「ありがとう、あなたへ」
博多のライブハウス『image』に入ると、まず控室へ荷物を置きに向かった。
「あ、ヒトシさん。お久しぶりっちゃね」
「よう、コーキ。久しぶりだな」
コーキと呼ばれた男は、今日の対バン相手――『Blaze Bro』のヴォーカルだ。
俺より少し年上かな? 美月さんと同じくらいの歳に見える。
「お、俺より年下っちゃね。今日はよろしく〜」
「よろしくお願いします」
軽く挨拶を交わしてギターを置くと、ステージを一度見ておきたくてフロアへ向かった。
キーボードの音が響いている。
鍵盤の前にいた女性が、こちらに気づいて顔を上げた。
「あれ?『MACS』の人やったと?」
ふわっと微笑むその表情が、思わず心臓を跳ねさせるほど柔らかい。
「君、顔キレイっちゃね。楽器は何しよーと?」
「ギターを……」
不意に“顔がキレイ”なんて言われて、頬が熱くなる。
でも、この人の声には変な下心がなくて、素直に照れてしまう。
「楽しみにしとくよ〜。リハ、そろそろ始まると?」
「いえ、もう少し時間ありますよ」
「そっかぁ……まだ音が決まらんとよね……」
そう言いながら、彼女――アキさんは再び鍵盤に向き合った。
難しそうな顔をしているはずなのに、どこか柔らかい雰囲気のせいで険しさを感じさせない。
「アキちゃん、まだやりよーと?」
「そげん言われても、まだ納得いかんとよ〜」
コーキさんがフロアに入ってきて、アキさんの横に立つ。
「まぁよかけん、音ば出してみらんね」
促されるまま、アキさんが演奏を始めた。
キレイな音だ。どこに不満があるんだろう。
「めっちゃよか音しとるやん。これでも納得いかんと?」
「うう……なんかもう一つ、よか音がある気がするっちゃんね……」
コーキさんがこちらを振り向く。
「なぁ、あんたもよか音っちゃ思うやろ?」
「あ、はい。キレイな音だと思います」
勢いに押されて答えると、アキさんがこちらを向いてまた微笑んだ。
「そげん言うしかなかよね……演奏もまだ聞いとらんとに。ごめん……」
「いえ、謝るようなことでは……」
「お前、マジでいいやつやん。ギター楽しみにしとくけんね」
コーキさんがにかっと笑う。
その空気のあたたかさに、胸の奥が少しだけ軽くなった。
リハが始まったので、フロアへ降りて耳を澄ませた。
『Blaze Bro』は骨太なロックバンドで、コーキさんのハイトーン混じりのハスキーヴォイスが、バンドの音に乗って気持ちよく突き抜けていく。
曲の途中、さっき聴いたキーボードの音が重なった。
――キレイだ。
その透明感が、コーキさんの声をさらに映えさせている。
いや、これは……。
演奏が終わると、俺はアキさんのところへ歩み寄り、短く伝えた。
「もう少し高音を押さえる方がいいかもしれません」
「フロアで聞いとって、そう思ったと?」
「はい」
その一言に、アキさんは少し考えてから「もう一回だけやりたい」と言い、再度の演奏が始まった。
『MACS』のリハが終わる頃、コーキさんが笑顔で近づいてくる。
「アキちゃんがお礼言いよったばい。ありがとな」
差し出された手を握り返すと、彼の掌は温かかった。
開演時間が近づくにつれ、フロアは人で埋まり、ざわめきが熱を帯びていく。
「じゃあ、うち先に行くけんね!『MACS』の演奏、楽しみにしとーよ」
アキさんが軽く手を振ってフロアへ向かう。
「俺らの演奏も、ちゃんと聞いとってくれよ?」
コーキさんも控室を出ていき、俺たちも続いた。
「いくぜ、『Shout for the Win』!」
一曲目が始まった瞬間、観客の歓声が爆発し、フロアが揺れるように感じた。
この後に自分たちが演奏すると思うと、胸がざわつくほどの熱気だ。
キーボードと歌のパートに入ると、観客たちは一気に聴き入った。
アキさんがこちらに気づき、ウインクで合図してくる。
そのままの勢いで『Blaze Bro』のステージは駆け抜けるように終わった。
控室前に戻り、ギターを肩に下げたまま待っていると、コーキさんが戻ってきた。
「よかったっちゃろ? そっちの演奏も楽しみにしとるけんね」
そう言って、俺の肩を軽く叩く。
その一言に、背中を押されるようにステージに向かった。
ステージに上がった瞬間、会場がざわついた。
このライブハウスで圧倒的な人気を誇る『Blaze Bro』の後に登場するバンド。
