自覚
昨夜のアンコールの余韻が、まだ体のどこかに残っている。
六月の雨は窓を叩き続け、湿気がまとわりつくようで、眠気はまったく抜けなかった。
――今日は、布団に沈んでいたかった。
「お兄ちゃん! 朝だよ!」
陽葵の声が、容赦なく現実を叩きつけてくる。
「……もう少し」
「はい出ました、今日も記録更新中〜」
楽しそうに言いながら、陽葵は布団を剥ぎ取った。冷気が肌に触れ、思わず身震いする。
観念して起き上がり、ふらふらと食卓へ向かう。
味噌汁の湯気が立ちのぼり、雨音と混ざって妙に静かな朝だった。
陽葵が先に家を出ていくと、静けさが戻る。
重い腰を上げ、ようやく学校へ向かう準備を始めた。
雨の通学路には、いくつもの傘が並んでいた。
ぼんやり歩いていると、背後から雨音を弾くような澄んだ声が届く。
「誠くん、おはようございます」
「ああ、環奈か。おはよう」
二つの傘が並んで歩き出す。環奈は指先をいじりながら落ち着かない様子だった。
「どうしたの?」
「い、いえ。昨日のこと……なんだけど」
「『よるのまち』の編曲? あれは俺も驚いたよ。すごかった」
そう言うと、環奈は小さく俯き、靴先を見つめた。
「ライブの話……ではないのだけれど」
そのまま黙り込んでしまう。
何の話だろう、と考えていると——
「あ、あの——」
言いかけた瞬間。
「まことー! 水橋さーん!」
芝崎の能天気な声が、環奈の言葉をかき消した。……本当に、こういう時に限って現れるんだよな。
さっきは芝崎さんに邪魔されてしまったけれど……誠くんに、あのことを聞かないと。
聞かないといけないのに、胸がざわついて言葉にならない。
だから私は、休み時間のたびに誠くんの教室へ足を運んでいる。
でも、いつも芝崎さんが隣にいて呼び出せない。
「仕方ない……お昼休みにまた来よう」
そうつぶやいて教室へ戻った。
──そして昼休み。
意を決して誠くんの教室を覗くと、彼は一人でご飯を食べていた。
今がチャンス……なのに、どう切り出せばいいのかわからない。
「え? 何? それ環奈に関係ある?」
そんなふうに言われたら、どう答えればいいの……?
教室の外から様子を見ては離れ、また近づく。……ああ、完全に不審者だわ。
「水橋さん、何してるの?」
振り返ると、中谷さんが立っていた。
「えっ、中谷さん?」
「須藤くんに用事? 呼んでこようか?」
「い、いえ! 呼ばなくていいです。用事はあるのだけれど……」
どう言えばいいのかわからなくて、もごもご言ってしまう。
ああ、誰か助けて……。
「昨日、共通の知り合いと会って……」
「え? 昨日はデートだったの?」
「ち、違います!」
バンドのことを隠すのは本当に難しい。
「その人が、誠くんと付き合ってないのか他の人に聞かれてて……」
「え? 水橋さんと須藤くんって付き合ってないの?」
「つ、付き合ってません!」
昨日の美月さんも、こんなふうに焦っていた気がする。
「それで……その。誠くんが……。美月さんを……」
「その知り合いの人が美月さんって言うんだね」
しまった。名前を出してしまった。
「はい!」
中谷さんは元気よく手を挙げた。
「な、何でしょう……?」
「水橋さんは須藤くんが美月さん? をどう思ってるのか気になるのかな?」
「ええ……」
「何で須藤くんの気持ちが気になるのかな?」
「え……?」
胸が跳ねた。まるで心の奥を覗かれたみたいで、言葉が出ない。
「そこのところ、詳しく」
中谷さんがじりじり近づいてくる。ああ、どうすればいいの……。
さっきから何してるんだ?
教室の前を行ったり来たりする環奈が気になって仕方ない。
隠れているつもりなんだろうけど……完全に不審者だ。
「お、水橋さんじゃん。」
「水橋さんキレイだよな。何してるんだろ?」
ほら、美人がウロウロしてるから、クラスの男子たちが騒ぎ始めた。
まあ、俺に用事とは限らないし。用事ならいつもみたいに堂々と入ってくるはずだ。
「須藤くん、水橋さんがウロウロしてるよ?」
「本当だ。何してるんだろうね?」
……なんで中谷さん、ちょっと嬉しそうなんだ。
「会いに来たんでしょ?」
「それなら入ってくるでしょ?」
「確かに」
そう言って中谷さんは外へ出ていった。環奈に声をかけに行ったのか……?
