悪女の濡れ衣を着せられた令嬢を、公爵が満座で「俺が選んだ」と庇う話
「君が公爵を誘惑したと聞いた」
婚約者だったグレン子爵が、冷たい目で私を見下ろしていた。
「婚約は破棄だ、リーネ」
宮廷薬師棟の廊下。西日が差し込む中、私は言葉を失った。
誘惑? 誰を?
「クラウス・ヴェルナー公爵だ。オルテンシアから聞いたよ。君が公爵に取り入ろうとして、何度も手紙を送りつけたと」
オルテンシア。
幼馴染で、親友だと思っていた伯爵令嬢。
「……嘘よ」
声が震えた。手紙を送ったのは私じゃない。届いたのだ。半年前から、公爵様の方から。
けれどグレンは聞く耳を持たなかった。
「社交界ではもう噂になっている。子爵令嬢が身の程知らずにも公爵を誘惑した、とね。僕の名誉のためにも、君とは終わりだ」
踵を返すグレンの背中を、私は呆然と見送った。
その夜、私は自室で母の形見を広げていた。
「月下の処方箋」。
亡き母が残した、王家にも献上された鎮静薬の調合法。これを完成させることが、宮廷薬師見習いとしての私の目標だった。
けれど今、この処方箋はオルテンシアに握られている。
三日前のこと。
オルテンシアは私を訪ねてきて、「少しだけ見せて」と言った。親友の頼みだからと、私は処方箋を貸した。
返ってこない。
催促すると、彼女は笑った。
「あら、リーネ。この処方箋、伯爵家で預からせてもらうわ。だって、誘惑魔のあなたが持っているより安全でしょう?」
仕組まれていた。
グレンとの婚約破棄。
社交界での悪評。
そして母の形見の強奪。
全部、オルテンシアの計画だった。
なぜ。
私が彼女に何をした。
答えは、おそらく一つしかない。
ヴェルナー公爵。
あの方の手紙が、オルテンシアの目に触れたのだろう。
公爵様は半年前から、私に求婚の手紙を送り続けていた。最初は断った。身分が違いすぎる。子爵令嬢の私が、王国筆頭貴族に釣り合うはずがない。
けれど公爵様は諦めなかった。毎週、封蝋付きの書簡が届いた。政務の合間に薬師棟を訪れ、私の仕事を見学すると言い張った。
私は戸惑い、困惑し、そしていつしか——。
首を振る。今はそんなことを考えている場合じゃない。
オルテンシアは公爵様を狙っている。
私を社交界から追い出し、悪女に仕立て上げれば、自分が公爵に近づける。そう考えたのだ。
「……証明するしかない」
声に出すと、腹に力が入った。
私は誘惑などしていない。
手紙を送ったのは公爵様の方。
それを証明すれば、濡れ衣は晴れる。
そして母の処方箋を取り戻す。
明後日は王妃主催の夜会。
社交界の頂点が集まる場で、私は真実を突きつける。
翌朝、宮廷薬師棟で働いていると、見覚えのない老紳士が現れた。
「リーネ・フォルトナ嬢でいらっしゃいますか」
銀髪を撫でつけた、背筋の伸びた初老の男性。胸元にはヴェルナー公爵家の紋章。
「ギュンターと申します。公爵家で執事を務めております」
「あ……はい。何かご用でしょうか」
「旦那様より言伝を預かっております」
ギュンターは懐から封書を取り出した。見慣れた蒼い封蝋。
「明後日の夜会に出席せよ、と。そして——」
執事は声を落とした。
「決して諦めるな、と」
心臓が跳ねた。
公爵様は知っている。
私に何が起きているか、全部把握している。
「ギュンター様。一つ、お聞きしてもよろしいですか」
「何なりと」
「公爵様がこれまで私に送ってくださった手紙。あれは、どこに保管されていますか」
執事の目が細まった。
「旦那様は几帳面な方でございます。送った書簡の控えは、すべて公爵家の書庫に保管されております。日付と封蝋の記録とともに」
息を呑んだ。
控えがある。
公爵様が「私に」手紙を送った証拠が、日付入りで残っている。
「オルテンシア嬢は、旦那様に初めて手紙を出されたのが三週間前でございます」
ギュンターは淡々と続けた。
「旦那様がリーネ嬢に最初の書簡を送られたのは、半年前。時系列は明白でございます」
これだ。
これが、私の武器になる。
「ギュンター様、お願いがあります」
「承っております」
「明後日の夜会で、その書簡の控えを——」
「ご安心ください」
執事は深く頭を下げた。
「公爵家は、旦那様の選んだ方を全力でお守りいたします」
夜会の前日。
社交界での私の評判は、最悪まで落ちていた。
「誘惑魔」「身の程知らず」「恥知らずの子爵令嬢」。
