「Critical Clinical」
「お兄ちゃん、先に行くよー!」
玄関に向かいながら、妹の陽葵が朝食中の兄の背中に声を投げる。
「おー」
パンをくわえたまま、気の抜けた返事をひとつ。
陽葵はそのまま靴を履きながら、「鍵かけてねー」と言い残し、
軽やかにドアを開けて出ていった。
バタン、と扉が閉まる音が部屋に響く。
静かになったキッチンで、兄はもそもそとパンを噛みながら、ふと考える。
――2年前の俺って、あんなにしっかりしてただろうか?
いや、違うな。
2年前も、同じように「鍵かけてねー」って言われてた気がする。
朝の眠気に包まれた頭で、そんなくだらないことをぼんやりと思い出していた。
朝食を終えて、洗面台の前で歯を磨いていた。
ミントの香りが口の中に広がる中、ふと鏡に映る自分の顔に目が止まる。
「……髪、伸びたな」
ぽつりと、誰に聞かせるでもなく呟いた。
鏡の中の俺は、どこかぼんやりしていて、寝癖がひと房だけ跳ねている。
正直、自分の顔はあまり好きじゃない。
陽葵に似てるって、よく言われる。
目元とか、輪郭とか。
女の子みたいだなって、自分でも思う。
だから、髪を伸ばしてる。
前髪を下ろして、顔を隠すようにしてる。
無意識に、そうしてしまう。
「マックス」のヒトシさんに紹介されたときも、ずっと前髪で目元を隠してた。
でも――
「ライブの時は、髪上げた方がいいよ」って言われて、仕方なくまとめるようになった。
鏡の中の俺は、髪を上げると少しだけ印象が変わる。
それが“ステージ用の顔”ってやつなのかもしれない。
歯ブラシを口から抜いて、軽く口をすすぐ。
鏡の前の自分に、もう一度だけ目を合わせてから、そっと視線を逸らした。
玄関の鍵をカチリと回す。
朝の空気は少しひんやりしていて、春の終わりを告げるような匂いがした。
駅までは徒歩10分。
そこから3駅先が、俺たちの通う高校のある街だ。
改札を抜けて通学路に出ると、同じ制服を着た生徒たちがぞろぞろと歩いている。
その中に紛れて、俺も歩き出す。
「おはよう」
澄んだ声がすぐ近くで響いて、思わず肩が跳ねた。
振り向くと、そこには水橋がいた。
少しだけ膨れた顔で、「何かご不満?」と睨んでくる。
「ああ、水橋か」
俺がそう言うと、彼女はふっと表情を緩めた。
「昨日はごめんなさい。変なこと言っちゃって」
申し訳なさそうに眉を下げる水橋。
その姿に、俺は首を軽く振った。
「ああ、弱気になるくらい、誰だってあるだろ?」
励ますつもりはなかった。
ただ、そう思ったから言っただけだ。
「そうかも知れないわね」
水橋は少しだけ笑った。
でもその笑顔は、どこか寂しげで――
まただ。
その表情を見るたび、胸の奥がぎゅっと抉られるような気持ちになる。
「あなたは強いのね。羨ましい」
そう言って、彼女は前を向いて歩き出す。
俺もその後ろに並ぶように歩きながら、次のライブの話を始めた。
教室に入った瞬間、芝崎が一直線に詰め寄ってきた。
「仲良く登校してんじゃん、水橋と!」
……ああ、その話題か。
朝からめんどくさいな。
「今、面倒くさいって思ったよね?思ったよね?」
図星を突かれて、思わず眉が動く。
こいつ、勘だけは鋭い。
「なんなんだよ…友達と話すくらい、普通だろ?」
「友達?水橋と?いやいや、接点ないじゃん!」
ぐぬぬ。
確かに、表向きはそうかもしれない。
でもバンドのことは言いたくないし、どう誤魔化すか考えてると――
「昨日も一緒に帰ってたよねー?」
中谷さんから、まさかの援護射撃。
おい、今それ言うか?
