やきにく一家の野望
赤い御子門を潜るとその古びた寺はある。
夏の境内に散らばる枯れ葉を鳴らして、あなたが一歩足を踏み入れると、後ろで御子門がカタカタと笑い、喋った。
「そなた、やきにく和尚に食われて消えろ」
恐怖は感じなかった。
あなたはやきにく和尚の噂を聞いていたからだ。
しかも噂の出どころが、あなたの信頼する『あのひと』であることが、あなたを心から安心させた。
「ふふっ。会えるのが楽しみですよ、やきにく和尚さん」
あなたは余裕の笑みを浮かべてそう呟くと、奥に見える赤黒い本堂へ向かい、歩いた。
薄墨を撒いたような空の色が、今が昼なのか夜なのか、さっぱりわからなくさせていた。
一歩、一歩──
近づくにつれ、生臭い匂いが漂ってくる。
肉が焼け、脂が煙に乗って飛び散るような、香ばしい臭気があなたの鼻をくすぐる。
彼らの姿が遠くに見えてきた。
赤黒い。焼け爛れた肉の塊にしか見えない頭部をもつ老人が、立派な和服に身を包み、畳の上に膝を崩した格好で座っている。それが三、四人──その奥には、誰もに背中を見せて正座している老人が見えた。
あなたは直感する。
あの、奥にいる老人こそ、やきにく和尚だ。
「こんにちは」
あなたは気さくに声をかける。
「やきにく和尚さまに会いに来ました」
しかし彼らには、あなたの声がまるで聞こえていないようだ。
先ほどからしていたらしい会話を、こちらを振り向きもせずに続ける。
「わしらの野望はどうするんじゃ」
一番手前に座る、体の一番大きい老人が、程よく焼けた肉のような頭部を揺らし、そう言った。
「しかし──、ハラミさんの気持ちを考えれば、だな……。ぶぅ」
「コケにするでない。たかが一人の女のために、悲願成就を諦めるというのか」
彼らが何を話しているのかわからなかったので、あなたは部屋の奥で背中を向けている、やきにく和尚らしき老人に声をかけた。
「あのーっ! 奥にいらっしゃるのは、やきにく和尚さまでしょうかーっ?」
老人は何も答えなかった。
ただ痙攣するように体を震わせていた、こちらに背中を向けたまま。
口からは「うぅ……ううぅ……」と、苦しそうな声が漏れている。
「喝を入れてもらいにやって来たんですけどーっ」
その通り、あなたは最近だらけていた。
部屋の片付けもせず、散らかり放題になっていた。
昼間に忙しく活動し、心身ともに疲れて帰宅し、そこから部屋の片付けなんてできるものか。
休日はなるべくダラダラ過ごしたい。
だから部屋の片付けなどしている暇はない。
そう思いながらも、はるばるこの『邪鬼爾苦寺』へやって来る暇はあったのだ。
大きな声を出したからか、ようやく一番手前の巨大な老人があなたの存在に気づいてくれた。
「そなた……人間か」
「あっ、どうも」
あなたはぺこりと挨拶し、名を名乗る。
「やきにく和尚さまに喝を入れていただきにはるばるやって来たんですけど、可能でしょうか」
「わしは『ばらにく』じゃよ」
巨大な老人は顔のない顔でそう言うと、気さくにみなさんを紹介してくれた。
「そっちの小太りのが『ぶたにく』、あっちの隅でちっちゃくなっておるのが『とりにく』、そして──」
「ううぅっ……! ううぅっ……!」と、奥の老人が嫌がるように背中を震わせた。
「親父! 客人じゃぞ」
ばらにくさんが、やきにく和尚に声をかけてくれる。
「喝を入れていただきに参りました!」
あなたはハキハキと告げる。
「ビシッ! とさせてくださーい」
ずっと背中を向けていたやきにく和尚が、ゆっくりと、それはゆっくりと、こちらを振り向く。
あなたはなぜか激しい緊張に襲われた。
ここが人生最大の分岐点であるような高揚感に、体じゅうが震えだした。
肩から振り向くやきにく和尚の顔が──
見えたかと思ったその時だ。
それは恐ろしいほどの光を放った。
ピカーーーー!!!
