羽化
鏡に映った自分の姿は、まるで別人のようだった。
ライブ前に髪をまとめたときのような、いつもと違う表情。
いや、それ以上に――この俺は、自信に満ちているように見えた。
「明日……すごいことになるかもしれません」
環奈がこちらを見ながら、ぽつりと呟く。
すごいこと? どういう意味だろう、と前の俺なら首を傾げていただろう。
けれど今は――なぜか俺も、そうなる予感を確かに感じていた。
家に帰ると、陽葵が目を丸くした。
「お兄ちゃん、それ……どうしたの?」
手に持っていたタオルが、ぽとりと床に落ちる。
「いや、前髪が伸びてきたからさ」
そう答えると、陽葵はふっと口角を上げて
「デート……本当にうまくいったんだね」
嬉しそうに笑うその顔に、胸が少し熱くなる。
確かに、それがきっかけなのは間違いない。恥ずかしいけれど。応援してくれている陽葵の視線が温かくて、つい俺も笑みを返してしまった。
翌朝、陽葵が珍しく「駅まで一緒に行こう」と言い出した。少し早く起こされて眠かったけど、いつも世話を焼かせている分、手早く準備をして家を出る。
道すがら、何人か陽葵の同級生に会ったけれど、遠巻きに手を振るだけだった。
――陽葵は学校でも人気があるはずなのに、どうしてだろう? と考えていると。
「おはよー、陽葵と……お兄さん?」
背後から声がして振り返ると、近所に住む加地あかりが立っていた。
加地あかりは陽葵の同級生で、一番仲のいい友達らしい。親友ってことかな。
「あかりちゃんがね」と陽葵が話し始めることも少なくないから、俺の中でも印象に残っている。陽葵より少し大人っぽく見えて、頼りになりそうな子だ。
「おはよー、あかりちゃん」
陽葵に続いて挨拶する。
「お兄さん、そのほうがいいですよ」
あかりはにこっと笑ってそう言った。
「たまには自慢したいからね」
陽葵がそう言うと、あかりもクスクスと笑った。
「……自慢?」
何となく見当はついていたけれど、気づかないふりをして問い返す。するとあかりが、少し照れたように言った。
「他の子が近づかないのは……お兄さんがいて恥ずかしいんですよ?」
「だって――」
その言葉に、ずっと抱えていた俺のコンプレックスが、ほんの少し解けていく気がした。
学校の最寄り駅に着くと、いつも通り学生の波に合流した。しばらく歩いていると、肩を軽く叩かれる。振り向くと――
「おはようございます」
環奈が少し笑みを浮かべて立っていた。
「ああ、おはよ」
そう答えると、環奈は隣に並んできて耳打ちしてくる。
「妹さん、驚いてませんでした?」
「驚いてたよ」
環奈は小さく頷き、さらに囁いた。
「さっき、誠くんのこと噂している女子がいましたよ」
噂――。あかりちゃんの言葉が頭の中でリフレインする。
「だから言ったじゃないですか。すごいことになるかもって」
環奈が嬉しそうに微笑んだ、その瞬間。
「水橋さんと……まこと?」
後ろから芝崎の声が聞こえた。振り返ると、驚いた表情の芝崎が近づいてくる。
「まこと、本当に髪切ったんだな……」
「だって、芝崎が切れって言ったんだろ?」
照れ隠しに抗議すると、芝崎は嬉しそうな顔で言った。
「まこと、やっと吹っ切れたんだな……」
その言葉が温かくて、何だか照れくさくてもごもごしていると――
「やっぱり、水橋さんのおかげだね」
芝崎が笑顔でそう言った。
「私ですか?」
環奈が少し戸惑った顔を見せる。
「だって、こんなにキレイな彼女ができたら、自信もつくでしょ? 水橋さん、本当にありがとう。邪魔しないように先に行くね」
そう言い残して、芝崎は走り去っていった。
「……何だかすごく勘違いされてましたけど、いい人ですね」
