曇天
「あれ? 有栖川じゃない?」
その声が聞こえた瞬間、美月さんの顔を見て、背筋が凍った。
さっきまで柔らかかった表情から一気に色が引いていた。
明るい音のしない、無音の表情。
そんな美月さんを見るのは初めてで、言葉が出なかった。
ほんの一瞬――一拍ほどの沈黙。けれど、やけに長く感じた。
「あ、藤崎? 久しぶりじゃん」
美月さんの顔色が戻り、藤崎と呼ばれた女性に笑みを向ける。
「有栖川、また派手な頭してるね。バンドとかまだやってんの?」
「まだって何だよ。ずっとやってるし」
藤崎さんは「隣いい?」と軽く言って、美月さんの隣に腰を下ろす。
そしてこちらに気づき、目を丸くした。
「あれ? まさか彼氏とか? 邪魔しちゃったね」
「いや、彼氏じゃないよ。バンドの仲間……」
美月さんが言いよどむと、藤崎さんは「ふぅん」と意味ありげに笑った。
「有栖川は昔の髪型のほうがかわいかったよ?」
「そんなのいいでしょ?」
「清純そうでさ、男子にも人気あったよね」
――今でも十分可愛いし、今の髪色も似合ってるのに。
そんなことを思いながら、俺は黙って二人を見ていた。
「君? 有栖川のバンド仲間なんだよね」
「あ、はい。須藤と言います」
「じゃあ須藤君。知ってた? 有栖川家って結構な名家なんだよ?」
「え……」
知らないに決まっている。
有栖川家? 名家?
あまりにもイメージが遠すぎて、美月さんと結びつかない。
「ねえ、やめてよ」
美月さんの声は、どこか心細げだった。
「だって有栖川。まだバンドとかやって遊んでるんでしょ? そろそろ家に帰んないの?」
「いいだろ……」
美月さんが言い返そうとした瞬間、思わず俺が口を挟んでいた。
「遊びじゃないです。バンドは。美月さんも本気でやってるんです」
「へえ? それは知らなかったよ。ごめんね」
その謝り方は、完全に俺を下に見ているものだった。
子どもをあやすような、軽い声音。
「でもさ、こんなとこで男の子と二人なんて。泉谷君は知ってるの?」
「藤崎、やめて」
「縁談の話も出てるんでしょ? 泉谷のおじさん言ってたよ?」
「やめてって言ってるでしょ? アタシ帰る」
美月さんは勢いよく立ち上がった。
「マコトちゃん、行こ」
「あ、はい」
会計を済ませて店を出る。
背後から藤崎さんの「またねー」という軽い声が聞こえたが、振り返る気にはなれなかった。
速足で歩く美月さんの背中を追いかけていた。駅の近くまで来たところで、彼女は突然、我に返ったように立ち止まり、くるりと振り返る。
「ま、マコトちゃん。……驚いたよね?」
その声は強がっているのに、握られた手だけが小さく震えているのが分かった。
「少し驚きましたけど……大丈夫ですよ」
――大丈夫って何がだよ。今、他に言いようがあっただろ。
「み、美月さんは……美月さんですから」
絞り出した言葉はそれだけだった。それでも、美月さんの頬にほんの少し色が戻ったのが見えて、胸の奥が少しだけ軽くなる。
歩き出した彼女の後を追おうとしたとき、また振り返った美月さんが、今度は俺の顔を覗き込んできた。
「なんか変なこと言ってたけど……勘違いしないでね」
「へ、変なことって?」
「ほら、縁談……とかさ。アタシ、そういうの受ける気ないから」
その笑顔はあまりに綺麗で、精一杯何かを悟らせないようにしていた。
俺は何て無力なんだ……そう思った。
「じゃあ、今日はありがとね」
駅に着くと、美月さんはそう言って自分のホームへ続く階段を上がっていく。
その背中が見えなくなるまで、俺はただ立ち尽くしていた。
俺に……何ができるんだろう。
もし、美月さんの縁談が、本人の意思だけでは断れないようなものだったら――。
電車に揺られながら、浮かんでくるのは嫌な想像ばかりだ。
これからも、美月さんたちと一緒に音楽を続けていきたい。
だけど、俺は美月さんのことを何も知らない。
本当に……何も。
翌日。胸の奥に残った不安を抱えたまま、いつもの通学路を歩く。
美月さんは……本当に家に戻ることがあるんだろうか。
考え始めた途端、視界がじわりと暗く沈んでいく。
「おはようございます」
不意に背後から声がして、思わず肩が跳ねた。環奈だ。
