「アタシたちの誓い」
ライブ前、「Critical Clinical」の控室は、いつもより少しざわついていた。
私はベースを膝に乗せ、指先で弦を軽く弾きながら、深く息を吐く。
緊張で手のひらがじんわりと汗ばむ。
ライブ前はいつもこうだ。
心臓が静かに暴れてるみたいで、落ち着かない。
隣ではリョウさんとケイタさんが談笑している。
「昨日のラーメン屋、マジで当たりだったって」
「え、また行ったんですか?リョウさんは胃袋に正直ですよね」
そんな軽口を交わしながら、二人はリラックスした様子で笑っていた。
私はその輪に入らず、ただベースに集中する。
音を出すことだけが、今の私を保ってくれる。
そこへ、控室の扉が勢いよく開いた。
「練習してた新曲、2曲ともやっちゃおう!」
美月さんが嬉しそうに宣言する。
その声に、空気が一瞬で変わった。
「マジかよ…」
リョウさんが手元の歌詞カードをめくりながら、眉をひそめる。
新曲「スーパースター」の歌詞を見た瞬間、ぽつりと「クソッ」と呟いた。
「冒険しちゃうね」
ケイタさんは逆に楽しそうに微笑む。
その余裕が、少しだけ羨ましい。
「マコトちゃん来てるからさ」
美月さんが言った瞬間、みんなの表情が少し引き締まった気がした。
須藤君が来ている、その言葉の意味が理解出来なかった。
私は、そんなメンバーたちのやりとりを黙って見つめていた。
そして、そっと口を開く。
「私、スーパースターの歌詞しか貰ってませんよ?」
美月さんは振り返り、あっけらかんと答えた。
「大丈夫、もう1曲の方はカンナの歌うところないから」
その言葉に、胸の奥が少しだけ冷たくなる。
ああ、そうか。
私は、期待されていないのかも知れない。
そう思った瞬間、ベースの弦を弾く指が、ほんの少しだけ震えた。
──5月初めの夕暮れ。
街の喧騒が少しだけ柔らかくなって、風が肌に心地よく触れる頃。
俺はライブハウス「Roots」の前に立っていた。
目的はもちろん、「Critical Clinical」のライブ。
あの音を聴くために、今日の予定はすべて空けてきた。
少し早めに着いたのは、落ち着かない気持ちを紛らわせるためでもある。
入口に向かおうとしたその瞬間、扉の向こうからひょいと顔を出したのは──美月さんだった。
「マコトちゃん来てくれたんだ!」
ぱっと花が咲いたような笑顔。
その表情を見た瞬間、頬が緩んでしまうのが自分でもわかった。
ああ、やっぱりこの人は、音楽の中でも一番明るい音を持ってる。
「もちろんですよ。新曲、楽しみにしてます」
そう言うと、美月さんは少しだけ首を傾げて、考えるふりをした。
「じゃあ、新曲2曲ともやっちゃおうかな」
冗談みたいに軽く言ったその言葉に、胸が少しだけ高鳴る。
「後でね」
そう言って控室へ戻っていく美月さんの背中を、俺はしばらく見送っていた。
その歩き方も、髪の揺れ方も、どこか音楽みたいだった。
客席に入ると、すでに人でいっぱいだった。
熱気がじわじわと肌にまとわりついてくる。
ゴールデンウィークの夕暮れ、ライブハウス「Roots」は、音楽を待つ人々の期待で満ちていた。
開始時間が近づくにつれ、場内の照明がゆっくりと落ちていく。
暗闇の中から、誰かの声が響いた。
「ミツキー!」
「リョウくーん!」
名前を呼ぶ声援が、あちこちから飛び交う。
そのたびに、俺の鼓動も少しずつ速くなっていく。
まるでステージに立つわけでもないのに、胸の奥がざわついて仕方なかった。
ステージに、バンドメンバーが次々と姿を現す。
そのたびに、歓声が大きくなっていく。
そして──最後に、美月さんが登場した瞬間、場内が一気に沸いた。
スポットライトが彼女を照らすと、ステージがまるで別世界のように華やぐ。
「みんな来てくれてありがとう!」
マイクを通して響いた美月さんの声が、空気を震わせる。
その言葉を合図に、演奏が始まった。
初めの一音で、身体がびくりと震えた。
グルーヴ感が全身を包み込んで、自然と体が揺れる。
音が、空気が、心が、すべてが一つになっていく。
美月さんから目が離せなかった。
彼女の笑顔は、まるでステージの中心に太陽があるみたいで、観客の視線をすべて引き寄せていた。
けれど──その視線を独り占めさせまいとするように、リョウさんのギターが唸る。
鋭く、熱く、心臓にまで響いてくる音。
張り合うように、音がぶつかり合って、ステージがさらに熱を帯びていく。
そして、完璧な旋律を崩すかのように、ケイタさんのスティックが頭上で止まった。
観客が息を呑む。
誰もが、その一撃を待っていた。
──叩き落された瞬間、会場は爆発したように一体化した。
最高の演奏。
最高の空間。
けれど、俺の視線は、ふと水橋の表情に吸い寄せられる。
美月さんは眩しい笑顔を見せていた。
なのに、水橋の瞳には、まだ何かが引っかかっているように見えた。
まだ、解決していないのか──
心の中でそう呟きながら、俺はきっと、
その“瞬間”を待っていたんだ。
彼らが、音で何かを超えていくその時を。
「次は新曲だよ」
美月さんの声が響いた瞬間、待ってましたとばかりに心が跳ねた。
会場がざわめく。期待と興奮が空気を震わせる。
「アタシたちの誓い」