オルテンシアが流した噂は、尾ひれをつけて広がっていた。曰く、私は公爵に百通以上の手紙を送りつけた。曰く、私は媚薬を使って公爵を惑わそうとした。曰く、私は他の令嬢の婚約者も次々と誘惑している。
馬鹿馬鹿しい。
けれど、噂とはそういうものだ。面白ければ真偽など問われない。
宮廷薬師棟でも、同僚たちの目が冷たくなった。
「フォルトナさん、しばらく休まれては?」
暗に出勤するなと言われた。
悔しい。
歯を食いしばっても、涙が滲む。
私が何をした。
真面目に働いて、母の処方箋を完成させたくて、ただそれだけだったのに。
なぜ、こんな目に遭わなければならない。
「——泣いているのか」
低い声が降ってきた。
顔を上げると、そこに立っていたのは。
「公爵、様……」
クラウス・ヴェルナー。
黒髪に灰色の瞳。冷徹と名高い、王国筆頭貴族。
「なぜ、ここに」
「お前の様子を見に来た」
当たり前のように言う。
周囲の視線が突き刺さる。また噂になる。誘惑魔が公爵を呼び出した、と。
「お帰りください。私に関わると、公爵様のお立場が——」
「黙れ」
公爵様は私の前に立った。
背が高い。私との間に壁を作るように、周囲の視線を遮った。
「俺の立場を心配するな。お前は自分のことだけ考えろ」
「でも」
「明日の夜会に来い」
公爵様は振り返らずに言った。
「俺がすべて片付ける。お前は何もしなくていい」
「……公爵様」
「ただし」
灰色の瞳が、私を射抜いた。
「逃げるな。俺から逃げるな、リーネ」
名前を呼ばれた。
それだけで、胸が痛くなる。
「……逃げません」
声が震えた。
「私は、証明します。自分の手で」
公爵様は、少しだけ目を細めた。
「そうか」
それだけ言って、彼は去っていった。
夜会当日。
王宮の大広間は、きらびやかな貴族たちで溢れていた。
私は目立たないドレスを選んだ。薄紫の、飾り気のない一着。これが私の精一杯だ。
入口で足を止めると、視線が集中した。
ざわめき。嘲笑。蔑み。
「来たわよ、誘惑魔が」
「よく恥ずかしげもなく」
「追い出されればいいのに」
聞こえるように言われる。
拳を握りしめた。今日で終わらせる。
広間の奥、玉座の隣に王妃エレオノーラが座っていた。社交界の最高権威。彼女の前で真実を明かせば、誰も否定できない。
オルテンシアを探す。
いた。広間の中央、取り巻きに囲まれて笑っている。白いドレスに真珠の首飾り。まるで勝利を確信しているような顔。
その隣に、グレンがいた。元婚約者。オルテンシアと腕を組んでいる。
なるほど、そういうことか。
オルテンシアは最初からグレンが欲しかったのかもしれない。私を追い落とせば、公爵にも近づけるし、グレンも手に入る。一石二鳥。
「リーネ嬢」
背後から声をかけられた。振り返ると、ギュンターが立っていた。
「準備は整っております」
「ありがとうございます」
「合図をお待ちください」
執事は一礼して、広間の端へ消えた。
深呼吸する。
今夜、すべてが決まる。
宴が始まって一時間ほど経った頃。
オルテンシアが私に近づいてきた。
「あら、リーネ。来てたの」
甘ったるい声。取り巻きを引き連れて、獲物を追い詰める猫のような目。
「ずいぶん地味なドレスね。まあ、誘惑魔には似合ってるかしら」
周囲から笑い声が上がる。
「オルテンシア」
私は彼女を真っ直ぐ見た。
「母の処方箋を返して」
「何のこと?」
「月下の処方箋。あなたが持っていったでしょう」
オルテンシアは肩をすくめた。
「知らないわ。そんなもの、最初からなかったんじゃない? 誘惑魔の言うことなんて、誰が信じるかしら」
「私は誘惑などしていない」
「あら、公爵様に手紙を送りつけたのは誰?」
「送ったのは公爵様の方よ」
広間が静まった。
オルテンシアは目を丸くし、それから声を上げて笑った。
「まあ! 公爵様が、あなたみたいな子爵令嬢に? 身の程知らずにもほどがあるわ」
「嘘じゃない」
「証拠は?」
オルテンシアは勝ち誇った顔で言った。
「証拠もないのに、そんなこと言わないでくださる? 公爵様の名誉を傷つけることになってよ」
その瞬間。
広間のすべての扉が、同時に閉まった。
ざわめきが広がる。何が起きたのか分からず、貴族たちが周囲を見回す。
「皆様」
ギュンターの声が響いた。広間の中央、燭台の光を背にして、老執事は一礼した。
「公爵家として、申し上げたき儀がございます」
静寂。
「出入口は封鎖いたしました。恐れ入りますが、話が終わるまでご退席はお控えください」
