水橋環奈
寝不足の目をこすりながら、俺はいつもの通学路を歩いていた。
電車を降りたばかりの頭はまだホワホワしていて、現実感が薄い。
昨日のライブの余韻が、まだ体のどこかに残っている気がする。
「まことー、おはよー!」
背後から、芝崎の軽い声が飛んできた。
こいつは顔もいいし、友達も多い。なのに、なぜか俺に絡んでくる。
……変なやつだ。
「なんだー? 眠そうだな……女か?」
すぐに“女”に結びつけるあたり、芝崎らしい。
「別に女なんか……いや、美月さんの……」
思わず顔が熱くなる。
昨日のステージ、美月さんが俺の名前を呼んだ瞬間が頭から離れない。
「そんなわけないかー! まことだもんな!」
……なかなか失礼なことを言う。
俺が俯いて黙っていると、芝崎は急に食いついてきた。
「え? 女なの……? マジ? どの子? 何組? 何年生?」
矢継ぎ早に質問を浴びせてくる芝崎を、俺は無視して歩き続ける。
そのとき——
芝崎の騒がしい声をかき消すように、澄んだ声が耳に届いた。
「おはよう」
顔を上げると、そこには水橋環奈が立っていた。
「ああ……おはよう」
俺がそう返すと、水橋はスンとした顔で自分の教室へと戻っていった。
「マジかよ……」
芝崎が俺の顔を覗き込んでくる。
「女って、水橋なの……?」
さっきまでの饒舌ぶりが嘘みたいに、芝崎は驚きで言葉を失っていた。
「俺……水橋が男に声かけるの、初めて見た」
そう言い残して、芝崎は教室へと消えていった。
……そんなにすごいことなのか?
教室に入ると、いつものざわめきが耳に届く。
机に突っ伏しても、芝崎の言葉が頭の中でぐるぐる回っていた。
——水橋が男に声をかけるの、初めて見た。
そんなに珍しいことなのか?
俺には、ただの挨拶にしか思えなかった。
でも、周囲の視線が妙に気になる。
ちらちらと、俺の方を見てはヒソヒソと囁く声が聞こえる気がする。
「須藤君、今日……水橋さんに挨拶されたんだって?」
昼休み、隣の席の中谷さんが興味津々に話しかけてきた。
中谷さんは、いわゆる“目立つ美人”ってタイプじゃない。
だけど、どこか素朴で、ふんわりとした雰囲気があって——
気づけば目で追ってしまうような、そんな可愛らしさがある。
男子の間でも、密かに人気があるらしくて、
「中谷って、なんかいいよな」なんて声を、俺も何度か耳にしたことがある。
……わかる気がする。
派手じゃないけど、自然と惹かれる。
そんな女の子だ。
「うん、まあ……」
曖昧に返すと、彼女は目を輝かせて言った。
「すごいじゃん!水橋さんって、誰にでも話しかけるタイプじゃないし、ちょっと憧れの存在っていうか……」
「……そうなの?」
俺は知らなかった。水橋環奈の評価がそこまで高いなんて。
午後の授業が始まっても、集中できなかった。
ノートを取る手が止まり、窓の外に目をやる。
桜の枝が風で揺れている。
その揺れに合わせて、昨日のライブの記憶がまたよみがえる。
「マコトって言うんだね!」
美月さんの声が、まるで春風みたいに耳に届く。
「また一緒にやろう!」
眩しい笑顔が、俺の方を向いている。
でも——ぼんやりしていて、はっきりとは見えない。
もっと近くで見たい。
その願いが胸の奥で膨らんでいく。
——その瞬間。
「コラ!」
頭に軽い衝撃が走った。
どうやら教科書で小突かれたらしい。
「春だからって、授業中に寝るんじゃない」
目の前には、呆れ顔の三輪先生。
教室の空気が一気に現実に引き戻される。
「すいません……」
俺がそう言うと、周囲からクスクスと笑い声が漏れた。
夢の中の美月さんの笑顔と、現実の教室のざわめき。
そのギャップに、少しだけ頬が熱くなる。
——でも、あの声は確かに聞こえた。
夢でも、幻でもいい。
