楽しまないとな
「ただいま」
リビングのドアを開けると、キッチンで鍋をかき混ぜていた陽葵が顔を出す。
「おかえりー、ご飯は?」
「まだ」
「じゃあ先にお風呂入ってきてよ。もうすぐ出来るから」
言われるままに浴室へ向かい、湯上がりの髪をタオルで拭きながら戻ると、テーブルには夕飯がきれいに並んでいた。
「いただきます」
二人で声を合わせ、箸を手に取る。
食事をしながら、今日の音合わせのことが頭をよぎる。曲が出来上がっていくときの快感が、美月さんの笑顔がよみがえる。
「ずいぶん楽しかったんだね」
陽葵がニヤニヤしながらこちらを覗き込む。
「……まあ、そうだな」
答えながらも、メンバーではない自分の立ち位置に、ほんの少しだけ寂しさが混じる。
「何? 何かあったの?」
陽葵が箸を止め、わざとらしくため息をついた。
「別に……」
「そういう顔してるよ? まあ、何もないならいいけど」
興味なさそうな言い方なのに、不思議と気遣いが伝わってくる。その何気ない一言に、胸の重さがほんの少しだけ軽くなった。
「起きてー、遅れるよ?」
陽葵の声に揺り起こされた日曜日。今日は「マックス」の練習だ。
「今日も練習なんでしょ? ご飯できてるから」
眠い目をこすりながら食卓へ。
納豆にご飯、みそ汁の具は豆腐と揚げ――大豆のフルコースか。
「お兄ちゃん、醤油とって」
……醤油も大豆だっけ。つまらないことを考えながら箸を動かす。
食後、洗面台の前で髪をまとめて出かける準備を整える。
「じゃあ、行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
陽葵の声を背に、玄関を出た。
練習場所は、昨日「Critical Clinical」で使ったミズハシ楽器のスタジオだった。
店に入ると、ヨネさんと目が合う。
「ああ、君は『マックス』のヘルプギタリストだったね」
それだけ言って、すぐに仕事へ戻っていった。
スタジオに向かうと、クロさんと松崎さんがすでに来ていた。
「お、早いね」
「偉いな。ヒトシに見習わせたいよ」
二人が笑いながら声をかけてくる。
「今日は『Limit』やるんですよね?」
『Limit』は最近できた新曲で、次のライブで披露する予定だ。
「ああ、ヒトシがキーボード連れてくるって言ってたよ」
クロさんがそう言って、軽くスティックを振り下ろす。スタジオにドラムの音が響き、練習の始まりを告げていた。
「お前ら早いね」
時間ギリギリにヒトシさんがスタジオへ入ってきた。
「ヒトシが遅い」
クロさんがぼそっと呟く。その後ろから、俺と同い年くらいの女の子が姿を見せた。
「今回のライブを手伝ってくれる、小松里菜さんだ」
紹介されると、小松さんは一歩前に出て――
「小松です、よろしくお願いします」
恥ずかしそうに声を落とす。
「じゃあ早速始めたいから、各々楽器に着いて」
「最初は『Limit』からね」
クロさんの合図で、俺はギターの音を鳴らし始めた。
この曲はギターだけでイントロが始まり、徐々に他の楽器が重なっていく。「マックス」のグルーヴ感を活かすために、俺が提案した入りだ。
やがてドラム、ベース、キーボードが加わり、音が厚みを増していく。
その瞬間、小松さんの顔色が変わった。
――きっと、この曲の凄さを感じてくれたのだろう。
そう思いながら、俺は指先に力を込めて演奏を続けた。
「時にはつらいこともあるけど――」
Cメロに入ると、キーボードの音が重なる。ピアノの柔らかな響きが静かな盛り上がりを作り出していく。
だが、サビに戻るとキーボードの出番はなくなる。一回目の通しが終わったところで、俺は小松さんに声をかけた。
「サビでもキーボード入れられませんか?」
突然の提案に、小松さんは少し驚いたように目を瞬かせる。
「えっと……サビですか?」
考え込むように視線を落とし、やがて鍵盤に指を置いた。
音が広がり、曲全体を包み込むように響く。――ヨネさんの作り方に、少し似ているなと思った。
「いいですね。それ入れて、もう一回やりませんか?」
俺の言葉に、ヒトシさんが笑顔で頷く。
二回目の通しが終わると、小松さんはサビ部分を何度も確認していた。
「納得いきませんか?」
声をかけると、彼女は小さく首を振る。
「どうしても上手くいかなくて……」
今のままでも十分だと思うけど――
そう考えながら外を見ると、ヨネさんの姿が目に入った。俺は外へ出て近づく。
「少しだけ、お知恵を借りれませんか?」
「仕事中だよ?」
そう言いながらも、ヨネさんは嬉しそうに後をついてきてくれた。
