想い出に抱かれながら
今朝、あの人を見た。
もう何年になるのかも、すぐには思い出せない。
ただ、あの人がこちらに気付くこともなく通り過ぎていくのを、ぼんやりと眺めるだけだった。まだこの街に暮らしていたんだとか考えながら。足を止めることもしない。
もう胸が疼いたりはしない。今日の仕事だっていつものようにこなすことができた。
……なのに仕事が終わりこうして家に帰ると、こうも気になるのはどうしてだろう?
手にしている小説のページは三十分前から変わらない。読もうとしているのに、気がつくと何度も同じ行を辿っていて、文庫本に並ぶ文字の羅列はもはや迷いの森と化してしまった。
諦めて文庫本を机に置き、椅子の背にもたれて高くもない天井を仰ぎ見る。そこには何もない。手を伸ばしたって何も手にすることはできない。そんなことはもう嫌というほどわかっている。
昔は違った。手を伸ばせば何にだって手が届くって無邪気に信じていた。今は届かなくても、大きくなったらきっと手にすることができるんだって。
あの人はあの頃、いつだって手の届くところにいた。けれども、いつしかあの人は手の届かないところに行ってしまった。そうなる前に気付くことができなかった。
……愛していたのは嘘じゃない。
……嫌いになったわけじゃない。
あのとき、そんな言葉は無意味だった。大きすぎる事実を前に理由はその価値を失っていたのだ。
でも今なら受け入れることができるような気がする。あの人に吐いたひどい言葉も、あの人がくれた優しい言葉も、今ならわかるような気がする。
決して許したわけじゃないし、未練が残ってないわけでもない。でもそういう感情もひとまとめにしてすべて受け入れればいいのだ。
終わりなんて考えもしなかったあの頃を後悔なんてするのは、きっと間違ったことなのだ。そんな風にあの人の近くにいられたことは幸せなことだったから。今では素直にそう思える。
電気を消してベッドに潜り込む。
夜は長いようで短い。
それをあの人が教えてくれたのだ。だから今夜はもう寝よう。
ふかふかの布団にくるまれてひと時の幸福感に浸る。
静かに瞳を閉じる。
「おやすみ」
誰に宛てるでもないその言葉が、誰かに届けばいいなと思う。
ここで読了した皆さんに質問!
この主人公の性別は!?
一人称が使われていないのは仕様だったりします
読みにくいなと思った方、ごめんなさい