俺の中では、あの瞬間が、ちゃんと生きていた。
放課後、下駄箱へ向かうため階段を下りていた。
窓の外には、夕焼けに染まる空。
その色に目を奪われながら、ぼんやりと考え事をしていた——美月さんのことだ。
「美月さんのこと、好きなの?」
澄んだ声が、突然背後から届いた。
思わず足を止めて振り返る。
「どうだろう?……かっこいいとは思うけどね」
口をついて出た言葉に、自分でも少し驚いた。
すると——
「そうなの!美月さんはカッコいい!」
水橋環奈が、目を輝かせて興奮気味に語っていた。
なぜか得意げな顔で、鼻の孔まで膨らませている。
……いや、なんでお前がそんなに誇らしげなんだよ。
俺の気持ちなのに、なぜか水橋が勝手に盛り上がっている。
このテンションの差、どうしてくれるんだ。
春の風が制服の裾を揺らす。
放課後の校門を抜けた俺と水橋は、並んで歩いていた。
「美月さんのどこがカッコいいと思う?」
急に前のめりになって聞いてくる水橋。目がキラキラしてる。
なんなんだこれは。
俺は少し考えるふりをして、
「やっぱり…あの存在感かな?」
と、正解を探るように答えた。
水橋の方を見ると、彼女は嬉しそうに目を細めて、
「わかってるわね!美月さんは存在感がすごいの」
と、興奮気味に語り出す。
美月さんの話になると、急に饒舌になる水橋。
その様子を見ながら、思わず口にしてしまった。
「美月さんのことだと、そんなに話すんだな」
すると水橋は、はっとしたように顔を赤く染めて、
「ごめん、美月さんのことになると、つい…」
と、恥ずかしそうにうつむいた。
普段は落ち着いてる彼女の、こんな一面を見るのは初めてで、
なんだか少し嬉しかった。
「でも、私なんかが美月さんの隣に立つなんて…」
そう呟いた水橋の横顔は、どこか寂しげだった。
「そんなことないと思うよ。水橋だって人気者じゃないか」
そう言ってみたけれど、彼女はさみしそうな笑顔を浮かべるだけだった。
桜の花びらが、彼女の肩にそっと舞い降りた。
「今日は話を聞いてくれてありがと」
駅の改札前で、水橋はそう言って小さく手を振った。
春の夕暮れ、彼女の背中が人混みに紛れていく。
電車に揺られながら、俺は窓の外をぼんやり眺めていた。
水橋の、あの少し寂しそうな笑顔が頭から離れない。
――あんなにかっこいい美月さんの隣で、俺に演奏する自信なんてあるのか?
自分に問いかけてみるけど、答えはふわふわしていて、どこにも着地しなかった。
家に帰ると、リビングで妹の陽葵が掃除機をかけていた。
「お兄ちゃん、今日は早かったね」
俺の姿に気づいて、ちらりと顔を上げる。
うちは共働きの家庭で、父さんは今出張中。
母さんも帰りが遅いから、夕方はだいたい陽葵と二人きりだ。
「なあ陽葵、カッコいい同性の隣に並ぶ自信がないって思ったことあるか?」
掃除機を止めた陽葵は、ぽかんとした顔で俺を見た。
「何その質問。お風呂でも入ってきたら?」
そう言って、また掃除に戻ってしまった。
晩ご飯の時、陽葵がぽつりと口を開いた。
「その人のこと、すごく憧れてるんでしょ?その同性の人に」
一瞬、何の話かと思ったけど、すぐに水橋のことだと気づいた。
「ああ、そうだな。憧れてる」
俺がそう答えると、陽葵は箸を止めて言った。
「じゃあ、普通自信なんて持てないよ」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
俺が聞くと、陽葵は素っ気なく「そんなこと知らないよ」と言った。
でもそのあと、ふっと笑ってこう続けた。
「でもさ、隣にいてほしいって言ってもらえたら、嬉しいよね」
その言葉が、胸の奥に静かに響いた。
なるほど。そんなこともあるのかもしれない。
妹の何気ない一言が、少しだけ心を軽くしてくれた。