しかし、中谷さんは昼休みが終わるまで戻ってこなかった。
「昼休み、環奈と何を話したの?」
帰り支度をしながら中谷さんに聞く。
「え? いや、大したことじゃないよ」
声が上ずっている。……何か隠してるな。
「で、環奈は何してたの?」
「あ、ああ。私を待っててくれたんだよ」
いつの間にそんなに仲良く……?
「それなら入ってくればよくない?」
「角度的に見えにくかったんだって」
角度的に……? なるほど、全然わからん。
中谷さんはそのまま帰っていった。俺も昇降口へ向かうと、環奈が待っていた。
「誠くん。い、一緒に帰りませんか?」
「ああ、いいよ」
……様子が変だ。どこか落ち着かない。
「中谷さんと仲良くなったんだね」
「あ、え? はい……お話ししてます」
なんでそんなに焦るんだ。
「中谷さん、いい人だよな」
「そうですね。優しい人だと思います。……おせっかいでもありますけど」
急に声色が怖くなったな……何があった?
「昼休みも来てただろ?」
「え? なんで知ってるんですか?」
すごいな、バレてないと思ってたのか……?
「いや、みんな気づいてたよ」
「うう……」
顔を赤くして俯く環奈を見て可愛いと思った。
美月さんみたいに、環奈に優しく接してあげたい——そう思った。
ああ、何も言えない。
聞きたいことがあるのに、胸がざわついて言葉にならない。
「そうだ。今度のライブ決まったら教えてよ」
「あ、はい」
誠くんは優しく話しかけてくれる。でも、顔が熱くて上を向けない。
あの人も早く聞いた方がいいって言ってた。……ちゃんと聞かないといけないのに。
「ま、誠くんは——」
喉がきゅっと締まって、言葉がそこで途切れた。
「どうしたの?」
誠くんの声はいつも通り優しいのに、胸がざわついて返事がうまく出てこない。
「い、いえ……誠くんも、ライブ決まったら教えてください……」
「いいよ。来てくれるなら嬉しい」
嬉しいと言われたことが嬉しくて、余計に恥ずかしくなる。
聞きたいことは聞けないまま、駅のホームが見えてくる。
雨音が強まり、私の小さな声はあっさりと掻き消されていった。
そのとき——ふいに誠くんの顔が近づいた。
「環奈、今日ボーっとしてない? ほら、前髪濡れちゃってるよ」
誠くん、睫毛長いな……急に近づいた顔を見てそんな事を考えていた。
髪を切った誠くんの顔は本当にキレイで——
雨の音が遠のき、駅の喧騒も薄れていく。
まるで二人だけがここに取り残されたみたいだった。
「環奈は目が離せないところがあるね」
今なんて言ったの? 心臓の音が大きくて、誠くんに聞こえてしまいそう。
差し出されたハンカチが、視界の端でふわりと揺れる。
受け取って顔を上げると、誠くんの瞳に情けない顔の自分が写っていた。
この気持ちは何だろう?