「何かあったんですか? 怖い顔してますけど」
「いや、別に……」
隣に並んで歩き出した環奈に、どこまで話していいのか迷う。
そもそも環奈は、美月さんの家の事情を知っているんだろうか。
「環奈は、美月さんの……」
言いかけた瞬間、環奈の肩がわずかに震えたように見えた。
「美月さんの……何でしょう?」
「美月さんの……買い物に付き合っただけだよ。エフェクターが壊れたって言ってて」
「ああ、そういえば。壊れたっておっしゃってましたね」
もしかしたら、あの家のことは知られたくないのかもしれない。
そう思い、深く踏み込むのをやめた。
「リョウさんの働いてる楽器店に行ったよ」
「じゃあ、リョウさんも一緒だったんですか?」
「買い物の時はね」
そう答えると、環奈は小さくため息をついた。
「リョウさんがいるなら、俺いらないんじゃ……って思っちゃったよ」
「あの人、天邪鬼ですから」
そう言って、環奈はふっと笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の中の重さが少しだけ軽くなる。
「結局、何を買ったんですか?」
「これ」
スマホを取り出し、美月さんが買ったマルチエフェクターの写真を見せる。
「買い物の後は、どこに行ったんですか?」
「ん? お茶して帰ったよ」
「……そうですか」
そんな他愛ない会話を続けているうちに、校門が見えてきた。
「それでは、後で」
「うん、また後で」
教室の前で環奈と別れ、いつも通り他愛ない話をしたおかげで、胸の重さが少しだけ軽くなった。
「マコト! おはよー!」
こんな時の芝崎の明るい声は、妙に救われる。
「ああ、おはよ」
「ちょっと聞いてくれよー。昨日ライブに行ったんだけどさ」
「ライブ? へえ、どこの?」
「『Roots』ってライブハウス、知ってる?」
「へ、へえ。何てバンド見に行ったの?」
思わず吹き出しそうになったのを必死でこらえ、平静を装う。
「サンデーパニック? とかいうバンドでさ」
「ああ、サンパニか。いいね」
「お、マコト詳しいんだな。なかなか良かったよ」
危ない。つい反応してしまった。これ以上ボロを出さないように気をつけないと。
「サンパニ? のギターの人が先輩の友達らしくてさ。付き合わされて行ったんだけど」
「へえ、そうなんだ」
「あれなら、また行ってもいいな」
……これは、そのうち芝崎にバレる日が来るかもしれない。
「何々? 何の話?」
中谷さんが割り込んでくる。
「いや、昨日サンパニってバンドのライブに行ってきたんだ」
「バンドか。中学の友達がそういうの好きだったよ」
う……嫌な予感しかしない。
「確か、何とかってバンドのドラムがかっこいいって言ってたな」
「ふーん」
「でも解散して、今はクリクリ? とかいうバンドやってるって」
心臓が跳ね上がるかと思った。いや、クリクリのファンがいるのは嬉しいんだけど……
「クリクリ? なんだそりゃ」
「最近人気だって言ってたよ」
「へ、へえ」
俺はとりあえず、全力ですっとぼけておいた。
「やっぱり、みんなプロとか目指してるんだろうな」
何気なく放たれた芝崎のひと言が、胸の奥に小さな棘のように刺さった。
「そうだろうね。でも、プロになれるのはごく一部っていうよね」
そうだ。プロになれるのは、本当にほんの一握り。
「売れるってなると相当ハードル高そう」
「でも、イマイチなやつも売れてるじゃん?」
「それは……好みとか?」
ああ、芝崎。その先は言わなくてもわかってる。わかってるんだ。
「やっぱ親のコネ? とか金持ってるやつが勝つのかな?」
「ええー、そうは思いたくないね」
そうだ。そうは思いたくない。
だけど――現実はどうなんだろう。
このままギターを弾き続けて、俺は美月さんの隣にいられるのだろうか。
美月さんは、この先も音楽を、バンドを続けていけるのだろうか。
「諦めるなんてありえないよ 音楽が好きすぎて毎日が楽しいんだもん」
ふいに、「Pink♡Butterfly」の一節が頭の中で流れた。
諦めてほしくない。美月さんの夢を、どうか叶えてほしい。
そのために――俺は何ができる?
