第9話 残された世界
世界は、何事もなかったかのように動き続けていた。
ニュースは通常番組に戻り、
数日前の混乱は「一時的なシステム障害」「原因不明の連鎖事故」として処理された。
人々は納得していないが、深く考えない。
考えなくて済むなら、それでいいのだ。
妹は、病室のベッドで目を覚ました。
「……あれ?」
自分が倒れた理由を、はっきり覚えていない。
疲れていた気はする。
不安もあった気がする。
だが、それ以上は思い出せなかった。
「夢を見てた気がするんだけど……
内容が、どうしても分からないの」
看護師は笑って言った。
「よくありますよ」
それで、話は終わった。
街では、奇妙な変化が起きていた。
大きな事故は減った。
ゼロではない。
だが、一箇所に不幸が集中することがなくなった。
代わりに、
小さな失敗、
小さな衝突、
小さな後悔が、
あちこちに分散して起きる。
誰か一人が壊れることはない。
その代わり、
誰もが少しずつ、重さを感じて生きる。
人々はそれを、
「現実」
「社会」
「人生」
と呼ぶ。
案内役は、もういない。
正確には、
「案内役」という役割が、不要になった。
世界の外側から導く存在は消え、
世界は、内側だけで回り始めている。
かつて案内役だった存在の痕跡は、
ごくまれに、
直感や、言葉にならない違和感として残る。
だが、それを気に留める者はいない。
そして、俺。
俺は、姿を失った。
声も、名前も、時間も。
だが、完全に消えたわけではない。
誰かが選択の前で立ち止まるとき。
「これでいいのか」と、一瞬だけ考えるとき。
そのわずかな間に、俺は存在する。
何かを強制はしない。
正解も与えない。
ただ、
運命の螺旋が急になりすぎないように、
流れを、ほんの少しだけ緩める。
それだけだ。
妹が退院する日、
彼女はふと空を見上げて言った。
「ねえ、なんでか分からないけどさ」
「前より、
世界がちょっとだけ、
息しやすくなった気がしない?」
答える者はいない。
だが、その感覚は正しかった。
世界は救われたわけじゃない。
完成したわけでもない。
ただ――
壊れにくくなった。
それが、
俺が残した、唯一の痕跡だった。




