環奈でいいですよ
「誠くんを迎えに来ました」
環奈がそう告げた瞬間、場の空気がふっと固まった。
言っている意味はわかるのに、状況が追いつかない。なんだこの妙な空気。
「あれ、芝崎さんから聞いてないんですか?」
「プールに行こうって話はしたけど……迎えに来るって、そういう意味だったの?」
まさか環奈が来るとは思っていなかった。
どうやら環奈も、俺が全部聞かされている前提で来たらしく、肩を小さく震わせながら顔を真っ赤にしている。
「そ、それで……芝崎さんは……」
あれ、怒ってる……?
声が微妙に上ずってるんだけど。
「まだ来てない、よ?」
「そ、そうですか……」
気まずさがじわじわと広がっていく。
その空気を破るように、玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」
陽葵が軽い足取りで玄関へ向かう。
扉が開いた瞬間、芝崎の軽い笑い声が響いた。
その直後、俺の目の前で環奈の肩がビクッと跳ねる。
「まことー!おまたせ──」
言い終わる前に、環奈の横に置かれていたクッションが芝崎の顔面に吸い込まれるように命中した。
「だから、迎えに行くって言ったじゃん」
「いや、環奈が来るなんて聞いてないけど?」
「いや、それは……言わない方が面白いかなって?」
芝崎の悪びれない一言に、環奈の肩がわなわなと震えた。
怒ってる、というより呆れてる感じだ。
「ま、まあとにかくだ。プール行こうぜ!」
「何が“とにかく”だよ……」
そこでふと気になって、俺は問いかけた。
「これって、3人で行くの?」
「いや、駅前で中谷さんと待ち合わせてるから4人だよ」
「えっ、お兄ちゃんプール行くの?」
「お?陽葵ちゃんも来る?」
「い、いいんですか?」
……これは陽葵も参戦コースだな。
「じゃあ4人で行きましょう。芝崎さんを置いて」
「そりゃないよー!」
頬をぷくっと膨らませる環奈が、なんだか妙に可愛く見えてしまう。
そんな光景に苦笑しつつ、俺はプールへ向かう準備を始めた。
誠くんの家を出て、電車に揺られること数駅。
目的地のプールがある駅に着くと、改札前で中谷さんが手を振っていた。
その横に、見慣れたシルエットがもうひとつ。
「み、美月さん……?」
「やほー! カンナ。それにマコトちゃんも!」
どうして美月さんがここに……?
胸の奥がざわつく。
「ここで偶然、中谷ちゃんに会ってさ。みんなでプール行くんだって?」
「そ、そうなんです」
誠くんの影から陽葵さんが顔を出すと、美月さんの目がぱっと見開かれた。
「お、おお! もしかして例の妹ちゃん?」
「あ、そうです。陽葵です」
誠くんが紹介すると、陽葵さんは丁寧に会釈した。
「陽葵ちゃんか! お礼を言いたかったんだ!」
「お礼……ですか?」
「うん! マコトちゃんにしてくれたアドバイス」
その言葉に陽葵さんは一瞬考え、すぐに何かを理解したように誠くんへ視線を向け、にやりと笑った。
そして誠くんの耳元にそっと顔を寄せる。
「この人が、デートの人だね」
……聞こえてしまった。
胸の奥がズキッと痛む。
「みんなでプールかぁ、いいなあ」
「み、美月さんバイトで忙しいと思ったから」
そう答えると、美月さんは「まあねー」と笑いながらも、どこか残念そうな表情を浮かべた。
でも、本当は違う。
誘えなかったんじゃない。
誘いたくなかった。
「マコトちゃん、28日出発でしょ?」
「はい。移動時間が長いので大変そうです」
「だよねー」
本当は、誠くんがツアーに行くまで、美月さんと会わせたくなかった。
そんな話を、してほしくなかった。
「移動時間とか暇になったら、連絡してきていいからね」