「起立」
気づけば、朝のホームルームが始まっていた。
窓の外には、どんよりとした曇天。
まるで今の俺の心をそのまま写し取ったみたいで、思わず両手を見つめる。
指先に残るギターの感触が、逆に自分の無力さを際立たせていた。
【須藤家】
須藤 誠/17歳・都立星雲高校2年生
マックスでのメンバー登録表名はマコト。
アマチュアバンド「マックス」のヘルプギタリストとして、ライブハウス「Roots」に出演中。
人前では髪を下ろして顔を隠すほどのコンプレックス持ちだが、ギターを握ると別人のように冴える。
静かな日常と熱いステージ、そのギャップが彼の魅力。
須藤 陽葵/15歳・中学3年生
誠の妹で、しっかり者の家庭担当。共働きの両親に代わって家事をこなすスーパー中学生。
兄の通う星雲高校を目指して受験勉強中。兄にはちょっぴり甘えたいけど、素直になれない年頃。
【Critical Clitical 通称:クリクリ】
有栖川 美月/18歳・ヴォーカル担当
Critical Cliticalのメンバー表登録名はミツキ。
ピンクのツインテールにオフショルダーの服がトレードマーク。派手に見えるが、整った顔立ちと圧倒的な存在感で観客を魅了する。
マコトを気に入っていて、何かと“お姉さんぶり”たがるが、時々天然。ステージでは圧倒的カリスマ、オフでは賑やか担当。
宮田 亮/22歳・ギター担当
Critical Cliticalのメンバー表登録名はリョウ。
レスポールを愛用するギタリスト。音とテクニックで観客の心を掴む、クリクリの音楽的屋台骨。
口が悪くて天邪鬼なところがあるが、音楽に対する情熱は誰よりも熱い。ステージでは言葉よりギターが語る。
ケイタ/20歳・ドラム担当
黒髪の長髪にアルカイックスマイルが印象的な、落ち着きのある青年。
正確無比なリズムでバンドを支える縁の下の力持ち。物静かだが、時折鋭い一言で場を動かすタイプ。
水橋 環奈/17歳・ベース担当/都立星雲高校2年生
Critical Cliticalのメンバー表登録名はカンナ。
年齢に似合わぬベーステクニックで“天才少女”と呼ばれる実力派。
高校では物静かで目立たないが、黒髪ロングの美人で、周囲からは羨望の眼差しを受けている。
マコトとは同級生で、淡々とした言動の中に時折見せる優しさが印象的。
ヨネ/35歳・ヘルプでキーボード担当
ミズハシ楽器の社員で、店内では“そこそこ偉い人”として知られる存在。
スーツ姿じゃなくても漂う落ち着きと余裕――その佇まいは、まさに“大人の男”。
クリクリの音に心を動かされ、自ら「手伝わせてほしい」と申し出た。
年齢も立場も違うのに、スタジオでは誰よりも柔らかく、誰よりも鋭く音を見つめる。
時に冗談を交えながらも、音楽に対する姿勢は本物。
「拗ねるとちょっと面倒」と噂されるが、それも含めて愛されている存在。
【マックス】
ヒトシ/ヴォーカル担当
マコトをバンドに誘った張本人で、明るくポジティブな兄貴分。
ライブでは観客を巻き込むパワー型フロントマン。マコトにとっては頼れる先輩であり、良き理解者。
クロ/ドラム担当
ヒトシの相棒で、落ち着いた雰囲気の大人っぽいドラマー。
言葉少なめだが、演奏ではしっかりとバンドを支える。マコトのことも静かに見守っている。
松崎/ベース担当
寡黙で無口なベーシスト。だが、マコトのことをよく気にかけてくれる優しい一面も。
演奏中の安定感は抜群で、マックスの土台を支える存在。
【都立星雲高校】
芝崎/誠と同じクラス
顔良し、友達多し、ノリも軽い。高校生活を全力で楽しむタイプ。
なぜか誠に絡んでくることが多く、軽薄な口調ながらも憎めない存在。
中谷/誠と同じクラス・隣の席
素朴で可愛らしい雰囲気が魅力の女の子。男子から密かに人気があるが、本人はあまり気づいていない。
誠とは隣の席で、時折交わす会話がじんわりと心に残る。
【市田楽器店】
市田/市田楽器店の店長
穏やかな笑顔と落ち着いた声がトレードマークの、街の楽器店の店長さん。
誰にでも優しく、従業員や常連からの信頼も厚い。
リョウのバンド活動を陰ながら応援してくれており、時にはアドバイスをくれることも。
戸田/市田楽器店・アルバイト
高校時代から市田楽器店で働いている、元気で世話焼きな女性スタッフ。
リョウとは同い年ながら、バイト歴ではちょっぴり先輩。
Critical Clinicalの大ファンで、ライブにはほぼ毎回顔を出している。
【ミズハシ楽器】
小松 里菜/ミズハシ楽器・アルバイト
キーボード奏者で、決まったバンドに所属せず活動している。
普段はミズハシ楽器でアルバイトしており、ヨネさんとは面識がある。
落ち着いた雰囲気を持ちながらも、音楽に対しては柔軟で積極的。サポートメンバーとして呼ばれることも多い。
【陽葵の同級生】
加地 あかり/陽葵の同級生
陽葵の同級生で親友。大人っぽい外見をしている。




