お茶でもしてく?
「どうしたの?」
環奈が何か言いかけたように見えた。けれど、傘を叩く雨音が強くて、彼女の声がうまく届かない。
「いえ……。誠くんもライブ決まったら、教えてください」
ああ、ライブの話か。
「いいよ。来てくれるなら嬉しい」
そう返しながら横目で環奈を見る。今日の彼女はどこか落ち着かない。
さっきから視線を落としたままだし——……って、前髪に雨がかかってるじゃないか。
「環奈、今日ボーっとしてない? ほら、前髪濡れちゃってるよ」
声をかけても、環奈はどこか上の空だ。
俺はポケットからハンカチを取り出し、そっと彼女の前髪に当てる。
「環奈って、目が離せないところあるよね」
気づけば、幼いころの陽葵を思い出していた。放っておけない感じが、どこか似ている。
ハンカチを手渡し、「自分でも拭いて」と促すが、環奈は固まったまま動かない。
「環奈? 本当に大丈夫?」
「だ、大丈夫」
ぎこちない返事を残して、環奈は駅のホームへ向かっていく。
その背中に手を振り返し、俺は電車に乗り込んだ。
座席に腰を下ろした瞬間、美月さんからのメッセージに気づく。
『週末空いてる?』
短い文面がいかにも美月さんらしくて、思わず口元が緩む。
『空いてますよ』と返すと、すぐに返信が来た。
『週末の買い物、環奈に付き合ってもらおうと思ったけど』
『環奈、親戚の家に行くんだって』
なるほど。じゃあ代わりに俺が行けばいいのか。
『何を買いに行くんです?』
『お、聞いちゃう? エフェクター買いに行くんだけど』
『マコトちゃん付き合ってくれない?』
その一文を見た瞬間、胸の奥がふっと温かくなる。
美月さんと二人で出かけられる——それだけで、頬が緩んだ。
『いいですよ。どこで待ち合わせますか?』
ほどなくして、美月さんから待ち合わせ場所と、行きたい店の情報が送られてきた。
「お、お帰りー。先にお風呂入りなよ、風邪ひいちゃうよ?」
玄関で出迎えた陽葵が、心配そうに俺を見上げる。その仕草に、ふと成長を感じた。
「陽葵も大きくなったよな」
「なにそれ? 気持ち悪いよ」
わざとらしく眉をひそめて笑う陽葵に荷物を預け、俺は風呂場へ向かった。
夕食の途中、陽葵がじーっとこちらを観察するように見つめてくる。
「今度は夜更かししちゃダメだよ?」
まるで全部お見通しだと言わんばかりの口調。……はい、気をつけます。
「最近、何だか楽しそうですね?」
「そうかな?」
ある日の帰り道、環奈が声をかけてきた。
「まあ、楽しいことがあるのはいいことですけど」
俺の浮かれた気持ちが伝わったのか、環奈もどこか柔らかい表情をしていた。
「まあ、そうだね」
「私にも楽しいこと、分けてほしいです」
そう言って環奈が微笑む。その笑顔は、どこか寂しさを含んでいるようにも見えた。
「環奈は週末、親戚の家に行くんだろ? 楽しいこととかないの?」
「え、なんで知ってるんですか……?」
声色がわずかに変わる。親戚の家の話題は触れられたくないのかもしれない。
「いや、環奈の代わりに美月さんと買い物行くことになったんだよ」
そう言った瞬間、環奈がぴたりと立ち止まった。
「環奈、どうしたの?」
「いえ……そうですか。楽しんできてください」
急に距離を置くような声音。それに、なんだか素っ気ない。
もしかして、美月さんとの買い物、環奈も楽しみにしてたのか……?