「は、はい。ありがとうございます」
そのやり取りが、胸に刺さる。
「じゃあ、アタシはこれからバイト行ってくるよー」
軽く手を振りながら、美月さんは駅へと歩き出した。
背中がまっすぐで、迷いがなくて、かっこいい。
――私も、美月さんみたいになれたら。
そう思ったけれど、意味のない願望だと気づいて、そっと胸の奥にしまった。
プールに着くと入場券を買い、更衣室で着替えてから外へ出た。
「まことー! 早く行こうぜ!」
「ちょっと待てって」
妙にテンションの高い芝崎に引っ張られるようにして、プールサイドへ向かう。
パラソルの下に場所を確保し、荷物と飲み物を置いたところで芝崎が指をさした。
「お、みんな出てきたよ」
最初に姿を見せたのは中谷さん。
フリルのついた可愛らしい水着で、こちらに向かって元気よく手を振っている。
「おおー、こっちこっちー!」
芝崎が嬉しそうに手を振り返す。
その後ろから陽葵が現れた。
スポーツタイプの水着――この前一緒に買ったやつだ。
そして最後に環奈。
羽織ったシャツの隙間から見えるのは、ブランド物のビキニ。
スタイルの良さが否応なく目を引く。
三人が歩くたび、周囲の男たちが一斉に振り返る。
「すご、みんな振り返ってるね」
芝崎が実況のように言い、妙に楽しそうだ。
「お、お待たせしました」
環奈が少し照れたように言うと、中谷さんが肘でつついた。
「あ、あの……どうでしょうか」
「うん。すごく似合ってるよ」
そう答えた瞬間、環奈の表情がぱっと明るくなる。
プールに入ると、芝崎がいきなり水をかけてきた。
「おいっ!」
応戦していると、中谷さんにも水が飛んだらしく、彼女も参戦。
陽葵も環奈も巻き込まれ、気づけば全員で水の掛け合いになっていた。
流れるプールへ逃げ込むと、後ろから環奈が追いかけてくる。
「ま、待ってくださいよー!」
人が多くて進みにくい場所で、環奈が追いついた。
その瞬間、彼女が足を滑らせ、体勢を崩す。
反射的に腕を伸ばして受け止めた。
触れた肌が思った以上に柔らかくて、心臓が一瞬だけ跳ねる。
「つ、捕まえましたよー!」
環奈は照れ笑いを浮かべながらそう言った。
その楽しそうな笑顔につられて、笑ってしまった。
「ここ、人多いなー」
流れるプールは完全に渋滞していて、しばらく芝崎たちとは合流できそうにない。
仕方なく人の流れに身を任せていると、後ろから無理やり前に出ようとする男たちが列を乱した。
「環奈、こっち」
はぐれそうになった環奈の手をとり、少し外側へ回り込む。
「あ、あ、あの……」
出口が近づいた頃、ずっと俯いていた環奈が小さく声を漏らした。
「ツアー……頑張ってください」
「あ、うん。二日のRootsはクリクリも来るんだよな?」
「そうですね。楽しみにしています……」
「俺も、楽しみ」
「……でも」
また視線を落とす。
何を言おうとしているんだろう。
「でも、やっぱり……少し寂しいです……」
「あ、ああ。でも、ほんの少しだからさ」
「私……私はっ──」
環奈が何かを言いかけた、その瞬間。
「まことみっけ!」
芝崎の声と、容赦ない水しぶきが頭から降ってきた。
「何か食べようぜー!」
「お、おう……」
環奈の方を見ると、顔を真っ赤にしてぷるぷる震えている。
「環奈、さっき──」
「大丈夫です。少し寂しいと思っただけなので」
「……ああ。まあ、それは俺も……ちょっと、あるかも」
自分でも意外だった。
こんなふうに、離れることを寂しいなんて思うなんて。
「須藤くんと話せた?」
食べ物を買う列に並んでいると、中谷さんが声を潜めて聞いてきた。
「途中で芝崎さんに邪魔されました」
