the past story-1:雨の日の出来事
雪花先輩に初めて会ったのは、梅雨真っ直中のこのバス停だった。
僕、高橋 砂智は、まだ初々しさが残るぶかぶかの制服の裾を捲り、バス停で雨宿りをしていた。
(梅雨って言っても、こんなに降ることないじゃん)
空は夜のように暗く、地面は雨に激しく打たれ、でこぼこのぐちゃぐちゃだった。
梅雨だってことは十分に知っていたけど、午前中はからっからっに晴れていた。折り畳み傘なんていう洒落たものは用意していないし、第一、僕の鞄にはいつも弁当とケータイしか入っていない。
僕は小屋からそっと顔を出して空を見上げた。当然止みそうにない。長い溜め息を吐いてベンチにもたれかかるように座った。
(……あぁ、退屈だ)
今の状況が、と言うことじゃない。今も確かに退屈だが、僕は毎日が退屈だった。毎日、学校と家の行き来の繰り返し。この誰かに決められたような、毎日のサイクルが退屈で退屈で仕方がなかった。
かと言って、自らこの退屈な循環を壊す……なんて出来るわけがない。僕はまだまだ子供で、出来ることより出来ないことのほうが遥かに多い。
そうやって理由をこじつけて、結局何もしない自分にも退屈する。
(誰か……誰かが手を引いてくれたら)
最後は他人任せだ。僕は一つ咳払いをして目を閉じた。
(だから雨は嫌いなんだ)
雨の日になるといつもこうだ。他にすることがないので、日頃考えない、答えのない問題を一人でぐるぐると考えてしまう。
目を閉じていると雨音の他に水を跳ねる足音が聞こえた。それはこちらの方に向かっているみたいだ。僕はそっと目を開けた。
「あ、先約がいたんだ」
長い茶色の髪の毛の先から雨を零して立っていたのは、同じ高校の生徒だった。校則を無視した短いスカートに、ブラウスの左胸のポケットに黄色のラインがあった。
(――三年だ)
僕はベンチの端に寄って席を開けた。
僕の高校ではブラウスの胸ポケットのラインの色と上履きの色で、学年が分けられている。今年の黄色は三年、赤が二年で、緑が一年だ。
ずぶ濡れの先輩はにっこりと笑って「ありがと」とベンチに座った。僕は緊張のあまり何も言えず顔を伏せた。
どうして二年しか違わないのに、三年生はこうも大人で緊張する存在なんだろう。僕は早く帰りたくて仕方がなかった。雨が止むのを待たずに帰ろうかと思ったが、雨は激しさを増して、ついには雷までやってきた。
「キミは一年生?」
突然、話しかけられて僕は、頭が取れてしまうんじゃないかってぐらい、首を縦に大きく振った。それを見た先輩は大きな声で笑うと、
「そんなに緊張しないでよ。あたし、悪い先輩じゃないから」
と、僕の肩を叩いた。人懐っこい笑顔だった。それにつられて僕の頬が緩んだ。
「すごい雨だね」
先輩は濡れた髪を小さなタオルで拭きながら空を見た。ただ髪を拭いているだけなのに、何だかその仕草が妙に色っぽく見えて、僕は慌てて先輩から視線を外した。
僕は何とも言えない高揚感で胸が鳴った。今まで異性とこんなに近くまで接近したことはないし、そんな僕だから彼女なんかいたことがない。
僕はもう一度、盗み見るように先輩を見た。何だか先輩を直視することが出来ない。
先輩は長い髪を一つにまとめていた。うなじを流れている雨をタオルで拭き取っている。
先輩は本当にずぶ濡れで、雨が一番激しく降っていた時期に外にいたことが分かる。
ぽたりと前髪から雨の滴がブラウスの胸元に零れ落ちた。そのブラウスからは水色の可愛らしいフリルが透けて見えた。そこまで目をやってはっとした。先輩と目が合ってしまったのだ。
「あ、あの、えっと、すみませんっ!」
顔を真っ赤にしてしどろもどろの僕は背中を先輩に向けた。恥ずかしくて恥ずかしくて死にそうだ。
「キミは今、彼女いる?」
先輩は不機嫌な様子もなく、さっきと変わらない声色で僕に聞いた。
「か、彼女なんて、いない、です」
耳まで赤く染めた僕を、先輩は「可愛い」と僕の耳元で囁いた。その声がひどく妖しく聞こえて僕の体がびくっと跳ねた。
「あの、僕、か……帰ります!」
その場から……先輩から逃げ出したくて僕は、雨の勢いが和らいだのを見計らってバス停から飛び出した。一度も振り向きもしないで僕は走った。
あのまま、あの場所に居たら、僕は。
さっきから僕の耳に先輩の小さな――それでいて、体の奥底が熱くなる声が離れない。
もう、あのバス停は見えなくなっているのに。
先輩の姿は見えないのに。――僕の体から先輩が離れない。離れられない。