ほほえみ
「で、岡部さんって面白そうな人だなって思ったんですよね」
揚げたてのフライドポテトをひょいとつまみ上げ、パクっと咥える。
藤井は聞いています?という疑いの目を向けてくる。もちろん聞いている。聞こえている。
ただその問いになんて答えればいいのだろうかと困っている場面なのだ。
「………」
考えても答えがないことがわかっているのに、考えたふりをして返事を先延ばしにするのはオレの悪い癖だ。
目の前の女はジョッキのビールを流れるように空にする。少し顔が火照っていていい感じに出来上がってしまっている。
ちなみに今の話題はこの居酒屋にきて三回目だ。
その度にオレは視線を横に逸らしてこの話題が変わるのを待っていた。
「自分の知らない世界を知っている人ってすごく興味が沸くんです。私もっと色々なことをたくさん知りたいんです」
そう言って目をキラキラ輝かせて笑顔のままこちらを見てくる。
「何か呑む?」
「じゃあ……、またビールいいですか」
「お兄さん、生中一つ」
かしこまりましたーっと元気な返事が返ってくる。最近の若者が元気がいいのかそれとも教育がちゃんと出来ている会社が多いのか、オレの周りにはキラキラしている奴らが多い。その殆どはオレとは関係ないのだけど。
「残念だけどオレは期待しているほど面白い人生なんて歩んでないよ。君が悲劇の方が好きだっていう人間なら魅力的に感じるかも知れないけれど」
「んー、そうなんですか?なんか普通の人の価値観とは違うような気がするんですよね。冷めてるっていうか」
それはいい意味なのか悪い意味なのか。たぶん悪い意味に限りなく近い悪意のない意味なのだろうな。子供は純粋だが、それを他人からしたらコンプレックスに思っているかどうかの判断は出来ない。例えるなら無職の親戚のおじさんに「どうしていつも家にいるの?」と尋ねるようなもんだ。聞いてもいいことと、人を傷つけることは関係していない。
そう。オレはソレを気にしていた。普通に生きられない自分が嫌いだった。
しなくてもいい苦労と、するはずだった喜びを得ることが出来ないこのショートし終わったこの思考回路が嫌いだった。
「あ、もちろんいい意味でですよ」
と藤井がフォローを挟む。もしかして顔に出てしまっていたのか。気をつけよう。
「なんかさ、バカらしく思うんだよね。誰かと同じことをして同じようにして笑って仲良くしている自分が。もちろんそれが人生を楽しく生きるための方法の一つだってことは分かっているよ。でもミーハーな人を見ていると自分を持っていないような気がしてさ。それはオレが他人を理解しようとしないからそう見えるだけなんだけどね」
「……今もそう思いますか?今私とこうして遊んでいることもバカらしく思いますか?」
「今は思わないよ」
「よかったぁ」
安心したように微笑みをくれた。それはいつも藤井がくれる笑顔とは違っていて、少し悲しさが混じっているように見えた。
オレたちは店を出た。生を5杯飲み干した藤井は千鳥足になっていた。
「おいおい、大丈夫かよ」
「大丈―夫ですよぉ、今日はついつい飲み過ぎちゃいましたぁ」
仕方がないから肩を貸す。隣で呻く藤井とは身長差があるので少し猫背気味で歩く。
「家って職場の近くですよね?私もその近くなので近くまででいいので送ってくれませんか?」
「初めから送るつもりだよ」
「それはそれで少し寂しいです……」
酔っ払った若い女の子に甘えたような上目使いを至近距離でされて落ちない男がいるのだろうか、いやいない。
それでもここで自分のものにしてしまう勇気もなければ、一夜限りの関係にしてしまう楽観的な感性もなかった。
つまりこういうあと一歩踏み出せば、なにか変わるというのに。この曇天続きの人生に天使の梯子が差してくれるというのに。
結局オレは怖いだけなのだ。変わりたいと思う反面、このままの生活で安心しているのだ。
自分の人生に楽しみなんてない、と言って人と関わって傷つくことから逃げているだけ。
それを恐れないみんなと、それが楽しいと分かっていて素直に向かうことが出来るみんなと歳を重ねる毎にどんどん差がついて、今じゃまともに人付き合いなんか出来やしない。
タクシーに乗り込んだ。行き先を運転手に伝えようやく一息つく。隣で藤井がオレの肩に持たれて静かな寝息を立てている。職場の近くまでついても起きる気配はない。気持ちよさそうに寝ている姿はこっちまでつられてしまう。
「おーい、もうすぐ家つくぞ」
体を揺すって起こそうとするが、小さく寝言を返されてそのまま寝てしまう。運転手も苦笑いをくれる。仕方がないので行き先を伝える。自分のボロアパートだ。
無理やり藤井の腕を肩に回し引きずるように階段を上がりなんとか部屋まで入れることが出来た。自分のベッドに藤井を寝かせ布団をかける。自分も一休みするために腰を落とす。
気づけば寝てしまっていた。硬い床で眠ったせいで腕の血流が少し悪い。ゆっくり起き上がると藤井がベッドの上に座っていた。
「おはようございます。ここは……?」
「ごめん、家が分からなかったからオレんち連れてきた。なんにもしてない」
「もう、そんなこと分かってますよぉ」
いつもの元気な笑顔をくれた。それを見てずっと肩に入っていた力が抜けた。つられて笑う。
髪の毛のゴムを外した藤井の姿を見るのはこの時が初めてで、下ろした髪はそのままベッドで寝たせいで寝癖がついていてボサボサで、それなのに今までで一番可愛く想えた。
「あ…、あんまり見ないでください」
藤井が手に持っている布団で顔を隠す。オレも慌てて目をそらす。思わず「ごめん」と口からこぼれた。
数秒の静寂が流れ、どちらかがということもなく口を開く。
「あんまり男と二人で呑むときは飲みすぎないほうがいいぞ」
「はい……、いつもはこんなに呑まないんですけどね。なぜか昨日はあんなに……、気をつけます。私なにか変なこと言ってなかったですよね」
「オレが知っている限りじゃないよ」
藤井が胸をなでおろし大きく息をついた。
「でも岡部さんでよかったです。もしも何かあったら……」
「あってからじゃ遅いからなぁ」
「はい……、その……私、ないので。そういうの」
突然のカミングアウトにオレは咳込んだ。なぜそんなことを急にぶっこんでくるのだ。最近の若い子はみんなこうなのか。
オレが少し引いたのに気付いて、慌てて藤井は弁解をする。
「あ…、ちがっ、なんていうかそのっ、私は言いたいのはですねっ。経験はないことを伝えたいわけじゃなくて。岡部さんがそういう人じゃなくてよかったって言いたいんです。何も分からないまま終わる可能性だってあったわけですし……。ありがとうって伝えたいんです。本当に…、ありがとうございました……」
心の底から昨日の自分を褒めてあげたい。お前はよく頑張った。ビビリで根性なしの臆病者だなんて思ってごめん。お前は一人の女の子の人生の重要な局面を守ってあげた男だ。誇りに思うよ、……と。
藤井が言うには今まで二人と付き合ったことがあるが、そういうのが怖くて拒み続けていたらみんな別れを告げてくるらしい。当然っちゃ当然か。それを拒まれれば愛情の有無でさえ疑ってしまうのは無理のない話。ましてや男子学生諸君には少々酷な話だ。
「岡部さんはそういう人じゃないって思ってましたから」
カーテンから漏れる朝日に照らされて、藤井が微笑みをくれる。
それはいつも藤井がくれる笑顔とは違っていて、今までで一番力の抜けた柔らかい表情だった。