「あいつ……」
少し離れた場所で陽気に手を振っている芝崎さんを、中谷さんが鋭い目で睨む。
そのギャップが可笑しくて、思わず笑ってしまった。
「でも、寂しいっていう気持ちは伝えましたよ」
「おお、水橋さんにしては上出来だね!」
「なんですかそれ」
上から目線のはずなのに、不思議と嫌じゃない。
うじうじしているだけの私を、ちゃんと背中から押してくれる。
「環奈でいいですよ」
そう言うと、中谷さんの顔がぱっと明るくなった。
「うん、私も由美子でいいよ」
その笑顔につられて、胸の奥が少し軽くなる。
「で、須藤くんは何て?」
「それは俺もちょっとあるかもって」
「えー! 寂しいってこと?」
まるで自分のことみたいに嬉しそうにしてくれる。
「ゆ、由美子はどうなんですか?」
「え? どうって?」
「芝崎さんの……」
言いかけた瞬間、由美子が私の口をぱっと塞いだ。
「え? いつから気づいてた?」
「少し前です。芝崎さんと話したくて、誠くんと話してるんだなって」
「おお、だから敵認定されなかったのか……」
「なんですかそれ」
そう言って二人で笑い合う。
さっきまで胸の奥にあった重さが、少しずつ溶けていくようだった。
夕方まで全力で遊び尽くし、駅でそれぞれ解散した。
少し眠そうにまばたきを繰り返す陽葵と家に帰り、俺はそのまま机に向かった。
宿題の続きを始めたつもりが──気づけば窓の外が白んでいた。
「……やば」
28日までに、できるだけ課題を片づけておかないと。
そう思いながら、重くなったまぶたをこすり、もう一度ノートを開いた。
【須藤家】
須藤 誠/17歳・都立星雲高校2年生
マックスでのメンバー登録表名はマコト。
アマチュアバンド「マックス」のヘルプギタリストとして、ライブハウス「Roots」に出演中。
人前では髪を下ろして顔を隠すほどのコンプレックス持ちだが、ギターを握ると別人のように冴える。
静かな日常と熱いステージ、そのギャップが彼の魅力。
須藤 陽葵/15歳・中学3年生
誠の妹で、しっかり者の家庭担当。共働きの両親に代わって家事をこなすスーパー中学生。
兄の通う星雲高校を目指して受験勉強中。兄にはちょっぴり甘えたいけど、素直になれない年頃。
【Critical Clitical 通称:クリクリ】
有栖川 美月/18歳・ヴォーカル担当
Critical Cliticalのメンバー表登録名はミツキ。
ピンクのツインテールにオフショルダーの服がトレードマーク。派手に見えるが、整った顔立ちと圧倒的な存在感で観客を魅了する。
マコトを気に入っていて、何かと“お姉さんぶり”たがるが、時々天然。ステージでは圧倒的カリスマ、オフでは賑やか担当。
有栖川という名家の娘であることが分かった。
宮田 亮/22歳・ギター担当
Critical Cliticalのメンバー表登録名はリョウ。
レスポールを愛用するギタリスト。音とテクニックで観客の心を掴む、クリクリの音楽的屋台骨。
口が悪くて天邪鬼なところがあるが、音楽に対する情熱は誰よりも熱い。ステージでは言葉よりギターが語る。
ケイタ/20歳・ドラム担当
黒髪の長髪にアルカイックスマイルが印象的な、落ち着きのある青年。
正確無比なリズムでバンドを支える縁の下の力持ち。物静かだが、時折鋭い一言で場を動かすタイプ。
水橋 環奈/17歳・ベース担当/都立星雲高校2年生
Critical Cliticalのメンバー表登録名はカンナ。
年齢に似合わぬベーステクニックで“天才少女”と呼ばれる実力派。
高校では物静かで目立たないが、黒髪ロングの美人で、周囲からは羨望の眼差しを受けている。