美月さんに憧れる気持ちとは違う……。
熱くて少し痛い。
「環奈? 大丈夫?」
誠くんの声だけが鮮明に届く。
まだ体温の残るハンカチをぎゅっと握りしめた。
その瞬間、胸の奥で何かがはっきり形になった。
——私は、初めて男の人を好きになったのだと自覚した。
【須藤家】
須藤 誠/17歳・都立星雲高校2年生
マックスでのメンバー登録表名はマコト。
アマチュアバンド「マックス」のヘルプギタリストとして、ライブハウス「Roots」に出演中。
人前では髪を下ろして顔を隠すほどのコンプレックス持ちだが、ギターを握ると別人のように冴える。
静かな日常と熱いステージ、そのギャップが彼の魅力。
須藤 陽葵/15歳・中学3年生
誠の妹で、しっかり者の家庭担当。共働きの両親に代わって家事をこなすスーパー中学生。
兄の通う星雲高校を目指して受験勉強中。兄にはちょっぴり甘えたいけど、素直になれない年頃。
【Critical Clitical 通称:クリクリ】
有栖川 美月/18歳・ヴォーカル担当
Critical Cliticalのメンバー表登録名はミツキ。
ピンクのツインテールにオフショルダーの服がトレードマーク。派手に見えるが、整った顔立ちと圧倒的な存在感で観客を魅了する。
マコトを気に入っていて、何かと“お姉さんぶり”たがるが、時々天然。ステージでは圧倒的カリスマ、オフでは賑やか担当。
宮田 亮/22歳・ギター担当
Critical Cliticalのメンバー表登録名はリョウ。
レスポールを愛用するギタリスト。音とテクニックで観客の心を掴む、クリクリの音楽的屋台骨。
口が悪くて天邪鬼なところがあるが、音楽に対する情熱は誰よりも熱い。ステージでは言葉よりギターが語る。
ケイタ/20歳・ドラム担当
黒髪の長髪にアルカイックスマイルが印象的な、落ち着きのある青年。
正確無比なリズムでバンドを支える縁の下の力持ち。物静かだが、時折鋭い一言で場を動かすタイプ。
水橋 環奈/17歳・ベース担当/都立星雲高校2年生
Critical Cliticalのメンバー表登録名はカンナ。
年齢に似合わぬベーステクニックで“天才少女”と呼ばれる実力派。
高校では物静かで目立たないが、黒髪ロングの美人で、周囲からは羨望の眼差しを受けている。
マコトとは同級生で、淡々とした言動の中に時折見せる優しさが印象的。
ヨネ/35歳・ヘルプでキーボード担当
ミズハシ楽器の社員で、店内では“そこそこ偉い人”として知られる存在。
スーツ姿じゃなくても漂う落ち着きと余裕――その佇まいは、まさに“大人の男”。
クリクリの音に心を動かされ、自ら「手伝わせてほしい」と申し出た。
年齢も立場も違うのに、スタジオでは誰よりも柔らかく、誰よりも鋭く音を見つめる。
時に冗談を交えながらも、音楽に対する姿勢は本物。
「拗ねるとちょっと面倒」と噂されるが、それも含めて愛されている存在。
【マックス】
ヒトシ/ヴォーカル担当
マコトをバンドに誘った張本人で、明るくポジティブな兄貴分。
ライブでは観客を巻き込むパワー型フロントマン。マコトにとっては頼れる先輩であり、良き理解者。
クロ/ドラム担当
ヒトシの相棒で、落ち着いた雰囲気の大人っぽいドラマー。
言葉少なめだが、演奏ではしっかりとバンドを支える。マコトのことも静かに見守っている。
松崎/ベース担当
寡黙で無口なベーシスト。だが、マコトのことをよく気にかけてくれる優しい一面も。
演奏中の安定感は抜群で、マックスの土台を支える存在。
【都立星雲高校】
芝崎/誠と同じクラス
顔良し、友達多し、ノリも軽い。高校生活を全力で楽しむタイプ。
なぜか誠に絡んでくることが多く、軽薄な口調ながらも憎めない存在。
中谷/誠と同じクラス・隣の席
素朴で可愛らしい雰囲気が魅力の女の子。男子から密かに人気があるが、本人はあまり気づいていない。
誠とは隣の席で、時折交わす会話がじんわりと心に残る。
【市田楽器店】
市田/市田楽器店の店長
穏やかな笑顔と落ち着いた声がトレードマークの、街の楽器店の店長さん。
誰にでも優しく、従業員や常連からの信頼も厚い。
リョウのバンド活動を陰ながら応援してくれており、時にはアドバイスをくれることも。
戸田/市田楽器店・アルバイト
高校時代から市田楽器店で働いている、元気で世話焼きな女性スタッフ。
リョウとは同い年ながら、バイト歴ではちょっぴり先輩。
Critical Clinicalの大ファンで、ライブにはほぼ毎回顔を出している。
【ミズハシ楽器】
小松 里菜/ミズハシ楽器・アルバイト
キーボード奏者で、決まったバンドに所属せず活動している。
普段はミズハシ楽器でアルバイトしており、ヨネさんとは面識がある。
落ち着いた雰囲気を持ちながらも、音楽に対しては柔軟で積極的。サポートメンバーとして呼ばれることも多い。
【陽葵の同級生】
加地 あかり/陽葵の同級生
陽葵の同級生で親友。大人っぽい外見をしている。