オルテンシアの顔から血の気が引いた。
燭台の光が揺れる中、ギュンターは懐から書類の束を取り出した。
「こちらは、ヴェルナー公爵家の書庫に保管されている書簡の控えでございます」
蒼い封蝋。見覚えのある紋章。
「半年前の三月十五日、我が主クラウス・ヴェルナーは、リーネ・フォルトナ嬢に最初の求婚状を送りました」
読み上げが始まった。
「『リーネ嬢。本日、薬師棟で貴女を見かけました。貴女の真剣な横顔を見て以来、私の心は波立っております。不躾ながら、お近づきになりたいと願っております。ヴェルナー家当主、クラウス』」
広間がざわめく。
「三月二十二日。『リーネ嬢。先日のお返事、拝読いたしました。身分が違うとのご指摘、ごもっともです。しかし私は諦めません。貴女のお気持ちが変わるまで、何度でもお便りいたします』」
ギュンターは淡々と続けた。
「四月三日。四月十日。四月十七日——」
日付と内容が、次々と読み上げられていく。
「八月二十日。『リーネ嬢。貴女はまだ迷っておられる。しかし私は待ちます。貴女が私を受け入れてくれるまで、何年でも』」
半年分。
全部で二十三通の書簡が、日付入りで記録されていた。
「なお」
ギュンターは視線をオルテンシアに向けた。
「オルテンシア・メルヴィス嬢が我が主に最初の手紙を出されたのは、三週間前でございます」
広間が完全に静まった。
「時系列は明白でございます。誘惑したのは、リーネ嬢ではありません」
オルテンシアの顔が蒼白になった。
「嘘よ! そんなの、偽造に決まってる!」
「封蝋と日付は、王立公文書館でも照合可能でございます。偽造の疑いがおありでしたら、どうぞ検証を」
「そんな……そんなはずない……」
オルテンシアは後ずさった。
その時。
「オルテンシア」
低い声が広間に響いた。
人垣が割れる。
その中心を、黒髪の男が歩いてきた。
クラウス・ヴェルナー公爵。
灰色の瞳が、冷たくオルテンシアを見下ろしていた。
「お前が流した噂、すべて聞いている」
「公爵様、これは誤解です、私は——」
「誤解?」
公爵様は一歩、距離を詰めた。オルテンシアが悲鳴を上げそうな顔で後ずさる。
「リーネが誘惑した? 百通以上の手紙を送った? 媚薬を使った?」
「それは……みんなが言っていて……」
「お前が言わせたのだろう」
公爵様は手を上げた。ギュンターが、また別の書類を差し出す。
「お前が取り巻きに送った指示書だ。『噂を広めろ』『尾ひれをつけろ』と書いてある。お前の筆跡だな」
オルテンシアの顔から、完全に血の気が引いた。
「なぜ、そんなものが……」
「お前の取り巻きの一人が、俺に差し出した。お前についていくより、公爵家に恩を売った方が得だと判断したのだろう」
裏切られた。
自分がやったことと同じことを、自分がされた。
オルテンシアは膝から崩れ落ちた。
王妃が立ち上がった。
「エレオノーラ王妃陛下」
ギュンターが一礼する。王妃は静かに広間を見渡した。
「事情は理解しました」
凛とした声が響く。
「リーネ・フォルトナ嬢は無実です。誘惑の事実はありません。むしろ、ヴェルナー公爵から半年にわたり求婚を受けていた」
広間がどよめく。
「オルテンシア・メルヴィス嬢」
王妃の視線が、床に崩れ落ちた伯爵令嬢に向けられた。
「虚偽の噂を流し、無実の令嬢の名誉を傷つけた罪は重い。メルヴィス伯爵家には、相応の処分を申し渡します」
「お待ちください、王妃陛下!」
オルテンシアが叫んだ。
「私は、ただ——」
「また」
王妃の声が、オルテンシアの言葉を遮った。
「フォルトナ家の処方箋を不正に持ち出したとの報告も受けています。盗品は速やかに返却しなさい」
オルテンシアは何も言えなくなった。
隣にいたグレンが、そっと距離を取る。さっきまで腕を組んでいたのに。勝ち馬を乗り換えるのが早い。
「オルテンシア・メルヴィス嬢の社交界への出入りを、一年間禁じます」
王妃が裁定を下した。
一年。
社交界において、それは社会的な死に等しい。婚約の機会も、人脈作りの機会も、すべて失われる。
オルテンシアは泣き崩れた。
取り巻きたちは、誰一人として彼女に近づかない。
私は、その姿を黙って見ていた。
恨みはない。ただ、虚しい。
幼馴染だと思っていた。親友だと思っていた。それが、全部嘘だった。
「リーネ」
名前を呼ばれた。
振り返ると、公爵様が立っていた。
灰色の瞳が、真っ直ぐ私を見ている。
「——公爵様」
