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午前二時に会いましょう  作者: はしもと
第五章 家族の形 人の形
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幸福論




 いつも過ごしていた街に戻ってきた。時間は深夜一時を回っていたので人影は殆ど見えない。煌々(こうこう)と輝く電灯の光が妙に眩しく目に映った。その明かりの下である男と向こう側から歩いてきた。どこか見覚えのある背格好で、顔が見える程の距離に近づいたとき私の体は硬直して動かなくなった。

 男は下を向いて歩きブツブツとつぶやきながら不気味に微笑んでいた。拾いあげる言葉を繋げると、どうにもあまり綺麗な言葉ではないことが分かった。そして何よりも私はこの男を知っていたのだ。一度無くした記憶の中でもすぐに思い出せた記憶。この男の名は前田太一。私を殺した元彼氏。


 

「殺す……。今日……、殺す……」

 前田は嬉しそうにそう笑った。昔から危ない人間だと思っていたが、この三年間でその危なさに拍車がかかったようだ。警察に通報したら確実に補導されるレベルだろう。何より「今日殺す」と呟いている。一度殺人をした人間のいうことだ。私には関係ないことだとしてもほっておくことは出来なかった。これで本当に誰かが死んでしまったら目覚めが悪い。もっとも私に次の日の朝を迎えられる保証などどこにもないのだが。

「オレの金蔓かねづるを奪いやがって……、絶対に殺す……」

 

 横からしっかりと顔を覗き込む。目が血走っていて息も荒い。興奮しているのが一目瞭然だ。前田はコンビニ袋を手にぶら下げていた。その中を覗き込むと包丁らしきものが見えた。一部しか見えなかったが、十中八九刃物の類だということは間違いなかった。



「なに見てんだコラァ!!」

「………ッ!?」

 前田は突然大声を張り上げた。私は驚き思わず三歩分距離をとる。周りを見渡しても誰もいなかった。前田の予期せぬ行動に私の心臓は跳ね上がり、呼吸を整えるので精一杯だった。焦って焦点の定まらない視界の中に、前田の顔を捉えた。前田は真っ直ぐにこっちを見ていた。

……やばい……やばい。

頭の中で警告音が鳴り止まぬ中、出来るだけ負荷が少なく簡単な単語で状況の整理と身体への指示を出す。



 まずい。見えてる? 殺される。逃げろ。早く。離れろ。やばい。見えてる? 見えてる。走れ。動け。動け。足。呼吸。見るな。刺激しないように。やばい。逃げろ。動け。



 生まれたての小鹿のように、私の足はガクガクと震えた。脳からの指示を全てシャットダウンし、現状を維持することだけにリソースを割いている。つまり、私は今ビビって動けないのだ。

「さっきから人のことジロジロジロジロ見やがってよぉ! まずはお前から殺してやるよ。三人殺すのも四人殺すのも変わらねぇ。昔お前にそっくりの女を殺してやったんだ。あれは快感だったなぁ。死ぬ前に泣き出しやがって。小さい声で死にたくないってボソボソ呟きやがるから思いっきり絞め殺してやったんだ。お前は今から刺殺してやる」


 気が狂ったようにいきなり饒舌になった前田は、コンビニの袋から刃物を取り出した。家庭用サイズの包丁だ。息を荒くして一歩一歩確実に私に近づいてくる。前田は幸せそうな表情をしていた。こんなに幸せそうな顔を付き合っているときは見たことがなかった。



 私もつられて息が荒くなる。涙が溢れて視界がぼやける。包丁の先端をこちらに向けながら近づく。私の体はどうしても動かなかった。また私は同じ男に殺されてしまうのだ。この体で死ぬかどうかは別として、殺される行為をされてしまうのだ。なんともいえない敗北感が襲い、屈辱的な思いになった。

「お前が悪いんだ。オレのことをジロジロ見やがった罰だ」

 前田は無茶苦茶な理論を吐き捨て、グッと握り手に力を込めた。そして

「死ねっ!」



 一度大きく腕を引いて、大袈裟な動作で腕をこちらに伸ばした。プロのボクサーでなくとも、普通の高校生でも軽々と避けられそうなくらいの隙だらけの動作だったが、どうしても体が動かなかった。私は諦めて体に力を入れる。無意味な抵抗だった。

 嫌な感触がした。包丁の鋭く尖った先端が刺さり、私の皮膚から肉同士の繋がりを断ち切っていく。冷や汗が溢れて、頭の警告音はマックスに達した。もはや現状を把握出来ないほど私の脳はアドレナイン等の脳内物質が大量分泌された。


気持ちの悪い音が体内に低く響いた。出来ればもう二度と聞きたくないようなそんな音。自分の腹部と確認すると、刃の根元まで深く体の中に入り込んでいた。あぁ、また死んでしまった。痛みは分からなかった。ふと上を見上げると、街路灯に小さな羽虫が二匹群がっていた。


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