さらに今日は全国ツアー最終日――その期待が、フロア全体を震わせている。
ヒトシさんが姿を見せると、前方の観客が一斉に反応した。
「ヒトシさん、ひさしぶり〜!」
「待っとったよー!」
マイク前に立ったヒトシさんが、いつもの調子で口を開く。
「お前ら、待たせたな?」
クロさんがハイハットを三回叩く。
その合図に合わせて、俺は『Risk』のリフを鳴らした。
――これが、俺の『MACS』最後のステージ。
後悔だけは絶対に残さない。
その思いだけを胸に、指を走らせた。
『Risk』が終わると、ヒトシさんがマイクを握り直す。
「次の曲は、まあみんな聴きたいって言ってくれる曲なんだけど」
「えー? なんね?」
会場から期待の声が飛ぶ。
「今日は俺のわがままでやらせてもらうんだ。聞いてくれるか?」
拍手と歓声が一斉に返ってくる。
「『Rain』」
青山さんが鍵盤に指を落とし、静まり返った会場にチョーキングの音が滲む。
――なんでこの曲なんだろう。
ムードはあるし、いい曲だ。
でも、ノリが冷めるんじゃないかと一瞬思った。
その考えは、すぐに吹き飛んだ。
観客が、ヒトシさんの歌に寄り添うように聴き入っている。
今日の『Rain』は、確かに特別だ。
俺は、ただそう感じた。
三曲目、四曲目とライブは流れ込むように進む。
観客は盛り上がり、最高の空気ができている。
それでも胸の奥に、ひっかかりが残った。
――これでいいのか?
ちゃんと期待に応えられているのか?
『MACS』でのラストライブ。
後悔したくない。
必死にギターを弾き続け、気づけばラストの曲になっていた。
アンコールの予定は聞いていない。
つまり、これが本当に最後だ。
『Limit』のイントロを丁寧に弾き始める。
いつもより一音一音を追いかけるように。
ヒトシさんの歌が入ると、会場が揺れた。
クロさんは楽しそうにリズムを刻み、
松崎さんはいつも通り正確にベースを鳴らす。
青山さんも鈴木さんも、いい笑顔だ。
この曲が終わったら、俺はこのバンドを離れる。
目の前の事実なのに、どこか遠い未来のことみたいに感じた。
最後のフレーズを弾き終えると、観客から大歓声が上がった。
控室へ戻ろうとしたとき、背中にアンコールの声が届く。
――え? アンコールなんて聞いてない。
何をやるのかも知らない。
……何だか、前にもこんなことがあった気がする。
「マコト、お前はこっちだ」
ヒトシさんに手を引かれ、フロアへ連れて行かれる。
観客席の最前列に、一人分だけスペースが空けられていた。
「俺たちからの贈り物だ。しっかり聞いてくれよ」
そう言い残して、ヒトシさんはステージへ戻っていった。
「アンコール、ありがとう」
マイクに向かって話し始めるヒトシさんの声が、フロアに響く。
「今日で、『MACS』のギターだったマコトが卒業する」
ヒトシさんの言葉に、フロアがざわめいた。
「なんか…アイドルみたいやね」
誰かが茶化すように言うと、ヒトシさんが笑って返す。
「そうだな。ただ“脱退”とか“抜ける”って言うと、ネガティブな感じするだろ?」
最前列の観客が、うんうんと頷いている。
「マコトはやりたいこと見つけて、そこに向かって進む決意をしたんだ。だから卒業」
拍手が広がり、視線が一斉に俺へ向けられる。
胸の奥が熱くなる。
「アンコールの曲は、マコトに贈るためにつくった」
息を呑む音が、フロアのあちこちから聞こえた。
「聴いてくれ、『ありがとう、あなたへ』」
クロさんがスティックを軽く掲げ、カウントを取る。
鈴木さんのギターがイントロを紡ぎ始め、ブラッシングの合図で他の楽器が重なっていく。
余韻を残したイントロが開け、ドラムの一打をきっかけにヒトシさんの歌が落ちてきた。
「優しい手が差し伸べられ 暗闇を照らしてくれた」
松崎さんがベースを弾きながら、ちらりと俺に視線を送る。
「その温もりは忘れない 心の中でいつも生きてる」
静かだった演奏に、ギターの音がそっと重なる。
「ツライ事がたくさんあっても その先に夢があるなら」
マイクスタンドに両手を添え、ヒトシさんがうんうんと頷きながら歌う。
「いつかの笑顔が力になるよ 今すぐ出発しようぜ」
片手で手招きをして見せるその仕草が、妙に優しい。