胸の奥に小さな罪悪感が灯る。
駅に着くと、環奈は軽くお辞儀をして、改札の向こうへ消えていった。
環奈の寂しそうな顔が、心のどこかに罪悪感を残したまま週末に突入した。
──けれど、当日になってしまえばそんなものは霧散する。
今はただ、美月さんに会いたい。それだけだ。
「昨日は、ちゃんと寝たようだね」
朝食の席で、陽葵がじっと俺の顔を観察してくる。
「まあ、前回の反省を生かさないとな」
「ふふん、よろしい」
妙に得意げな陽葵に、思わず苦笑いが漏れた。
朝食を終え、待ち合わせの駅へ向かう。
改札を抜けた瞬間、視界の端に“それらしい人影”が飛び込んできた。
──あ、いた。安定の存在感。
「おはようございます!」
「おはよー! 早いじゃん、どうしたの?」
「いや、まあ……楽しみだったので」
「ふ、ふーん……アタシと出かけるのが楽しみだったのか……」
こつんと軽く肘でつつかれて、心臓が跳ねる。
「み、見に行く店は決めてるんですか?」
「いくつかね……。い、行こうか」
「了解です」
美月さんが歩き出す。その横へ、自然と歩幅を合わせるように並んだ。
楽器屋が何店舗も並ぶ通りを歩く。
「見て見て! このギターかわいくない?」
店頭に並んだローズゴールドのレスポールを指さして、美月さんが子どもみたいにはしゃぐ。
「この色、ネットでは見るけど実物は初めてだよ」
「ああ〜、いいなあ! 欲しい! ……二十万円ですか〜。今は無理だなあ…」
「美月さん、エフェクター見に行きましょう」
そんなやり取りをしながら、最初の目的地『市田楽器店』に到着した。
「最初はここだよー」
「市田楽器店ですか……ここは来たことないな」
美月さんが、なぜか意地悪そうに笑っている。嫌な予感しかしないが、そのまま店内へ。
「いらっしゃいませー!」
元気いっぱいの女性店員さんが声をかけてくれた。
「今日は何をお探し……って、ミツキちゃん?」
「はい、ミツキですー!」
ああ、知り合いがいてもおかしくないよな……と思った次の瞬間、店員さんが奥へ向かって叫んだ。
「リョウくーん! ミツキちゃん来たよ!」
「えっ」
リョウ……くん?
あのリョウさん? いやいや、そんな偶然あるわけ──
……いや、美月さん、入るとき笑ってたよな。ということは。
「んだよ、騒がしーな」
「リョウくん! ミツキちゃんが!」
「は? ミツキ? 何言ってんだ……」
その声とともに、奥からリョウさんが姿を現した。
「な、本当にいるじゃねーか」
「やっほ! リョウくん」
リョウさんの鋭い視線が、俺に向く。
「マコト……。なんだ? 美月に付き合わされてんのか?」
「いえ、付き合わされてるとかじゃないですよ」
「へえ、お前いいやつだな……」
苦笑いするリョウさんの顔には、“普段から振り回されてます”という疲労がにじんでいた。
「んで? 何買いに来たんだ?」
「いやー、エフェクターを買おうと思って」
「ああ、壊れたとか言ってたな」
「変な音するようになってさ。」
「どうせ蹴ったんだろ?」
「蹴ってないよ!」
「じゃあ、落としたか?」
「落としてない!」
「じゃあ何だよ?」
「えっと……寿命?」
「お前の扱いが寿命縮めてんじゃね?」
「ひどっ」
漫才のような二人の掛け合いを見て、少し吹き出してしまった。
「まあ、せっかくだから使いやすいのほしいじゃん?」
「そりゃそうだ」
「だからマコトちゃんに着いてきてもらいました!」
自信満々に紹介されたけど……ここにリョウさんいるなら、俺いらなかったんじゃ?