あなたは目が眩み、やきにく和尚の顔が見えない。
目が潰れるかと思うほどの光の中、しかし確かに見えた気がした。
『こ……っ、これは!』
あなたは思い出した。
『あの日……、あのひとと向かい合って、笑顔で食べた……、あの……!』
見知らぬ街を二人で旅したのだった。
石畳の上を歩きながら、「あー……。焼肉、食べたいな」と、あなたが言い出したのだった。
あのひとがスマートフォンを取り出し、調べてくれた。
「こっちに炭火焼肉の店があるらしいよ。行ってみよう」
ちいさなお店に見えたが、奥はどこまでも続いているかのようだった。
ちっちゃなテーブルに向かい合って、カタカタ揺れる縁台みたいな椅子に腰かけて、二人で焼肉を食べた。
注文したお肉や野菜を、無愛想なおばさんが次々と小皿に乗せて持ってきてくれた。
お店の奥はお客さんでいっぱいで、だけど白い煙が膜のようになっていて、よくは見えなかった。
あなたたちは入口から少し外に出た席に着いて、どんどん運ばれてくるお肉よりも速く、それを口の中へ消していった。
「おいしいね」
あのひとが言った。
「すごくやわらかい」
あなたが笑った。
ほんとうに、飲めるぐらいにどのお肉もやわらかかった。つるん、つるんと口の中にどんどん消えていく。
そして部位によって味わいがまったく違うのが舌を楽しませてくれた。
こんなに美味しい焼肉は産まれて初めてだとあなたが思っていると──
「まるでやきにく和尚のほっぺたみたいにフワフワだ」
あのひとが言ったのだった。
「何?」
あなたはその時が初耳だった。
「やきにく和尚? ……何?」
「死にかけたことはある?」
あのひとが聞いた。
あなたが答えると、あのひとは遠くを見つめ、懐かしむように話しはじめた。
「人は死にかけるような目に遭った時、いつの間にか暗い山の中に立ってるんだ。雑木林しかないように見える寂しい場所なんだけど、探すとそこには赤い御子門があってね、それを潜ると赤黒い本堂がある。そこに『やきにく一家』が住んでいるんだ」
なんの話だろう? と思いながら、あなたはやわらかカルビをつるんと飲み込む。
「そこはとても恐ろしいような場所で、そこにいる住人たちも人間離れしてて、まるで焼かれたお肉みたいな顔をしてるんだけど、怖がることはないんだ。特にやきにく和尚は、死にかけてる人間に、喝を入れてくれる」
「そこへ行ったことがあるの?」
「うん。自分の体験談だよ」
「喝を入れられると、どうなるの?」
「それは入れられてみないとわからない。人は自分が体験したことしかわからないからね」
「行ってみて、体験してみないとわからないということだね?」
「ただ、ひとつ。注意すべきこととして──」
そこで追憶は途切れた。
あのひとが何を言ったのか、あなたは思い出せない。
圧し潰そうとするような凄まじい光は、やんだ。するとやきにく和尚はまた向こうを向いている。
あなたは愛想よく笑顔を浮かべ直し、お土産に持参していたそれを差し出した。
「最高級焼肉セットを持ってきました。よろしかったら、みなさんで、どうぞ」
空気がざわっと音を立てた。
「貴様……!」
ばらにくさんが歯ぎしりした。
「わしらが肉だと知っての狼藉か!」
ぶたにくさんが激しく首を振り、脂を撒き散らした。
「コケにしおるか!」
とりにくさんがトサカみたいなものを逆立てた。
ばらにくさんが懐からドスを取り出し、抜いた。
あなたは命の危険を感じた。
なぜ、やきにく一家への手土産に高級焼肉セットを持参してしまったのか、自分の不明を恥じ、後悔した。これってミニチュアダックスフンドのブリーダーさんのところへペットショップでお迎えしたミニチュアダックスフンドを連れていくようなものじゃないか──
ばらにくさんの抜いたドスが、あなたの頭上から振り下ろされた。
あなたは『死ぬ』と思った。
そして、あのひとの言葉を思い出した。
『やきにく和尚は、死にかけてる人間に──』
部屋から薄墨色の空へ向けて、爆発音のような声が広がった。
「喝!」
あなたが目を開けると、そこは宇宙空間だった。
あなたは暗い宇宙をプカプカと漂っていた。
地上から見るみたいに星々は瞬いていなかった。ただくっきりと、その不気味な虚無のような存在を輝かせている。
「な……、何が起こったんだ?」
宇宙空間なのに呼吸はできる。
宇宙空間なのにあなたはしっかりと生きていた。
しかし周りに生きているものは何もない。
そして宇宙に焼肉は存在しなかった。
「あぁ……。わかった」
あなたはなんとなく悟る。
「そういうことだったのか……。やきにく和尚に『喝』を入れられるということは……」
「ただいまー」
そう言いながら、あなたが玄関の扉を開けると、誰もいなかった。当たり前だ、あなたは一人暮らしなのだから。
さんざん散らかった部屋を、あなたは片付けはじめる。なんだか知らないけどあなたはやる気に満ちていた。
「よしっ。頑張るぞ」
あなたはパソコンに──あるいはスマートフォンに、あるいはポメラに向かう。そして新たな『やきにく短編料理企画』参加作品の執筆に取りかかった。
思い出すのは、ドスを振り上げたばらにくさんの、その頭に深く突き刺さった、彼のドス。
そこから滴る透明な肉汁だった。
「よし、あのうまそうな肉汁を描こう」
そしてあなたは創作世界へ深く入り込んでいく。
邪鬼爾苦寺から生還したあなたは無敵だった。
なんでも書ける。スラスラ書ける。
しかし、ひとつだけ──
あなたはやきにく和尚と出会い、やきにく和尚を体験したことだけは、何も書くつもりがなかった。当たり前だ。
人は自分の体験にないことは理解ができない。
やきにく和尚のことを書いても、誰も理解できないのなら、書かないのが賢明なのだった。
そしてもちろん、やきにく一家の野望についても──
(完)