タイトルコールのあと、ハイハットが3回、鋭く鳴る。
その音が、始まりの合図だった。
「初めて会ったあの日 勇気を出して」
美月さんの歌声とギターが同時に走り出す。
音が押し寄せてくる。
その一節に、俺の胸がぎゅっと締めつけられる。
「真っ赤な顔で誘ってくれた 大切な宝物」
その歌詞に、ふと水橋を見る。
驚いたような顔で、美月さんを見つめていた。
「雨の日も晴れの日も」
シンバルが鳴り、ケイタさんのドラムと水橋のベースが一気に加速する。
音が重なり、空気が震える。
「君がいるだけで強くなれる」
水橋の目は、美月さんを真っ直ぐに捉えていた。
その視線は、何かを確かめるようで──何かを受け止めようとしているようだった。
「どんな嵐も乗り越えられるよ」
美月さんの指が天を指し、ゆっくりと右へ倒れていく。
その動きに合わせて、音が広がる。
「2人の絆は虹のように 傘をさすように守り続ける」
サビに入ると、美月さんは水橋を指さしながら歌う。
その指が、まるで約束の証のように見えた。
「君とならどんな困難も乗り越えられる」
指先が水橋から会場中を泳ぎ、最後に親指で自分を指す。
「これがアタシたちの誓い」
その言葉に、会場の興奮が一気に美月さんへと集まる。
それを遮るように、リョウさんがギターを弾きながら前に出る。
美月さんはそれを払うようなジェスチャーを見せて、再び歌い始める。
「いつもアタシのそばにいて ジッと見てるね」
その瞬間、美月さんの視線が俺を捉えたような気がした。
胸が高鳴る。
でも、すぐに歌は次の展開へと進む。
「アナタの事を もしかしたらさ嫉妬してるの?」
音が一瞬止まり、リョウさんがマイクの前に立つ。
水橋を見ながら、合いの手を入れる。
「ちょっと怖いよね」
水橋がリョウさんを睨む。
その迫力に、リョウさんは目を泳がせて“怖いアピール”をする。
会場に笑い声が広がる。
緊張と感動の中に、ふっと柔らかい空気が生まれる。
「夜の闇が怖くても 君といるなら歩いて行ける」
美月さんが水橋に近づいていく。
「手を取って連れてってあげるよ」
水橋に手を差し出したあと、観客に振り返る。
「アタシの心は空のように 流れる雲みたく変わり続ける」
最前列に手を振りながら、一気に観客の興奮をさらっていく。
その姿は、まるでステージの中心に立つ女神のようだった。
「君の事だけいつまでも忘れないさ」
美月さんが観客一人ひとりを指さしていく。
「これがアタシだけの誇り」
腰に手を当てて、力強く歌い切る。
間奏に入り、リョウさんが前に出てくる。
「小さな手で握りしめた想い いつもそばにいるよって約束」
その歌詞が響いた瞬間、水橋の瞳から涙が零れた。
歌はエンディングに向かって盛り上がっていく。
音が高まるほどに、水橋の涙も大粒になっていく。
演奏が終わると、水橋は後ろを向いて泣いていた。
美月さんがそっと近づくと、水橋はその胸に飛び込んだ。
「ごめんなさい…ありがとう」
まるで幼い少女のように、美月さんに泣きつく水橋。
会場は静まり返り、そして──
「カンナー!」
「カンナ頑張れー!」
声援が飛ぶ。
袖で涙を拭った水橋が、マイクに近づいてきて──
「あい!がんばりばすっ!」
その言葉に、会場がどっと沸いた。
晴れ晴れとしたその顔は、ステージのどの光よりも眩しくて。
つられて涙を流す人もいた。
「泣かせちゃったねー、ごめんね」
美月さんのMCが始まる。
「アタシとカンナの歌だし、みんなとアタシ、カンナとみんな」
「みんなと誰かの歌になればいいな。みんなにも勇気とか力?」
「あと何より、普段伝えられない感謝とか伝われば嬉しいな」
その言葉に、会場から歓声が止まらない。
感動と興奮が、音楽とともに空間を満たしていた。
「しんみりさせちゃったお詫び?もう1曲新曲やるね」
美月さんがそう言うと会場中が沸き立つ。
ステージに立つ美月さんが、マイクにそっと口を寄せる。
「スーパースター」
その一言が合図だった。柔らかな照明が彼女を包み、バンドの演奏が静かに始まる。
「暖かくなった駅前の 交番の前で見かけたよ」
春の匂いがするような歌声に、観客の空気がふっと緩む。ゆっくりと流れるメロディに、会場全体が耳を傾けていた。
「君はスーパースター いつも背中を追っている」
リョウさんのギターが軽やかに響き、水橋のベースがそれを支える。音の波に乗って、観客の心が少しずつ引き込まれていく。
客席から水橋と美月さんの姿を見ながら、心の底から「本当に良かった」と思っていた。
曲は終盤に差し掛かる。
「サーチライトで闇夜を照らし サングラスで光を避ける」
その瞬間、リョウさんと水橋がステージ中央へと歩み寄る。互いに視線を交わし、まるで挑発するようなステップで美月さんの前に立つ。
そして、二人の足がぴたりと止まった瞬間——音がやんだ。
一瞬の静寂の中、二人は完璧なタイミングでグリスダウンを決める。シンクロした動きに、観客から歓声が上がる。
最後の音が鳴り響き、照明が一気に明るくなる。
ライブは、最高の盛り上がりのまま幕を閉じた。
youtube 「アタシたちの誓い」
https://youtube.com/shorts/tWlWbZW4cIc?si=E1r8mwt5TUuBa2PW