環奈のその言葉に、早とちりした間抜けな友人が、なぜか誇らしく思えた。
教室に入ると、クラスメイトたちがざわついた。自分の席に座ると、中谷さんが声をかけてくる。
「おはよう、須藤君。髪、切ったんだね」
「うん、昨日美容室に行ってきたんだ」
そう答えて顔を向けると、中谷さんがふっと笑った。
「やっぱり……キレイな顔」
その言葉に思わず固まる。
「前から思ってたんだよね。前髪で隠してるけど、キレイな顔だなって。というか、クラスのみんなもそう思ってたと思うよ?」
返事に困っている俺を見て、中谷さんは続ける。
「でも、前は顔を隠すようにしてたから……触れちゃダメなのかなって」
「前は、女っぽい自分の顔が嫌いだったから」
「そうなの? 何か心境の変化があったんだね。水橋さんかな?」
「いや、それは……」
否定しようと思ったけれど、環奈にも感謝しているから。
「うん、それもあるかもしれない」
そう言って笑いかけると、中谷さんが目を見開いた。
「そんなふうに笑うんだね。何だか羽化した蝶々みたい」
その言葉に思わず、「ピンクの蝶々」と呟く。
「いや、ピンクじゃないでしょ。アゲハ蝶って感じ? 髪が黒いから?」
中谷さんは楽しそうに笑った。
――俺は、いつか一緒に飛んでいけるのかな。そう思いながら、美月さんのことを考えていた。
――いや、待て。
俺は本当に、美月さんと音楽をやりたいのか?
「Critical Clinical」との作曲は確かに楽しい。美月さんのことは、すごいヴォーカルだって思う。
でも、「マックス」での音楽活動も同じくらい楽しい。みんないい人だし、世話にもなっている。
……俺は、何がしたいんだろう。
美月さんと一緒にいる時間は、とても楽しい。けれど、それと音楽は切り離して考えなきゃいけない気がする。それに、俺は「Critical Clinical」のメンバーってわけでもない。
そんなことをぐるぐる考えているうちに、HRが始まった。
「まあ……今すぐ答えは出ないか」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いて窓の外を眺める。
放課後、教室を出ると環奈が待っていた。
「一緒に帰りましょう」
そう言われて並んで歩きはじめる。
「今度の土曜日に、ケイタさんの作詞した分を作曲していくみたい。誠くんにも来てほしいって……美月さんが言ってたけど、来れる?」
環奈が少し心配そうに尋ねてくる。
「土曜日なら大丈夫だよ。日曜は『マックス』の音合わせだけど」
そう答えると、環奈の瞳がぱっと輝いた。
「再来週の『Roots』に出るんでしょ?」
「そうだね、よろしくね」
俺がそう言うと、環奈は微笑んでーー「楽しみね」と言った。
駅に着くと、環奈は振り返りながら、
「美月さんに、参加できるって伝えておくから」
そう言って、自分の乗る電車のホームへと向かっていく。その背中に手を振り返し、俺も家路についた。
「お兄ちゃん、髪の毛……評判良かったでしょ?」
陽葵が嬉しそうに問いかけてきたので、俺は「まあね」とだけ答えた。
「私も嬉しいよ。お兄ちゃんが、まともな髪型になって」
「え、前のはそんなに変だった?」
「変だよ。あんなに顔を隠すほど前髪伸ばしてたし」
――まあ、そうかもしれない。
「それに暗くて、ちょっと怖い感じに見えたんじゃない? 私はお兄ちゃんの妹だからどんな人か知ってるけど……初めて会う人はそうじゃないでしょ?」
……おっしゃる通りです。
「だから、嬉しいよ」
陽葵が笑顔でそう言ったから、俺もつられて――なんだか嬉しくなった。
翌日から、俺の学校生活は激変した……わけではなかった。