「エフェクターはそっちだ」
エフェクターコーナーに向かうと、美月さんの表情が一気に真剣になる。
「マルチ買うんですか?」
「うん、持ち運びが楽な方がいい〜」
「お、これ良くない?」
「ああ、音の再現度もいいし、使いやすいって聞きましたよ」
「おおー……てか、かわいくね?」
そこかよ、とツッコミたいのを飲み込む。
「小さいし持ち運びも楽そうじゃん! これにしようかな」
タッチパネルを楽しそうに触っていた美月さんの手が、値札を見た瞬間止まった。
「うげ、六万円……痛いな〜。リョウくん、安くならない?」
「なっても五万八千円くらいだぞ?」
「ううう……中古とかやってないの?」
「うちは中古やってねーよ」
美月さんが腕を組んで悩んでいる間に、中古価格を調べる。
「美月さん、中古でも五万くらいはしますよ?」
「ああ、そうなのか〜」
POPを見ながら、何かを計算し始める美月さん。まあ、高いよな。
「これとかどうです?」
「え、うーん……こっちほど可愛くはないけど……」
「でも音もいいですし、軽いですよ?」
渡してみると、「ほんとだね〜」と頷きつつ、まだ迷っている様子。
「しかもお値段はさっきの半分以下です」
「本当だ! リョウくん、これどう思う?」
「おう、いいんじゃね? 初心者向けとか言われてっけど、使いやすいからずっと使ってる人もいるしな」
「おお〜」
しばらく悩んだ末、「こっちにする」と言って、俺が勧めたマルチを購入した。
「ありがとー! また来てね!」
帰り際、最初に対応してくれた店員さんが声をかけてくれた。
……あれ、この人どこかで見たような。
「あ、戸田さん!」
「え? 私のこと知ってるんですか?」
「この前のライブで、リョウさんがあなたを見つけて“戸田さん”って言ってたんで」
「ああ、なるほど。またライブ行きますからね」
そんな会話を交わしながら店を出る。
戸田さんは最後に美月さんと握手して、満面の笑みを浮かべていた。
──やっぱり、美月さんはファンが多い。
「時間余っちゃったね〜」
「最初の店で決まっちゃいましたからね」
「お茶でもしていく?」
その言葉を待っていた。昨日のうちに、もしものためのカフェを調べておいたのだ。
「こっちに、雰囲気よさそうなカフェがあるみたいですよ」
「じゃあそこ行こー!」
案内したカフェは、落ち着いた色のフローリングに同系色のテーブルと椅子が並ぶ、静かで居心地のいい空間だった。
「何飲みますか?」
「んーと、クリーム……いや、まて。生バナナジュースで!」
注文を済ませ、飲み物が来るまでの間、楽器屋の話やギターの話で盛り上がる。
「おお、これおいしー!」
美月さんが嬉しそうにバナナジュースを吸う。その無邪気な表情に、胸がじんわり温かくなる。
「マコトちゃん、一口飲む?」
差し出されたストローに心臓が跳ねた。
間接キスを意識しすぎて、手が少し震える。それでも、そっと口をつける。
「……本当だ、美味しいですね」
美月さんはにっこり笑うと、今度は俺のアイスコーヒーを指さした。
「そっちもちょうだい」
「どうぞ」
ストローを差し出すと、彼女はためらいなく一口飲んだ。
「コーヒーもうまいねー!」
その無防備さに、また心臓が忙しくなる。
そのとき──
ドアの鈴が軽く鳴り、新しい客が入ってきた。
足音が近づき、俺たちのすぐ隣で止まる。
気配が、こちらを向いた。
そして。
「あれ? 有栖川じゃない?」
【須藤家】
須藤 誠/17歳・都立星雲高校2年生
マックスでのメンバー登録表名はマコト。
アマチュアバンド「マックス」のヘルプギタリストとして、ライブハウス「Roots」に出演中。
人前では髪を下ろして顔を隠すほどのコンプレックス持ちだが、ギターを握ると別人のように冴える。
静かな日常と熱いステージ、そのギャップが彼の魅力。
須藤 陽葵/15歳・中学3年生
誠の妹で、しっかり者の家庭担当。共働きの両親に代わって家事をこなすスーパー中学生。
兄の通う星雲高校を目指して受験勉強中。兄にはちょっぴり甘えたいけど、素直になれない年頃。
