4 理事長室
帝立ベルンシュタイン学院はおよそ一五〇年前、時の皇帝ゲオルク一世が設立した全寮制の学校である。それだけ聞くと由緒正しい学校だと思えるのだが、ベルンシュタインに限っては設立の経緯を紐解くと、由緒正しいかどうか若干の疑問符を付けざるを得ない。
ベルンシュタイン学院はゲオルク一世の息子であるルイ・フリードリヒのために設立されたと言っても過言ではない。しかしそれは、ルイ・フリードリヒが学問好きだからだとかというポジティブな理由では決してなく、むしろ彼の勉強嫌いが原因だった。
ルイ・フリードリヒは、当時有力な帝位継承候補の一人だったにも拘らず勉学を徹底的に避け、遊びほうけていた。これがもし帝位継承順位の低い皇子ならば、多少叱られはするが、それほど問題にならなかっただろう。しかし彼は皇帝の次男であり、しかも兄である皇太子は生まれつき体が弱かった。皇太子にもしものことがあれば、皇帝に即位する可能性が十分にあったのだ。
だが今の状態のままで仮に皇帝に就任したなら、息子の皇帝としての資質を疑う者が出てくるだろう。そうなれば国が二つに割れ、ひどく面倒なことになる。そう考えたゲオルク一世は一つの決断を下した。それがベルンシュタイン学院の設立である。つまりベルンシュタインは、遊びほうけた息子を鍛えなおすためにでっち上げられた学校なのであった。
半ば無理やり学院に入れられたルイ・フリードリヒであったが、人生とはどう転ぶかわからないもので、学院生活の中で彼は学ぶことの楽しさに目覚めた。するとこれまでの評判が一転し、貪欲なほどに勉学に励む姿が、周囲の尊敬を集めるようになった。
そうなると今度は別の問題が発生してきた。病弱な皇太子よりルイ・フリードリヒのほうが皇帝に相応しいのではないかと、一部の臣下が噂をし始めたのだ。国が二つに割れることを避けるための策が、国を二つに割ろうとしたことはまさに皮肉と言ってよかった。
しかし最終的にそれは避けられた。ルイ・フリードリヒが皇帝位の継承権を放棄。帝籍を離脱し、帝国貴族ルイ・フリードリヒ・フォン・ウルブリヒト公爵として生きていくことを決めたのだ。そしてその見返りとして、ベルンシュタイン学院の運営を任されたのであった。
やがて時が経ち、兄である皇太子がオットー二世として皇帝に即位した。かつて帝位をめぐり弟と対立しかけたオットー二世だが、彼はたった一人の弟に対して悪い感情を抱いていなかった。それどころか自由に生きる弟が昔から好きだったし、愛していた。そしてルイ・フリードリヒもまた心優しいたった一人の兄が大好きだったし、とても尊敬していた。
即位の日、オットー二世の戴冠を祝うためにやって来た弟に兄は、何か欲しいものはあるかと訊いた。だが、皇帝の位はやれんぞと冗談めかして付け加える。ルイ・フリードリヒはそれに小さく笑って答え、そのあとそうですねと少し考えてこう言った。「学問の自由が、人が誰からも学ぶことを邪魔されない場所が欲しいですね」
かくして帝立ベルンシュタイン学院は、学問に対する不可侵の自由を手に入れたのであった。そして彼の子孫も代々それを守ってきた。
つまりは今アンナの目の前にいる学院理事長のフリードリヒ・ハイリンヒ・フォン・ウルブリヒト公爵は彼女の遠い親戚であった。
ベルンシュタイン学院の理事長室は、貴族の好みにありがちな、きらびやかな内装ではなく、機能性を重視した質素なものであった。室内の家具類は高級品ではあるが、それは装飾品としての絢爛さを求めたものではなく、品質の良い実用的な長持ちするものを求めた結果だった。
そしてアンナはその理事長室にいた。何故ならば、今目の前にいる男に呼ばれたからであった。
フリードリヒ・ハイリンヒ・フォン・ウルブリヒト。帝立ベルンシュタイン学院理事長にして帝国貴族ウルブリヒト公爵家七代目当主。年齢は二九歳と肩書きの割には若い。常に笑顔を絶やさずにいるが、だからこそどうにも胡散臭さが拭えない人物であった。
「ようこそ御越しくださいました、殿下。こうして御会いするのは三度目ですね」フリードリヒは大げさなほどに恭しい調子で言った。それは帝族への敬意の表れというよりかは、役者の芝居じみたものだった。
「ええ、そうですね。それで用とは?」アンナは素っ気のない返答をした。フリードリヒに対して、『亡命』を受け入れてくれたことは感謝をしているが、彼の底の見えない態度があまり好きにはなれなかった。
「何のことはない、簡単な頼みごとです殿下」相も変わらずフリードリヒは、その胡散臭い笑顔を崩さなかった。「今度の帝国民族大会でスピーチをしていただきたいのです。学生代表として」
「学生代表ですか。それならばわたしよりも成績が優秀な人がいるのでは?」
「確かにこれまでは成績優秀者が学生代表に選ばれていましたが、あくまで選ばれたのは『代表に相応しい者』です。つまり成績云々は基準の一つにすぎません」
「なるほど。それでわたしが『相応しい』と判断された理由は?」
「それはもちろん殿下の人柄や生活態度を勘案して――」
「嘘ですね」アンナはフリードリヒの言葉を一刀両断に遮った。「それならば、ほかにもっと相応しい『学生』がいたはずです」
「ええまあ、『ただの学生』という点ならばその通りです」フリードリヒは肩をすくめて言った。「けれども、たまには会議を華やかにしたいというのも、主催する人間としての思いでして」
なるほど。わたしが『皇女』だから『相応しい』と判断されたのか。別段腹は立たなかった。そういう立場に生まれついた以上、こういう出来事にいちいち反応していたらきりがない。
それよりも、学生代表のスピーチに帝族を引っ張ってくることが気になった。帝国内の民族の問題はそれほど深刻なのだろうか。それとも目の前の男には、ほかに何か意図があるのか。まあいい。わからなければ直接確かめればいいか。
「わかりました、お引き受けしましょう。『学生代表』として」
「有難う御座います、殿下。ではよろしく御願いします」
そう言ったフリードリヒの笑みは満足気だった。
帝国民族大会。ベルンシュタイン学院とウルブリヒト公爵家が主催する会議である。二年に一度開催され、ベルカルーシ国内の各民族の代表が集まり彼らが直面している問題について話し合う。
今回で二〇回目の開催となるこの会議は、あくまで学院と公爵家が開いている会議であり、政治に対する何の権限も持たないが、会議内で出された意見はまとめられ政府に提出される。そして政府は提出された会議の意見を『考慮』することになっている。
要するに体の良いガス抜きだった。そして会議の参加者は皆、それを承知した上で会議に臨んでいた。何故ならば、確かに政府に不満を持っている者もいるが、誰も帝国が民族主義によって、混沌の渦になることを望んでいないからであった。
しかし近年そのガス抜きの効果が薄まってきているのではないか。そう考えた主催者側は、何か強烈なメッセージ、インパクトになるものを探していた。いっそのこと帝族でも呼べばいいのではないかと意見も出たが、政府がベルンシュタインに介入する切っ掛けになることを危惧した学院側が難色を示した。
そこへアンナが、タイミングを狙ったかのごとく学院へ編入してきた。当然彼女に誰もが注目した。『皇女』のスピーチというのは強烈なインパクトとなるし、それでいて『学生』としてのスピーチならば政府もあしらいやすい。
かくしてアンナは帝国民族大会でスピーチのために壇上へ上がることになったのだった。