いつも通り、環奈と登下校でバンドの話をして。
芝崎も、いつも通り中谷さんと仲良く俺をからかってくる。
結局、日常は変わらない。
けれど――もっと前に髪を切っておけばよかったかもしれない。そう思えることが、何より嬉しかった。
土曜日、ミズハシ楽器のスタジオに到着すると美月さんが驚いた顔をした。
「マコトちゃん、めっちゃ髪切ったね」
そう言いながら近寄ってきて、俺の周りをぐるりと回りながら眺めてくる。
「いいじゃん、いいじゃん」
まるで品定めでもするように、360度の角度から。
「誠くん、おはようございます」
後から環奈が入ってくると、美月さんはすかさずスマホを渡した。
「カンナ、写真撮って」
俺の横に並んでカメラに向かってピースサイン。
「マコトちゃんも笑って」
そう言われてぎこちなく笑うと、環奈がクスクス笑いながらシャッターを押した。
「楽しそうだね」
ケイタさんがニッコリ笑いながら入ってくる。
「マコトくん、髪の毛似合ってるね」
「ありがとうございます」
大人っぽいケイタさんに褒められると、自然と嬉しくなる。
「ケイタも写真撮る?」
美月さんがそう聞くと、ケイタさんはふふっと笑って手で辞退を示した。
しばらく談笑していると、スタジオの扉が開いて――
「うおっ」
リョウさんの声が響く。
「結構切ったな」
しばらく俺を見た後、にやりと笑って。
「まあ、いいんじゃねえの?」
メンバーが揃ったところで、美月さんが進行を始める。
「ケイタ、歌詞持ってきた?」
「もちろん」
ケイタさんがノートを広げると、全員が一斉に身を乗り出した。
「静かに幕開く 夜の……」
美月さんが読み始める。
「夜の帳? 夜の帳って何?」
「帳だよ。この場合、夜になってあたりが暗くなったことを表しているんだ」
ケイタさんがニコニコしながら答える。
「へえ、帳ね。覚えた」
そう言って再び歌詞を読み始める。
「静かに幕開く 夜の帳が下りて」
「街の光に染まる 孤独な影一つ」
「これはアタシには書けないね」
美月さんはそう言って笑った。
「この曲はムードを出していきたいんだ」
ケイタさんが曲に対する思いを語る。
「ほぉ、どんな感じにするんだ?」
リョウさんの問いに、ケイタさんが答える。
「『She is…』みたいな感じかな?」
「あぁ……」
リョウさんが歌詞を見ながら考え込む。
「シーイズって?」
美月さんが環奈に聞くと、環奈が答えた。
「確か、リョウさんたちが前のバンドでやってた楽曲ですよ」
「じゃあ、それ聞いた方がいいのかな?」
美月さんの問いに――
「いや、聞かない方がいいものができると思いますよ」
俺はそう答えた。
【須藤家】
須藤 誠/17歳・都立星雲高校2年生
マックスでのメンバー登録表名はマコト。
アマチュアバンド「マックス」のヘルプギタリストとして、ライブハウス「Roots」に出演中。
人前では髪を下ろして顔を隠すほどのコンプレックス持ちだが、ギターを握ると別人のように冴える。
静かな日常と熱いステージ、そのギャップが彼の魅力。
須藤 陽葵/15歳・中学3年生
誠の妹で、しっかり者の家庭担当。共働きの両親に代わって家事をこなすスーパー中学生。
兄の通う星雲高校を目指して受験勉強中。兄にはちょっぴり甘えたいけど、素直になれない年頃。
【Critical Clitical 通称:クリクリ】
有栖川 美月/18歳・ヴォーカル担当
Critical Cliticalのメンバー表登録名はミツキ。
ピンクのツインテールにオフショルダーの服がトレードマーク。派手に見えるが、整った顔立ちと圧倒的な存在感で観客を魅了する。
