守る為に
丁度家の門を潜ろうとしたとき、裏側からガラスの割れる音がした。めくるように剥かれたその音が、私は心底怖かった。殺意に満ちた行動から生まれた音だった。
すぐそこにいる。前田がいる。たぶん、私を刺した包丁を持ってすぐそばにいる。私は今にも飛び出そうとしている岡部さんの腕を静かに掴んだ。
「私は死なないから……。先に私がいくね」
それを聞いた岡部さんが何か言いたげだったので、上に向けた人差し指を自分の顔の前にもってくる。そのときたぶん私は微笑んだのだと思う。誰かのために何かを出来ることが嬉しかったから。岡部さんは先に行こうとする私を止めたが、それを振りほどいて飛び出した。
――だがしかし、すでにそこには前田の姿はなかった。
私は急いで割られた窓の前まで回った。器用に内側の鍵を回せる部分だけガラスが割られていて、窓は全開になっている。その開かれた窓の向こうに静かに動く人影があった。
待て! 止まれ!
と言いたかったのに言葉が詰まった。夢の中で体の動かし方を忘れたときのような感覚だ。前田と同じようにこの窓から入り追いついて止めなければならない。私が先に行かないと、岡部さんが刺されて死んでしまうかもしれない。そうなってしまってはもう誰も前田を止められなくなってしまうかもしれない。
私は守りたかった。この家族を。岡部さんが大切にしているものを、私も大切にしたかった。でも怖かった。体が動かなくなるくらいの恐怖。情けない私を岡部さんが追い抜いていった。
「うおおおおおおおおおお!」
岡部さんは自分を奮い立たせるように聞いたこともないような荒っぽい声を上げた。流石にこの声で私たちの存在に気付いた前田は振り返り、手にぶら下げていた袋から包丁を取り出す。私たちが入った窓からすぐそばがキッチンだったので、岡部さんも負けじと包丁を手にとった。
お互い見つめ合ってジリジリと間合いをはかる。野生動物の争いのように神経を研ぎ澄ませ、隙あらば今にも飛びかかりそうだった。
この展開はあまりよくない気がした。私は刺されても死なないが、岡部さんは刺されたら死んでしまう。たぶん、一度でも刺されると命に関わる。刺された刃が臓器を傷めてしまうと取り返しがつかなくなる。
どちらかが床を踏み抜こんだ音が響いた。それに応えるようにもう片側も踏み込む。私がチラッと捉えることが出来たことは、両者とも刃物を真っ直ぐ相手に向けて懐に飛び込んでいく光景だった。
「ダメッッ」
……よかった。最後の最後でちゃんと動けた。……今度はちゃんと、守れた。
気付けば私は二人の間に立っていた。
冷たい衝撃が、私の体を貫いた。私は痛みの根元を掴み、今度こそ離さないようにする。前田の包丁をこの手で掴んだ。
「離しやがれ!しつこいんだよ」
前田は興奮して大声を張り上げた。私が掴んだ包丁をすぐには奪い返せないと本能的に判断すると、手に持っていたビニール袋からもう一本包丁を取り出し、無防備な私の背中を縦に切り裂いた。パックリと肉が割れて血が流れ出た。
さっき道端で刺されたときは、数秒後に痛みが発生した。たった一箇所であの痛みだ。今回の痛みがどれくらいのものか、想像をすることは容易かった。私は肘で顔面を殴られてその場に倒れ込んだ。
「やめろ!」
岡部さんが前田を止めようとしたそのとき、二階へ続く階段の明かりが灯った。
「清十郎さん? 誰かお友達が来てるの?」
寝ぼけた声が階段の上から聞こえた。岡部さんの奥さんだ。寝起きの甘い声は状況を把握していないようだった。
「ば……ばかっ、隠れてろっ」
「あぁ、そうだった。こんなどうでもいい女を殺している場合じゃなかった」
前田は思い出したように、薄気味悪い笑みを浮かべる。
「オレの金蔓を横取りしていった罰だ。お前の女も奪ってやる」
前田は岡部さんの奥さんに向かって一直線に走り出した。岡部さんもその姿を追う。行かせない。絶対に行かせるものか。私は執念で前田の足を掴んだ。
「岡部さん! 奥さんのところへ行って! 早く!」
「ちっ、うっぜぇな。まだ死なねぇのかよお前」
「寺田……ッ」
「大丈夫。この体だったら死なないし痛みも感じないから。早く」
私は岡部さんの背中を押すために小さく微笑んだ。この体が痛みを感じないというのはもちろん嘘だ。正確には半分が嘘だ。そうしないと岡部さんは奥さんを優先してくれないから。今すぐには痛みを感じない。でももう少し後で心に痛みが襲うだろう。今のところまだ最初の痛みは起きていない。
「……すまん。すぐに戻る」
岡部さんは前田の手が届かない範囲で迂回して、奥さんの元へと走った。階段を一気に駆け上がり、奥さんと寝ている子供を抱えて二階から降りてきた。奥さんは一階に刃物を持った男がいることを知り、「ヒッ」と悲鳴をもらした。奥さんから私の姿は見えていないはずなので、何故か動かない男の様子は不可解なもので相当怖かったはずだ。
前田は岡部さん一家を逃がすまいと暴れて私の顔面を蹴飛ばしたり、背中を切りつけたりしたが私は死んでも離さなかった。前田の片足首を両腕でがっちり巻き込んで、絶対に離れないようにした。家族を外に逃がそうとしている岡部さんの背中に私は声をかける。
「そのまま安全なところまで行って! 岡部さんも帰ってきちゃダメだよ!」
「お前を置いて逃げられるわけねーだろ!」
「そうだ岡部! 絶対戻ってこい! オレが今日殺してやるからよぉ」
あぁ、そうか。私は今日ここでこの男を殺さないといけない。岡部さんたちがどこへ逃げようともコイツは地の果てまで追いかけて三人を殺すだろう。幽霊の私が殺すしかない。そうしないと守れない。
「すぐに戻ってくる! 待っててくれ!」
玄関からバタバタと慌てた音をたてて三人が飛び出した。その音は深夜の住宅街によく響いて、三人が無事遠ざかっていくことが分かった。
岡部さんの選択が正しかったかなんて誰にも分からない。ただ大切な人を守るために必死だったから。誰にもそれを批判出来る権利などないのだ。
「すぐ戻ってくるってよ。よかったなぁ」
憎たらしい口調でそう言った前田は、私の背中に包丁を深く突き刺した。
「絶対に戻ってくるらしいから、それまでお前の体で遊んでやる」
モグラ叩きの様に何度も何度も私の背中を攻撃する。
「血は出てるし刺した感触もある。でも死なないってどういうことだ?」
殆ど手癖のように私の体に切り傷と刺し傷を増やし続けていく。その度に私の体からは鮮明な血が滲み出した。もうこの気持ちの悪い体感にも慣れてきた。温度を感じられなくてよかった。温かい自分の血が冷たくなっていくことを肌で感じたら気が狂いそうな気がしたから。




