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午前二時に会いましょう  作者: はしもと
第四章 五年後の世界で
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再会

 ぽつりぽつりと別れた雲が、夕焼けに照らされ朱く染まる。ちりじりに帰る子供のように、空の雲も同じ影を落とした。今日が終わる。そしてまた明日が来る。

 落日は欠片だけ残してお別れを告げる。背景の色を全て黒に塗りつぶした。赤と黒の世界。

「もうおやすみ」

 遠い昔にそういって母に寝かしつけてもらったように、寛容に。全てを包み込むように。

 影が一番大きくなって、いつの間にか消えていた。




 駅までたどり着いた。

「お姉ちゃんこれ覚えている?」

 智子は自分の頭に飾られている髪留めを見せた。

「これね。お姉ちゃんとおじさ……、岡部さんがくれたんやで。

二人で一つの気持ちやった証。確かにあの日、二人は二人で一つやったんよ。

だからもしこれから岡部さんを見つけてもなんも心配いらへんからな。ウチが保証する。二人は仲良しやったよ」

「ありがとう」


 また会おうね、とは言えなかった。もうこの体が長くもってくれないことは知っていた。もってあと三日? それとも一週間? もしかするとそれよりももっと早いかもしれない。嘘はつきたくない。ずっと待たせるわけにもいかない。智子はこのことを知っているのだろうか。訊くことは話すことと同義だったから、言えなかった。

「お姉ちゃん。最後に握手してもいい?」

「え、うん」

 小さな手が私の手を包み込んだ。体温は分からなかった。

「お姉ちゃんさぁ……。ほんとはもう私の温度も分からないっしょ?」

 ニヒヒ、と悪戯っぽく智子が言う。その気遣いに感謝した。

「でも、ウチはお姉ちゃんの体温が分かる。ちゃんと伝わってる。すごく温かい。

お姉ちゃんはな……、お姉ちゃんが思っているより、人に優しく出来てるんやで」



 智子はそう言い残すと、私の手を解いて改札の中に消えていた。

 その姿が見えなくなってもその光景を、網膜に焼き付けるようにただぼんやりと眺めた。これが最期だった。もう一度だけ会えたから、これが最期になった。

 夜になった世界で、私は一人帰路につく。そういえばもう帰る家はないのだった。がらんどうの隣が滲む。誰かがそばにいてくれる。それだけで私は幸せだった。



 行く宛もないのに足は元自宅に向かう。見慣れた建物をいくつも置き去りにして、不安の中それでも歩いた。命はないのに体は存在していて、その中にご丁寧にも心が作られていた。心臓の音はしない。どういう原理で動いているのか、私の空っぽの頭では解き明かせない。今も少しずつ体の機能は失われていく。どこかは分からないけれど、そんな気はする。一番怖いのは最後に心だけが残ってしまって成仏したくても身動きが取れなくなるパターン。二番目に怖いのは、体は動くのに心が失われてしまうパターン。


 そうしてようやく自分を自分たらしめるものは体でも心でもないのだと気付いた。誰かが私を「寺田かりん」だと認識してくれないと自分は自分でいられなくなるのだろう。




***




 遠くから声がした。それは聞き覚えのある声だった。それは懐かしくて胸を締め付けた。

 遠くからした声は誰かと話しているようだった。穏やかに生まれる言の葉。愛情をたっぷりと注がれて咲く花。そしてそこに笑顔が生まれる。




 あぁ……きっとこの声の主を私は探していたのだろう。理由なんていらなかった。体がその声を欲していた。心がその人を求めた。心は会いたかったとそう言った。




 岡部さんだ………。




 動悸を抑えきれないまま声の主の方向を見た。その光景を見て私は微笑んだ。

岡部さんはベビーカーを押して、隣にいる女性と幸せそうに歩いていた。買い物帰りなのだろうか。大きな袋がぶら下がっている。女性は岡部さんより年下に見えた。髪の毛を後ろでくくっている。顔は可愛らしい。この世の悲しいことも全部受け入れられるような、そんな強くて優しそうな女性。





 岡部さんが笑っている……。それだけでよかった。

 幸せになれたんだね………。よかった。

………私が今更会いにいっても邪魔だね。


 私は気づかれる前にその場を後にした。






***






 岡部さんに会っても成仏出来なかった。私のやり残したこと。本当は記憶の中に一つだけあった。消化しきれていない黒い感情が疼いた。出来ることなら幸せの中で成仏したかった。綺麗なままの私で誰かの心に残っていたかった。でももう時間もないみたいだ。



 母親を殺して、私の人生を壊した父親を殺して成仏することに決めた。

 それで成仏出来なくてもどうでもいいと思った。



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