アンナが理事長室から寮の自室へ戻ると、リーゼロッテがいた。ベルンシュタインの学生寮は二人で一部屋を使うことになっており、リーゼロッテはアンナのルームメイトだった。
「あ、お帰りなさいアンナ様」
「ただいま、リロ」
自分のもとへ駆け寄って来たリーゼロッテの小動物的可愛さに胸を打たれたアンナは、彼女を思い切り抱きしめた。
「ア、ア、ア、アンナ様!?」
顔を真っ赤にして慌てるリーゼロッテ。その様子がますます愛らしかったので今度は頭をなでる。
「リロの髪ってふわふわで可愛いよね」リーゼロッテのウェーブがかった栗色の髪を手で梳きながらアンナは言った。
「あ、ありがとうございます。でもわたし、アンナ様の真っ直ぐな髪に憧れるんですよ」
「そうなの?」
「はい。美しくて、気高くて、まるで黄金のよう。一目見た時から心を奪われてしまいました」
そこまで褒められると、今度はアンナが赤面してしまう番だった。何と返していいかわからなかったので、とりあえず抱きしめる力を少し強くしてみた。
しばし沈黙が続いた。両者とも気恥ずかしさで、何を話せばいいのかわからなくなってしまったからだ。けれどもそれは何故か気まずさはなく、どこか心地の良いものだった。
先に沈黙を破ったのはアンナだった。正確にはアンナの腹の虫だった。キュルルと彼女の体が栄養を求める音を出したのだ。その音がなんだか可笑しくて、二人は声を出して笑った。
「あー、もう。じゃあ、ご飯にしよっか」
アンナとリーゼロッテは寮の食堂へ行くことにした。
寮の食堂は学院構内のメンザ(学生食堂)とは違い、それほど大きな規模のものではなかった。食堂というよりかはカフェテリアに近かった。
アンナとリーゼロッテの夕食は、スライスしたバゲットにソーセージ、レタスにゆで卵とトマトを和えたサラダ、オレンジジュースであった。
昼間に比べると量が少なく質素であるが、別にダイエットや節約生活をしているわけではない。ベルカルーシでは昼食が一日のメインの食事となるが、逆に朝と夕は昼食に比べて軽く済ませるのが一般的なのである(そのため食事時間が短く、人の回転が速いので朝食と夕食の場である寮の食堂はそれほど広さを必要としない)。
そして夕食後は家族だんらんの時間を過ごすのだが、ベルンシュタインは全寮制の学校なので、友人とゲームや談笑するか、講義の予習復習やレポートを書くか、読書など一人の時間を楽しむかが学生の相場であった。
リーゼロッテの話だとアレクサンドルとヴァルターは談話室にいるということなので、夕食を済ませたアンナ達はそこへ向かった。
寮の談話室ではアレクサンドルとヴァルターがチャリオ(この世界のチェス、ただし駒の形と名称が地球のものと違う)をやっていた。
「はい、これでソード取ったよ」ヴァルターは淡々とした声で言った。
「うっ! ま、まだランスが残ってるし」アレクサンドルが震えた声で返した。
アンナは盤上を覗いた。ゲームはヴァルターの優勢だった。というよりほぼ趨勢は決していて、あとは消化試合的にチェックメイトを掛けるだけだった。実のところ盤上を見るまでもなく、ヴァルターとチャリオの対戦をしたという時点でこうなることは目に見えていた。何故ならヴァルターは、学院で一番のチャリオの名手だからである。
「チェックメイト。これで詰み」
「あー! また負けた!」
アレクサンドルは悔しそうに頭を抱えた。決して弱いわけではないが、いかんせん相手が悪すぎた。何せ学院で無敗を誇る実力の持ち主である。もっともだからこそ自分が一番初めの勝者となるべく何度も挑んでいるわけだが。
「今度はリロ相手してくれよ」アレクサンドルが言った。「あっ、姫さんは相手にならないからいいよ」
「へえ、サーシャはわたしが弱いとおっしゃるか」アンナは怒気を含んだ声で言った。
「ああ、そうだけど」アレクサンドルは悪びれもなく答えた。むしろなぜ怒っているのか疑問だという表情だった。
「よろしい。ならば今日こそ、その誤った認識を正して見せようじゃないか。この新しく生まれ変わったわたしで!」
「面白い。じゃあ見せてもらおうか、新しく姫さんの実力とやらを」
――十数分後。
「チェックメイト」
「……まいりました」
アンナはアレクサンドルに惨敗を喫した。実のところアンナのチャリオの腕前はからきしだった。誰も彼女が勝利している場面を見たことがなく、学院最弱ではないかともっぱらの噂だった。
「だから言ったろ。姫さんじゃ相手にならないって」
「ぐぬぬ……」
アレクサンドルの言葉にアンナは何も言い返せなかった。
「そういえば」アレクサンドルがふと思い出したように言った。「姫さん理事長に呼ばれてたけど何の用事だったんだ?」
「あっ、それ僕も気になってました」とヴァルター。
「帝国民族大会でスピーチやれだって」アンナが返す。
「すごいじゃないですか」リーゼロッテが感激した様子で言った。
「でもそれって成績優秀者がやるんじゃないんだっけ?」アレクサンドルが疑問を口にした。
まるでわたしが成績優秀じゃないみたいじゃないか。アンナはそう抗議しようと思ったが止めておいた。実際成績は平均値だし、先ほど理事長に自分より相応しい人間がいるだろと言ってきたところだ。自分で言うのと他人に言われるのでは気分が違うとはいえ、これでは抗議にならない。
「理事長いわく成績は基準の一つに過ぎないらしいよ。まあ、『わたし』に何か喋ってほしいんでしょう、あの人は」アンナは特段何を気にするわけでもなく、いつもの調子で言った。ああ、でもスピーチの内容を考えるのが少し面倒かも。まあ、みんなと一緒に考えればいいか。何ならシュトルック先生に相談してもいいかもしれない。
「そんなわけでスピーチの内容考えるの手伝ってね。よろしく!」
アンナは満面の笑みで言った。
ちなみにチャリオの駒は
クラウン→キング ソード→クイーン
アスク→ビショップ ランス→ルーク
アロー→ナイト クラブ→ポーン
といったかんじになってます。んでもってこの設定が本編に出てくることはたぶんないです。