好きだ
午前二時前。コンビニ前。
岡部さんの姿はまだない。一秒一秒が果てしなく長く感じた。人生で一番長い三分間。時計と誰もいない静かな道路を行ったり来たりした。
岡部さんにどう話したら信じてもらえるのだろう。三年前に勝手に死んでしまった私が、突然現れてこんなことを話して信じてもらえるのだろうか。もしかしたら死んでしまったことすら知らず、私が勝手に姿をくらましたことになっているのではないだろうか。状況が何も分からないので、何を話したらいいのか分からない。そもそも完全に思い出していないのに、何を話せばいいのだろうか。
たくさんの「もしも」が私の頭の中を飛び交った。考えても分からないことだらけなのに、考えたかった。嫌われたくなかった。悲しませたくなかった。これ以上、私のせいで辛い思いをさせたくなかった。だから精一杯考えた。結局正しい答えは出てこなかったけれど、彼のことが大切だったから。
午前二時ジャスト。私は段々落ち着きがなくなっていく。岡部さんの姿はまだ見えない。コンビニの周りを探してみたがまだ見えない。焦りだけが意味なく私を動かした。
午前二時二分。岡部さんはまだ来ない。頭がおかしくなりそうだった。泣き出しそうな程不安になっていく。私一人でも岡部さんの自宅に向かった方が良いのかも知れないが、正直に言うとまた刺されるのが怖かった。その恐怖が、私の選択肢を狭めさせる。
胸でも心臓でもなく、心が刺されてからずっと痛い。絶望で染まっていくようだった。体に傷がつく代わりに心が傷ついているのだとしたらなんて不便な体なのだろう。あと一回でもこの状態から刺されたら確実に自我を失って発狂してしまう。
二時になるまでは果てしなく遅く感じた秒針の動きが、二時を回った途端に全力で進んでいく。もうすぐ二時三分になるところで、私のボヤけた記憶に稲妻が走った。
――――三丁目にはもう一つコンビニがある。ここからは見えないけれど、角を曲がったところに別のコンビニがある。
自分の間抜けさに心底呆れた。しかし残念なオツムに悲観している余裕もないので、私はそのコンビニに向かって全速力で走った。
向かってくる風は私の髪をといた。そういえば、早く走るには地面を蹴るのではなく太ももを上げるのだと何かの漫画で読んだ。そんなどうでもいいことを思い出していた。
*
コンビニの光が見えた。店の前に男性の影が一人分見えた。その男は煙草を吸いながら真っ赤にデザインされた缶コーヒーを飲んでいる。何をのんびりしているんだか。自分の家族が殺されそうなのに、こんなところで悠長にしている場合ではない。
私は彼の手を握って、気付けば走り出していた。
岡部さんが何か言っていたような気がするけど、風の音のせいにして聞こえないふりをした。きっと今ここで彼の言葉を聞いてしまったら、私は泣いてしまうと分かっていたから。
岡部さんの手は随分と大きかった。こんな手の形をしていたんだ。きっととっても優しくて温かいんだろうなぁ。男の人と手を繋いだことが初めてだったから、すごく緊張する。手汗をかいていたらどうしよう。私の知らないところで嫌われてしまったらどうしよう。でもきっと嫌わないよね……。嫌ってくれって頼んでもきっと嫌ってくれないから。岡部さんはそういう人だから……。
私の記憶は手を繋いだ瞬間に全部戻った。
岡部さんだ。あぁ、うん。ずっと会いたかったよ。岡部さん。ごめんね。約束してくれたのにね……。私が勝手にいなくなっちゃったから。約束破っちゃった。
私は後ろを振り返らないまま、岡部さんの手を引いて走り続けた。真っ直ぐ前を見て誰もいない夜道を走り抜ける。世界中に二人だけみたいだった。このまま岡部さんの家も通り過ぎて、朝から逃げ続けたらダメかな。ダメだよね。
今自分がどんな表情を浮かべているのか分からなかった。だから振り返れなかった。本当はちゃんと挨拶して冷静に状況を説明するべきだって分かっていた。でも岡部さんの姿を見たとき、伝えようと思っていた言葉が全部飛んじゃって頭が真っ白になってしまったんだ。
もう心臓は動いていないのに、なんでこんなにドキドキしてるんだろう。
きっと、この胸からなっているドキドキは心臓ではなくて心の声なんだ。苦しくて今にも張り裂けそうなのに、どうしようもないくらい怖くて逃げ出したいのに。心は私にしか届かない声で主張する。
……好きだ。
だから振り返れなかった。もう伝えることが出来ない気持ちが伝わってしまうことが怖かった。人を好きになったことなんかなかったから、こんな緊急事態なのに動揺してしまう。こんなことを考えている場合じゃないのに。
「岡部さん……」
名前を呼ぶと泣きそうになってしまう。
「岡部さん……、あの……」
後ろを振り返らないまま、私は走り続けた。
「私です……、覚えていますか……? 寺田かりんです」
鈴の音くらいのか細い声しか出せなかった。
「忘れるわけねーだろ」
「……はい」
「ずっとあそこで待ってたんだ」
「……え」
「お前が亡くなったことは知っていたけど、あそこで待っていたら会える気がしてさ」
「…………」
「……バカだろう?」
「ううん、そんなことないよ」
あぁ……、岡部さんだ。ちゃんと岡部さんだ。私の記憶のままの岡部さんだ。なんか嬉しいな。安心する。
「待っていてくれたの? 毎日あそこで」
「毎日はさすがに無理だ。 行ける日だけな」
岡部さんは笑ってそう言った。……ちょっとだけって言っても私がいなくなってからもう五年が経つ。
「未練がましくて気持ちわるいよな。でも自分の中で整理しきれなくて、こんなことしてしまってる」
「奥さんに怒られないの?」
「あぁ……、アイツも事情は知っているから」
「そっか」
「ところで、なんでオレは手を引っ張られて走っているんだ?」
私は前田の計画のことを全て話した。幸いにも幽体だったから走りながらでも説明が出来た。
「今……、二時六分か」
岡部さんはそう呟く。出来るだけ平然を保とうとしているようだった。岡部さんの自宅がある路地に入ると一台の車とすれ違った。深夜だったのでそのエンジン音は大きく住宅街に響いて、だんだん遠ざかっていった。