「ありがとう、あなたへ 心からの感謝を伝えたい」
その声に、気持ちがこもっているのが痛いほど伝わる。
「Watch me get better and stronger. I’ll come through for you, bet.」
――そういえば、ヒトシさんってなんで英語話せるんだろう。
最後まで聞かなかったな。
「約束は守る、絶対に」
俺が余計なことを考えていたのを察したのか、ヒトシさんがこちらを向いて舌を出して笑った。
「遠い空に浮かぶ星 願いを込めて手を伸ばす」
鈴木さんのギターが、今日いちばんの音を鳴らしている。
「優しさの輪が広がり 新しい世界が待っている」
――俺のことなんだろうか。
「一歩ずつ踏み出していこう 待ってたって駄目なんだ」
その言葉が、背中を押す。
「夢を叶えるって誓ったから 今すぐ本気出そうぜ」
ヒトシさんが両手を広げ、フロアが歓声で揺れた。
「ありがとう、あなたへ 前を向いて走り続ける」
口を押えて涙ぐむ観客が見える。
「Watch me get better and stronger. I’ll come through for you, bet.」
ヒトシさんの後ろで、クロさんが笑いながらドラムを叩いている。
「方向音痴? 気にしない」
首を傾げて俺を見るヒトシさんが、子どもみたいに笑った。
「やさしさの光を胸に 強く生きるこの決意」
――そうだ。俺は負けられない。
美月さんの夢を叶える。
「誰かのために生きる That's the way. bet」
そう決めたんだから。
ギターソロが鳴る。
俺が弾かなかった、これからの『MACS』のギターソロ。
――心から、カッコいいと思った。
「ありがとう、あなたへ いつかまだ見ぬ景色の向こう」
ライトが一気に明るくなり、ソロが締めくくられる。
「Watch me get better and stronger. I’ll come through for you, bet.」
観客の声が遠くなる。
周りの音が、だんだん静かになっていく。
「あなたを連れて行くと決めた」
ちゃんと挨拶しようと思っていた。
何を話すかも考えてきた。
泣いたらヒトシさんが笑うから、笑って挨拶するつもりだった。
「ありがとう、あなたへ 心からの感謝を伝えたい」
そう決めていたのに。
「Watch me get better and stronger. I’ll come through for you, bet.」
アンコールなんて聞いてなかったし、音楽は卑怯だ。
「約束は守る、絶対に」
だって――
さっきから涙が止まらない。
「I’ll glow up, get stronger... I got you next time.」
歌いきったヒトシさんの頬を、一筋の涙が伝って落ちた。
ありがとうございます。
俺、必ず美月さんの夢を叶えます。
【須藤家】
須藤 誠/17歳・都立星雲高校2年生
マックスでのメンバー登録表名はマコト。
アマチュアバンド「マックス」のヘルプギタリストとして、ライブハウス「Roots」に出演中。
人前では髪を下ろして顔を隠すほどのコンプレックス持ちだが、ギターを握ると別人のように冴える。
静かな日常と熱いステージ、そのギャップが彼の魅力。
須藤 陽葵/15歳・中学3年生
誠の妹で、しっかり者の家庭担当。共働きの両親に代わって家事をこなすスーパー中学生。
兄の通う星雲高校を目指して受験勉強中。兄にはちょっぴり甘えたいけど、素直になれない年頃。
【Critical Clitical 通称:クリクリ】
有栖川 美月/18歳・ヴォーカル担当
Critical Cliticalのメンバー表登録名はミツキ。
ピンクのツインテールにオフショルダーの服がトレードマーク。派手に見えるが、整った顔立ちと圧倒的な存在感で観客を魅了する。
マコトを気に入っていて、何かと“お姉さんぶり”たがるが、時々天然。ステージでは圧倒的カリスマ、オフでは賑やか担当。
有栖川という名家の娘であることが分かった。
宮田 亮/22歳・ギター担当
Critical Cliticalのメンバー表登録名はリョウ。
レスポールを愛用するギタリスト。音とテクニックで観客の心を掴む、クリクリの音楽的屋台骨。
