午前二時に会いましょう
木々に隠された空が、段々と姿を現していく。
二十段程の階段を登りきると、一気に視界が開けた。
「わぁ……」
丘の頂上に着くと、街並みを一望出来た。私たちが住んでいた小さな世界が広がっていた。ここで、私たちは毎日生きて生活をしていたのだ。
空が赤紫に染まっていく。あの山の向こう側まで、太陽が来ている。雲は鮮やかに塗られて、普段とは違う印象を受けた。
「綺麗な景色ですね……」
「一番お気に入り場所なんだ……。約束したろ? ……また一緒にどこかへ行こうって」
「……うん」
「遊園地とかの方がよかったか……?」
「ううん……私もここがいい。最後に二人で来られたのがここでよかった」
もうすぐ夜が明ける。
それは私たちの終わりを示していた。
午前二時に会いましょう。
私たちだけの秘密の約束は、今日でもう終わり。生きている者だけが、明日を迎えられるから。
「私……もうすぐいなくなります」
「……」
無言のままの、握った手が返事をくれる。
「今なら、全てを受け入れられるような気がします。悲しかったことも、嬉しかったことも、ちゃんと正しい感情で、私の中で生きているから」
もう、早く死にたいからって、辛い経験を喜んだり、嬉しい経験を嘆いたりしないよ。全部正しく受けとめるよ。
それが今なら、許されるから。
「岡部さん……」
岡部さんの表情を伺う。泣いていた。
岡部さんは音も立てずに、ただ涙を流して、こちらを向いて微笑んでくれた。
「ありがとう……。大好きです」
そんな岡部さんを抱きしめた。岡部さんの腕も、私の背中に回った。お互いの輪郭をなぞるようにして、存在を確かめる。今、ここに確かに存在している。
愛しい命。
胸の中で、私も泣いた。胸の中ならこの泣き顔を見られることもない。
*
私の体が薄くなっていく。
日の光が透き通っていく。
死ぬのって嫌だな。
でも、怖くないよ。
私は岡部さんのポケットから煙草の箱とライターを、スッと抜き取った。
「えへへ、私たちの最後だから、最初と同じようにしようよ」
しかし、箱の中身はラスト一本しか残っていなかった。
「吸っていいよ」
「ううん、いい。岡部さんの吸ってるとこ見たいから」
じゃあ、と岡部さんは最後の一本に火を灯す。先端が赤く黒く光る。苦い香りがする。煙が空に伸びていく。
二人で黙ってそれを見つめた。
岡部さんはもう片方のポケットから、携帯灰皿を取り出した。
「喫煙はマナーが大事だからな」
「真似しないで下さいよ……」
二回、煙を吸って吐いた。もう太陽が出てきそうだ。
「それ残りの半分下さい」
「えっ? 俺普通に吸っちゃってるけど」
「いいんです」
むしろ、それが欲しいんです。とは声には出さなかった。
半分に減った煙草を火傷しないように受け取る。
懐かしい味。よく吸っていた。
その中にまた別の味。
「……岡部さんの味がします」
顔が熱い。岡部さんの方を見れない。
キスがしたいなんて言えなかった。恥ずかしかった。
そんなことは、死んでも言えなかった。
もう音のならない心臓を落ち着かせるために、大きく吸って吐いた。だって岡部さんにはもう妻子がいる。叶わないことを願うのは悲しいから。
携帯灰皿を受け取って、その中に火が消えた煙草を捨てた。風が吹いて、髪が揺れる。
さぁ、もうさようならしようね。
「俺も好きだよ。寺田のことが好きだよ」
「……奥さんいるじゃん」
「……それでも好きだよ」
「バカじゃないの? 最低……」
「あぁ、オレは最低な男だよ。だから、全部悪いのはオレだ」
そう言うと、優しくキスをしてくれた。本当は私が悪いのに、岡部さんはそう言ってキスをしてくれた。
私の心なんて、全て見透かしたようにキスをしてくれた。
舌を絡ませることもない。ただの唇と唇が軽く触れ合うだけの、子供のようなキス。
好きだよ、という言葉は嘘でもよかった。岡部さんの本心は分からないけれど、遊びでキスをするような人じゃないことぐらい分かっていた。
だからこれはきっと、私の最期のわがままを叶えるために……。
「二回目ですね……」
「……あのとき起きてたのか」
「はい……」
「……勝手にして悪かったな」
「いいんですよ……嬉しかったですから」
「そっか」
「……ごめんなさい。あそこのベンチに座りませんか」
私の体はもう限界だった。自立することも出来なくなりそうだった。もう向こう側は朝になっている。
二人で並んで座った。私は岡部さんにもたれかかった。
「私のこと……羨ましいですか?」
「いいや、もうそんなこと思わなくなったよ」
「そうですか……。よかった。それなら安心です。あの……岡部さん?」
「どうした?」
「まだ、私の隣にいますよね? ごめんなさい。もう目が見えていません……。辛うじて耳は……聞こえています」
真っ暗な世界で、少しだけ呼吸が詰まったことを感じた。
「いるよ。ずっといるから、大丈夫」
「また……いつか会いましょう。こっちの世界ではもう会えないと思いますが……、今度また会えたとき……岡部さんが……幸せだと思えた話を……たくさん教えて下さいね……」
「……ん……うん……」
「そんな約束を……しても……いい?」
「……ん……くそく……よう」
よく聞こえてなかったから、約束したことにしよう。
私は出来る限りの笑顔で応えた。
「そうしたら……それを……たのしみに……まってますから……。わたしも……むこうで……たのしいこと……たくさん……みつけて……おきますね……」
「…………」
あぁ……。もう耳も聞こえない。
一回目に死んだときに感覚が似ている気がした。
岡部さんって最期にもう一度だけ……呼びたいな。
今度はちゃんと、そばにいてくれてるから。
「岡部さん……あの……ね……。あの……ね……。仲良しで……いてくれて……うれしかったよ……。ありがとう……」
ちゃんと聞こえたかな。分からないや。
でも岡部さんならきっと、分かってくれたよね……。
「…………さよなら」
たぶん、私は笑っていたと思う。




