寺田かりんの話⑤
思考が重く、力がろくに入らない日々。私は工場でも邪魔な存在だった。
一人でいると自然と涙が出る。だが私はそんな自分を慰めようとはしない。まるで自分が二人いるかのように客観的に自分自身を虐め抜いていく。それで私は幸せだった。
そんな毎日を過ごしていると繁華街である男にナンパされた。今の彼氏になる男だ。如何にも頭が悪そうで、何も考えていない印象。話してみるとまさにその通りで、この男は自分の快楽のためなら他人の不幸など全く考えない人間だった。
そんな人間性に惹かれた。本来ならば一番距離を置きたい人種。だからこそ自分自身を汚していくには丁度良い存在であった。案の定というべきか、この男と過ごしていると私は自分の価値が失われていくことを実感していく。
初めてをたくさんあげてしまった。何も得ることはなく、しかしなにか大切なものが消えていくことだけは分かった。
何を奪われたのかは分からない。
***
「オレ人が苦しむ姿を見ると興奮するんだわ」
まるで自らが神に選ばれた特別な人間であるように男は自分の残虐性を雄弁に語る。それくらいしか誇れるものがないのだろう。私の体にも無数の傷跡が残っている。もしかするとこの中に一生消えないものもあるのかもしれない。
「お前さ、働いているから金あるよな?金貸してくれよ。増やしてから返すからさ」
借金の返済日が近づいているらしい。数々の暴力を受け入れてきた私でもその提案には乗れなかった。私は苦しみながら細く長く生き残るのではなく、日常の中で楽に死にたかったのだ。生きていくにはお金がいる。生きている間はそれなりの生活はしたい。少なくとも明日の食事の心配はしなくて済む生活をしたい。
「ごめん……お金は……」
全てを言い終わる前に脳天に鋭い激痛が走った。状況の理解が出来ず私は驚き声をあげただろう。気付けば私はその場に倒れ込んでいた。状況を確認するために私は頭に手をやる。ぬるっとした温かいものが掌についた。自分の血だ。辛うじて男の姿を視認すると、片手に割れたビール瓶を持っている。破片が私の周りに飛び散っていることに気付いた。そしてようやく理解した。私はビール瓶で脳天を殴打されたのだ。
「なに? お前反抗するのかよ」
胸ぐらを掴まれ、無理やり起こされる。割れたビール瓶をもう一度振りかぶる。
「しない……よ……」
咄嗟に出た言葉のおかげで私は追撃を受けずにすんだ。
「だよな、愛しているぜ」
機嫌がよくなったのか、鼻歌交じりに私の財布から札だけを抜き取る。そしてそのあとキスをされた。仲直りの証なのだろうか。
私はこの男のキス一つで、脳天をビール瓶で割られたことを許すような人間という評価なのだろうか。
男が金を後ろポケットにねじ込み、何も言わずに玄関から出ていく後ろ姿はどこか父親に似ていた。
お金をむしり取られるしか存在意味のない自分。
この男の欲求を満たすためだけに存在している自分。
元々おかしい人間だと自覚はあったが、いよいよ手遅れになっているのだと気が付く。
私はもうダメなのだと思った。
しかしこの状態でも私はまだ死ぬ勇気がなかった。
呻き声に似た声を殺して私は瓶の破片が散乱した部屋で泣いた。何をこんな世界に期待して生き残ってしまっているのか。もう何も楽しいことなんてないのに。もう生きている意味なんてどこにもないのに。こんな薄っぺらな人生なんて誰もいらないのに。
「お母さん……私もういいよね……そっちにいっても怒らない……?」
私が自殺すれば、この世でたった一人、私を抱きしめてくれた母が悲しむ。
「まだ……怖いよ……死ぬのは怖いよぉ……。
なんで死んじゃったの……お母さん……一人にしないでよ……どうして一緒に死のうって言ってくれなかったの……」
この世でただ一人、私が愛していた人が悲しむ。
「もう一人はいやだよぉ……みんな怖い人ばかりだよぉ……」
この世に私を愛してくれる人はもういない。悲しむ人ももういない。
「私だって……みんなみたいに普通に生きたかったなぁ……。
お母さんと一緒にさぁ……買い物に行ったりさぁ……ご飯食べたりさぁ……。
ちょっとだけ甘えたりさぁ……。
へへ……なんで今更こんなこと……誰にも聞こえないのにね」
誰にも聞こえない。本当の私は誰にもバレない。弱い私を知られることはない。だから言えた。知られてしまったら私は強いままではいられなくなるから。
「お母さんと……もっと一緒にいたかったよぉ……。もっと話したかったよぉ……。もっと名前を呼んでほしかったよぉ……。ごめんね……。
ほんとはもっとね………遊んでほしかった…………」
流れる涙をとめることなく、私は子供のように笑う。倒れたままの姿で子供のような願いを言う。ワガママを言っても誰も困らない。頭を強く打ったせいだ。だから今だけはおかしくなってもいいのだ。
もういない母親に縋ってもいいのだ。
もういない大好きな母に甘えても今だけは許された。