「半年、待った」
公爵様は一歩、私に近づいた。
「お前が俺を受け入れてくれるまで、何年でも待つと言った。覚えているか」
「……はい」
「もう、待たなくていいか」
心臓が痛いほど鳴っている。
広間の全員が、息を詰めて見守っている。王妃も、貴族たちも、オルテンシアでさえも。
公爵様は、私の前で跪いた。
片膝をついて、私の手を取る。王国筆頭貴族が、子爵令嬢の前で。
「俺が選んだのは、お前だ」
低い声が、広間に響いた。
「半年前から、ずっとお前だけを見ていた。横取りなどではない。誘惑されたのでもない。俺が、俺の意志で、お前を選んだ」
涙が溢れた。
悔しくて流した涙とは違う。嬉しくて、温かくて、どうしようもなく込み上げてくる。
「俺の妻になれ、リーネ」
公爵様は、私の手を離さない。
「……はい」
声が震えた。
「喜んで」
夜会が終わった後。
私は公爵様——クラウスと、王宮の庭園を歩いていた。
「処方箋は明日、届く」
クラウスが言った。
「メルヴィス伯爵家から正式に返却される手筈になっている」
「ありがとうございます」
「お前の母上の処方箋だ。お前が完成させるべきだ」
月明かりの下、クラウスは私の手を握った。
大きくて、温かい手。
「半年前、薬師棟でお前を見た時から決めていた」
「……何をですか」
「この手を離さないと」
心臓が跳ねた。
「真剣に薬を調合するお前の横顔が、目に焼きついて離れなかった。あの日から、俺はお前しか見ていない」
「クラウス様」
「様はいらない」
「……クラウス」
名前を呼ぶと、彼は少しだけ笑った。
冷徹だと言われる公爵が、こんな顔で笑うのを知っているのは、きっと私だけだ。
「明日から婚約の手続きを始める。一年後には式を挙げたい」
「早いです」
「半年待った。これ以上は待てない」
強引で、身勝手で、けれど——嬉しい。
月明かりの下、クラウスは私を抱き寄せた。
「二度と、お前を泣かせない」
耳元で囁かれる。
「お前を傷つける者は、俺が全員潰す」
「……物騒ですね」
「本気だ」
たぶん、本気なのだろう。
この人は、こういう人だ。一度決めたら、絶対に曲げない。
だから半年も、私に手紙を送り続けた。
「リーネ」
「はい」
「俺のそばにいろ」
命令ではない。お願いでもない。
ただ、そうあってほしいという、切実な願い。
私は彼の胸に顔を埋めた。
「はい。ずっと」
月が、二人を照らしていた。
三か月後。
私は公爵家の薬室で、「月下の処方箋」を完成させた。
母が残した配合に、私なりの改良を加えた鎮静薬。王家にも献上され、高い評価を得た。
薬師としての私の夢が、一つ叶った。
「できたか」
クラウスが薬室に入ってきた。
「はい。やっと完成しました」
「ギュンターに試させよう。あいつは最近眠りが浅いらしい」
「え、執事さんに実験台になってもらうんですか」
「光栄だと言うはずだ」
たぶん本当に言う。あの執事は、主人に忠実すぎる。
クラウスは私の後ろに立ち、肩を抱いた。
「よくやった」
「ありがとうございます」
「褒美をやる」
「いりません」
「やる」
「だから——」
言葉を遮るように、唇が降ってきた。
短い口づけ。
けれど、顔が熱くなる。
「……まだ婚約中です」
「知っている」
「人に見られたらまずいです」
「見られない。この薬室に入れるのは俺とお前だけだ」
「そういう問題じゃなくて」
クラウスは、少しだけ笑った。
相変わらず強引で、身勝手で、けれど——この人の隣にいると、私は守られていると感じる。
半年前、婚約破棄を告げられた時は、すべてが終わったと思った。
けれど今、私は幸せだ。
「クラウス」
「なんだ」
「ありがとう」
「何がだ」
「私を、選んでくれて」
クラウスは黙って、私を抱きしめた。
言葉はいらなかった。
この腕の中にいれば、もう何も怖くない。
私は、この人の隣で生きていく。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
子爵令嬢リーネと公爵クラウスの物語、いかがでしたでしょうか。
濡れ衣を着せられても折れずに立ち向かうリーネと、半年間ひたすら待ち続けたクラウスの関係を楽しんでいただけたなら幸いです。
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それでは、また別の物語でお会いできることを願っております。