【Critical Clitical 通称:クリクリ】
有栖川 美月/18歳・ヴォーカル担当
Critical Cliticalのメンバー表登録名はミツキ。
ピンクのツインテールにオフショルダーの服がトレードマーク。派手に見えるが、整った顔立ちと圧倒的な存在感で観客を魅了する。
マコトを気に入っていて、何かと“お姉さんぶり”たがるが、時々天然。ステージでは圧倒的カリスマ、オフでは賑やか担当。
宮田 亮/22歳・ギター担当
Critical Cliticalのメンバー表登録名はリョウ。
レスポールを愛用するギタリスト。音とテクニックで観客の心を掴む、クリクリの音楽的屋台骨。
口が悪くて天邪鬼なところがあるが、音楽に対する情熱は誰よりも熱い。ステージでは言葉よりギターが語る。
ケイタ/20歳・ドラム担当
黒髪の長髪にアルカイックスマイルが印象的な、落ち着きのある青年。
正確無比なリズムでバンドを支える縁の下の力持ち。物静かだが、時折鋭い一言で場を動かすタイプ。
水橋 環奈/17歳・ベース担当/都立星雲高校2年生
Critical Cliticalのメンバー表登録名はカンナ。
年齢に似合わぬベーステクニックで“天才少女”と呼ばれる実力派。
高校では物静かで目立たないが、黒髪ロングの美人で、周囲からは羨望の眼差しを受けている。
マコトとは同級生で、淡々とした言動の中に時折見せる優しさが印象的。
ヨネ/35歳・ヘルプでキーボード担当
ミズハシ楽器の社員で、店内では“そこそこ偉い人”として知られる存在。
スーツ姿じゃなくても漂う落ち着きと余裕――その佇まいは、まさに“大人の男”。
クリクリの音に心を動かされ、自ら「手伝わせてほしい」と申し出た。
年齢も立場も違うのに、スタジオでは誰よりも柔らかく、誰よりも鋭く音を見つめる。
時に冗談を交えながらも、音楽に対する姿勢は本物。
「拗ねるとちょっと面倒」と噂されるが、それも含めて愛されている存在。
【マックス】
ヒトシ/ヴォーカル担当
マコトをバンドに誘った張本人で、明るくポジティブな兄貴分。
ライブでは観客を巻き込むパワー型フロントマン。マコトにとっては頼れる先輩であり、良き理解者。
クロ/ドラム担当
ヒトシの相棒で、落ち着いた雰囲気の大人っぽいドラマー。
言葉少なめだが、演奏ではしっかりとバンドを支える。マコトのことも静かに見守っている。
松崎/ベース担当
寡黙で無口なベーシスト。だが、マコトのことをよく気にかけてくれる優しい一面も。
演奏中の安定感は抜群で、マックスの土台を支える存在。
【都立星雲高校】
芝崎/誠と同じクラス
顔良し、友達多し、ノリも軽い。高校生活を全力で楽しむタイプ。
なぜか誠に絡んでくることが多く、軽薄な口調ながらも憎めない存在。
中谷/誠と同じクラス・隣の席
素朴で可愛らしい雰囲気が魅力の女の子。男子から密かに人気があるが、本人はあまり気づいていない。
誠とは隣の席で、時折交わす会話がじんわりと心に残る。
【市田楽器店】
市田/市田楽器店の店長
穏やかな笑顔と落ち着いた声がトレードマークの、街の楽器店の店長さん。
誰にでも優しく、従業員や常連からの信頼も厚い。
リョウのバンド活動を陰ながら応援してくれており、時にはアドバイスをくれることも。
戸田/市田楽器店・アルバイト
高校時代から市田楽器店で働いている、元気で世話焼きな女性スタッフ。
リョウとは同い年ながら、バイト歴ではちょっぴり先輩。
Critical Clinicalの大ファンで、ライブにはほぼ毎回顔を出している。
【ミズハシ楽器】
小松 里菜/ミズハシ楽器・アルバイト
キーボード奏者で、決まったバンドに所属せず活動している。
普段はミズハシ楽器でアルバイトしており、ヨネさんとは面識がある。
落ち着いた雰囲気を持ちながらも、音楽に対しては柔軟で積極的。サポートメンバーとして呼ばれることも多い。
【陽葵の同級生】
加地 あかり/陽葵の同級生
陽葵の同級生で親友。大人っぽい外見をしている。