「なんだとぅ!? 付き合ってんの…?もしかして!」
芝崎が目を見開いて、俺を凝視してくる。
その顔、真剣すぎて逆に笑えてくる。
「……そんなわけないだろ」
「だよねー、まことだもんね!」
……こいつ、腹立つな。
笑顔で言えば何でも許されると思ってるだろ。
HR開始まであと数分。
教室の空気は、緊張する前の騒がしさで満ちていた。
その日は一日中、水橋に何か言ってあげられないか考えていた。
けれど、何も浮かばなかった。
考えて、考えて、結局何も思いつかないまま放課後になってしまった。
「水橋に会ったら、何か言ってあげたいが――」
「私がどうしたの?」
隣に立っていた水橋が、首を傾げてこちらを見ていた。
……しまった。声に出てたか。
「ああ、水橋がクリクリに入ったきっかけって何だったのかなって」
口から出まかせだった。
でも、水橋はぱっと表情を明るくして、
「クリクリの結成メンバーなのよ?私」
と、少し誇らしげに言った。
「ええ!?知らなかったよ」
「まあ、あまり知ってる人はいないと思うわ」
柔らかく笑うその顔に、少しだけ胸がざわついた。
「結成メンバーってことは…ん?どういう流れ?」
想像が追いつかず、変な聞き方になってしまった。
「あー、まず私の家、楽器屋なの」
「へー」
「それで、近くの店舗にスタジオがあって、時々そこでベース弾いてたのよ」
ああ、なるほど。近くの店舗にスタジオね…。
「待て待て待て、お前の家って…ミズハシ楽器なの?」
「ええ、そうよ。言ってなかったかしら?」
言ってねえよ…。え?ミズハシ楽器のご令嬢ってこと?
こないだも練習で使ったぞ…マジか。
「俺のギター、ミズハシ楽器で買ったよ」
「あらそう、ありがとうございます」
聞きたいことは山ほどあったけど、話が進まないのでぐっと我慢した。
「そこのスタジオ、リョウさんとケイタさんが前のバンドでよく使ってたらしくて」
なるほど、なるほど。
「ベースを弾く私を見て、次にバンド作るときに誘おうと思ってたらしいの」
おお…さすが天才少女。
水橋環奈――クリクリの“カンナ”は、年齢に見合わない実力を持つベーシストとして知られている。
ファンからは“天才少女”なんて呼ばれているくらいだ。
「それで…二人が私に歌もやらせたいって言いだして」
ああ、なるほど…。
「今、何を納得したのかしら?」
「いえ、なんでもないです」
足を止めて少し睨まれた…美人は迫力がある…
「じゃあヴォーカル探そうって話になったその日、駅前に人だかりができてたの」
水橋の声が、少しだけ熱を帯びていく。
「人だかりの中心には美月さんがいたの。ギター一本で、聴衆を魅了してた」
語るその表情は、どこか憧れを含んでいて。
「思わず駆け寄ったの。私とバンドやりませんかって」
おお、それはすごいな…
「よく声かけられたね」
「あの時はもう何も考えられなかった。気づいたら声かけてた」
一目惚れだったんだな。
「そしたら美月さんが私をじっと見つめて、『いいよ』って」
わかる気がする。
その光景が、なぜか鮮明に浮かんだ。
「それが、クリクリのはじまりだったんだな」
俺がそう言うと、水橋は静かにうなずいて、
「私はずっと、美月さんのファンのままなの」
と、少しだけ寂しそうに笑った。
「そんなことないだろ?同じバンドのメンバーなんだから」
俺の言葉に、水橋は「ありがとう」とだけ返してくれた。
「今日は話を聞いてくれてありがとう。楽しかったわ」
そう言って、改札へと歩いていく水橋の背中を見送る。
俺は――少しでも、水橋の力になれたんだろうか。
そんなことを考えながら、春の終わりの風に吹かれていた。