口が悪くて天邪鬼なところがあるが、音楽に対する情熱は誰よりも熱い。ステージでは言葉よりギターが語る。
ケイタ/20歳・ドラム担当
黒髪の長髪にアルカイックスマイルが印象的な、落ち着きのある青年。
正確無比なリズムでバンドを支える縁の下の力持ち。物静かだが、時折鋭い一言で場を動かすタイプ。
水橋 環奈/17歳・ベース担当/都立星雲高校2年生
Critical Cliticalのメンバー表登録名はカンナ。
年齢に似合わぬベーステクニックで“天才少女”と呼ばれる実力派。
高校では物静かで目立たないが、黒髪ロングの美人で、周囲からは羨望の眼差しを受けている。
マコトとは同級生で、淡々とした言動の中に時折見せる優しさが印象的。
小松 里菜/キーボード担当/ミズハシ楽器・アルバイト
Critical Cliticalのメンバー表登録名はリナ。
前任のヨネさんの紹介でクリクリにヘルプとして加入。
普段はミズハシ楽器でアルバイトしている。
落ち着いた雰囲気を持ちながらも、音楽に対しては柔軟で積極的。サポートメンバーとして呼ばれることも多かった。
【MACS】
ヒトシ/ヴォーカル担当
マコトをバンドに誘った張本人で、明るくポジティブな兄貴分。
ライブでは観客を巻き込むパワー型フロントマン。マコトにとっては頼れる先輩であり、良き理解者。
クロ/ドラム担当
ヒトシの相棒で、落ち着いた雰囲気の大人っぽいドラマー。
言葉少なめだが、演奏ではしっかりとバンドを支える。マコトのことも静かに見守っている。
松崎/ベース担当
寡黙で無口なベーシスト。だが、マコトのことをよく気にかけてくれる優しい一面も。
演奏中の安定感は抜群で、マックスの土台を支える存在。
【サンデーパニック】
関/ヴォーカル担当
マイクパフォーマンスが楽しいサンパニのヴォーカル。
環奈推しでよくお茶に誘うが、毎回断られている。
以前リョウに怒られて以来、少しリョウが怖い。
【都立星雲高校】
芝崎/誠と同じクラス
顔良し、友達多し、ノリも軽い。高校生活を全力で楽しむタイプ。
なぜか誠に絡んでくることが多く、軽薄な口調ながらも憎めない存在。
中谷 由美子/誠と同じクラス・隣の席
素朴で可愛らしい雰囲気が魅力の女の子。男子から密かに人気があるが、本人はあまり気づいていない。
誠とは隣の席で、時折交わす会話がじんわりと心に残る。
【美月の同級生】
泉谷/泉谷グループの御曹司
音楽業界に強い影響力を持つ名家の跡取りで、若くして多くのアーティストやプロデューサーと繋がりを持つ。
冷静で礼儀正しいが、その裏には家の期待と責任を背負う重圧もある。
有栖川家との関係から、美月との縁談が水面下で進められており、本人もその事実を理解しているが――彼自身の本心はまだ誰にも見せていない。
藤崎/美月の同級生
美月の同級生で、名家・藤崎家に育った正真正銘のお嬢様。
育ちの良さがそのまま性格に表れており、言葉遣いは丁寧だが、価値観はどこか“良家の常識”に縛られている。
【市田楽器店】
市田/市田楽器店の店長
穏やかな笑顔と落ち着いた声がトレードマークの、街の楽器店の店長さん。
誰にでも優しく、従業員や常連からの信頼も厚い。
リョウのバンド活動を陰ながら応援してくれており、時にはアドバイスをくれることも。
戸田/市田楽器店・アルバイト
高校時代から市田楽器店で働いている、元気で世話焼きな女性スタッフ。
リョウとは同い年ながら、バイト歴ではちょっぴり先輩。
Critical Clinicalの大ファンで、ライブにはほぼ毎回顔を出している。
【ミズハシ楽器】
米山/35歳・マネージャー
クリクリの元キーボード担当をヘルプでやっていた。登録名はヨネ。
ミズハシ楽器の社員で、店内では“そこそこ偉い人”として知られる存在。
スーツ姿じゃなくても漂う落ち着きと余裕――その佇まいは、まさに“大人の男”。
クリクリの音に心を動かされ、自ら「手伝わせてほしい」と申し出た。
年齢も立場も違うのに、スタジオでは誰よりも柔らかく、誰よりも鋭く音を見つめる。
時に冗談を交えながらも、音楽に対する姿勢は本物。
「拗ねるとちょっと面倒」と噂されるが、それも含めて愛されている存在。
【陽葵の同級生】
加地 あかり/陽葵の同級生
陽葵の同級生で親友。大人っぽい外見をしている。