マコトとは同級生で、淡々とした言動の中に時折見せる優しさが印象的。
小松 里菜/キーボード担当/ミズハシ楽器・アルバイト
Critical Cliticalのメンバー表登録名はリナ。
前任のヨネさんの紹介でクリクリにヘルプとして加入。
普段はミズハシ楽器でアルバイトしている。
落ち着いた雰囲気を持ちながらも、音楽に対しては柔軟で積極的。サポートメンバーとして呼ばれることも多かった。
【MACS】
ヒトシ/ヴォーカル担当
マコトをバンドに誘った張本人で、明るくポジティブな兄貴分。
ライブでは観客を巻き込むパワー型フロントマン。マコトにとっては頼れる先輩であり、良き理解者。
クロ/ドラム担当
ヒトシの相棒で、落ち着いた雰囲気の大人っぽいドラマー。
言葉少なめだが、演奏ではしっかりとバンドを支える。マコトのことも静かに見守っている。
松崎/ベース担当
寡黙で無口なベーシスト。だが、マコトのことをよく気にかけてくれる優しい一面も。
演奏中の安定感は抜群で、マックスの土台を支える存在。
【サンデーパニック】
関/ヴォーカル担当
マイクパフォーマンスが楽しいサンパニのヴォーカル。
環奈推しでよくお茶に誘うが、毎回断られている。
以前リョウに怒られて以来、少しリョウが怖い。
【都立星雲高校】
芝崎/誠と同じクラス
顔良し、友達多し、ノリも軽い。高校生活を全力で楽しむタイプ。
なぜか誠に絡んでくることが多く、軽薄な口調ながらも憎めない存在。
中谷 由美子/誠と同じクラス・隣の席
素朴で可愛らしい雰囲気が魅力の女の子。男子から密かに人気があるが、本人はあまり気づいていない。
誠とは隣の席で、時折交わす会話がじんわりと心に残る。
【美月の同級生】
泉谷/泉谷グループの御曹司
音楽業界に強い影響力を持つ名家の跡取りで、若くして多くのアーティストやプロデューサーと繋がりを持つ。
冷静で礼儀正しいが、その裏には家の期待と責任を背負う重圧もある。
有栖川家との関係から、美月との縁談が水面下で進められており、本人もその事実を理解しているが――彼自身の本心はまだ誰にも見せていない。
藤崎/美月の同級生
美月の同級生で、名家・藤崎家に育った正真正銘のお嬢様。
育ちの良さがそのまま性格に表れており、言葉遣いは丁寧だが、価値観はどこか“良家の常識”に縛られている。
【市田楽器店】
市田/市田楽器店の店長
穏やかな笑顔と落ち着いた声がトレードマークの、街の楽器店の店長さん。
誰にでも優しく、従業員や常連からの信頼も厚い。
リョウのバンド活動を陰ながら応援してくれており、時にはアドバイスをくれることも。
戸田/市田楽器店・アルバイト
高校時代から市田楽器店で働いている、元気で世話焼きな女性スタッフ。
リョウとは同い年ながら、バイト歴ではちょっぴり先輩。
Critical Clinicalの大ファンで、ライブにはほぼ毎回顔を出している。
【ミズハシ楽器】
米山/35歳・マネージャー
クリクリの元キーボード担当をヘルプでやっていた。登録名はヨネ。
ミズハシ楽器の社員で、店内では“そこそこ偉い人”として知られる存在。
スーツ姿じゃなくても漂う落ち着きと余裕――その佇まいは、まさに“大人の男”。
クリクリの音に心を動かされ、自ら「手伝わせてほしい」と申し出た。
年齢も立場も違うのに、スタジオでは誰よりも柔らかく、誰よりも鋭く音を見つめる。
時に冗談を交えながらも、音楽に対する姿勢は本物。
「拗ねるとちょっと面倒」と噂されるが、それも含めて愛されている存在。
【陽葵の同級生】
加地 あかり/陽葵の同級生
陽葵の同級生で親友。大人っぽい外見をしている。