マコトを気に入っていて、何かと“お姉さんぶり”たがるが、時々天然。ステージでは圧倒的カリスマ、オフでは賑やか担当。
宮田 亮/22歳・ギター担当
Critical Cliticalのメンバー表登録名はリョウ。
レスポールを愛用するギタリスト。音とテクニックで観客の心を掴む、クリクリの音楽的屋台骨。
口が悪くて天邪鬼なところがあるが、音楽に対する情熱は誰よりも熱い。ステージでは言葉よりギターが語る。
ケイタ/20歳・ドラム担当
黒髪の長髪にアルカイックスマイルが印象的な、落ち着きのある青年。
正確無比なリズムでバンドを支える縁の下の力持ち。物静かだが、時折鋭い一言で場を動かすタイプ。
水橋 環奈/17歳・ベース担当/都立星雲高校2年生
Critical Cliticalのメンバー表登録名はカンナ。
年齢に似合わぬベーステクニックで“天才少女”と呼ばれる実力派。
高校では物静かで目立たないが、黒髪ロングの美人で、周囲からは羨望の眼差しを受けている。
マコトとは同級生で、淡々とした言動の中に時折見せる優しさが印象的。
ヨネ/35歳・ヘルプでキーボード担当
ミズハシ楽器の社員で、店内では“そこそこ偉い人”として知られる存在。
スーツ姿じゃなくても漂う落ち着きと余裕――その佇まいは、まさに“大人の男”。
クリクリの音に心を動かされ、自ら「手伝わせてほしい」と申し出た。
年齢も立場も違うのに、スタジオでは誰よりも柔らかく、誰よりも鋭く音を見つめる。
時に冗談を交えながらも、音楽に対する姿勢は本物。
「拗ねるとちょっと面倒」と噂されるが、それも含めて愛されている存在。
【マックス】
ヒトシ/ヴォーカル担当
マコトをバンドに誘った張本人で、明るくポジティブな兄貴分。
ライブでは観客を巻き込むパワー型フロントマン。マコトにとっては頼れる先輩であり、良き理解者。
クロ/ドラム担当
ヒトシの相棒で、落ち着いた雰囲気の大人っぽいドラマー。
言葉少なめだが、演奏ではしっかりとバンドを支える。マコトのことも静かに見守っている。
松崎/ベース担当
寡黙で無口なベーシスト。だが、マコトのことをよく気にかけてくれる優しい一面も。
演奏中の安定感は抜群で、マックスの土台を支える存在。
【都立星雲高校】
芝崎/誠と同じクラス
顔良し、友達多し、ノリも軽い。高校生活を全力で楽しむタイプ。
なぜか誠に絡んでくることが多く、軽薄な口調ながらも憎めない存在。
中谷/誠と同じクラス・隣の席
素朴で可愛らしい雰囲気が魅力の女の子。男子から密かに人気があるが、本人はあまり気づいていない。
誠とは隣の席で、時折交わす会話がじんわりと心に残る。
【市田楽器店】
市田/市田楽器店の店長
穏やかな笑顔と落ち着いた声がトレードマークの、街の楽器店の店長さん。
誰にでも優しく、従業員や常連からの信頼も厚い。
リョウのバンド活動を陰ながら応援してくれており、時にはアドバイスをくれることも。
戸田/市田楽器店・アルバイト
高校時代から市田楽器店で働いている、元気で世話焼きな女性スタッフ。
リョウとは同い年ながら、バイト歴ではちょっぴり先輩。
Critical Clinicalの大ファンで、ライブにはほぼ毎回顔を出している。
【ミズハシ楽器】
小松 里菜/ミズハシ楽器・アルバイト
キーボード奏者で、決まったバンドに所属せず活動している。
普段はミズハシ楽器でアルバイトしており、ヨネさんとは面識がある。
落ち着いた雰囲気を持ちながらも、音楽に対しては柔軟で積極的。サポートメンバーとして呼ばれることも多い。
【陽葵の同級生】
加地 あかり/陽葵の同級生
陽葵の同級生で親友。大人っぽい外見をしている。