スタジオに戻ると、小松さんの表情が一瞬で固まる。
「よ、米山マネージャー!?」
驚きの声を上げたまま、彼女は完全にフリーズしてしまった。
「小松くんか? 今日は『マックス』の手伝いだったのか」
ヨネさんも少し驚いた様子だったが――一番驚いていたのは、たぶん俺だ。米山マネージャー? 店舗のマネージャーなんだ……米山っていうのか。
「ヒトシ、一回聞かせてみてよ」
ヨネさんの言葉に、ヒトシさんがみんなへ合図を送る。通しで演奏が始まり、ヨネさんは腕を組んでじっと耳を傾けていた。
演奏が終わると、彼は小松さんに歩み寄り、いくつかアドバイスを口にする。
「あ、そうか」
小松さんは短く答えると、すぐに鍵盤へ指を走らせた。音と音が繋がり、まるで一緒に駆け出していくような――そんなイメージが広がっていく。
「もう大丈夫そうだね」
ヨネさんがそう言ってスタジオを後にすると、ヒトシさんが再び合図を出した。
「もう一回通してみようか」
再び音が重なり、曲が動き出す。演奏しながら、誰もが同じことを思っていた。
――この曲は、イケる。
その後も何曲か練習して、次のライブに向けて話し合いをした。
「俺が考えてるのは――二週間後の土曜日、『Zack's』だな」
ヒトシさんがそう言って、予定表をメンバーに配った。
「考えてるってことは、他にも候補があるのか?」
クロさんが問いかけると、ヒトシさんは「まあな」と短く答え、もう一枚の予定表を取り出す。
「同じ日の『Roots』だ。『サンパニ』の予定だった枠が空いた」
『サンパニ』――正式には『サンデーパニック』というバンドの略称だ。
「対バン相手は『Critical Clinical』だ」
その名前を聞いた瞬間、気づけば俺の口から言葉が飛び出していた。
「……それ、やりたいです」
普段は次の予定に口を出すことなんてない“ヘルプ”の俺が意見を言ったものだから、ヒトシさんたちは一瞬驚いたように目を見合わせた。
だが、しばらく沈黙が流れたあと――クロさんが口元を緩めて言った。
「じゃあ、やるか」
「じゃあ――『Roots』で決定だな。マコトが意見を出すなんて珍しい」
ヒトシさんがそう言って、じっとこちらを見てくる。
「『Limit』は……いい曲です。それを、美月さんたちに聞かせたいんです」
俺がそう口にすると、ヒトシさんは一瞬、面食らったように目を瞬かせた。
「美月さんたち……か」
小さく呟いたあと、ふっと笑みを浮かべる。
「よし、クリクリを驚かせようぜ!」
その笑顔に、胸の奥が少し熱くなる。
――練習が終わった帰り道。
並んで歩いていると、ヒトシさんがふいに声をかけてきた。
「マコト、最近クリクリの手伝いしてるんだろ?」
思わず驚いた顔をすると、ヒトシさんは頬を緩めて笑う。
「ヨネさんに聞いたんだよ」
その声はいつになく優しかった。
「どうだ? クリクリは」
「すごいバンドです。作曲を少し手伝わせてもらったんですけど……」
そう答えると、ヒトシさんは何か言いかけて、少し考え込むように間を置いた。
「それで? 手伝ってみてどうだった?」
「集中力がすごいというか……曲が生まれる瞬間が、目に見えるんです」
ヒトシさんはうんうんと頷き、微笑みを浮かべる。
「いい経験になりました」
俺がそう言うと、ヒトシさんは俺の頭をポンポンと軽く叩いた。
「楽しかったか?」
「はい。すごく楽しかったです」
「それは良かった。――楽しまないとな」
そう言って笑うヒトシさんの横顔が、街灯に照らされてやけに眩しく見えた。
翌朝。いつもの通学路で、前を歩く芝崎の背中を見つけた。
「おはよう」
声をかけると、振り返った芝崎がニヤリと笑う。
「マコトさぁ、あんなキレイな彼女できたんだから、髪くらい切れよ」
……キレイな彼女? 環奈のことか?
「いや、環奈は彼女とかじゃ――」
「駅前の美容室いいぞ。行ってみろよ」
否定の言葉は、芝崎の声にかき消される。
「髪か……でもこれ、落ち着くんだよね」
「マコトは落ち着くかもしれないけど、隣に並ぶ女の子のことも考えないと」
その一言に、美月さんの姿が脳裏に浮かぶ。
カレー屋に行った日は髪をまとめたけど。やっぱり、もう少し短くした方がいいのだろうか……?
「そうだね、考えておくよ」
「水橋さんも喜ぶと思うよ」
ぐぬぬ……羨ましいのポーズで、血を吐きそうな声をふり絞る芝崎だった。
昼休み。俺はスマホで髪型を検索していた。
「髪、切るんですか?」
「ああ――びっくりした。環奈か」
突然声をかけられて肩を跳ねさせる俺。その反応に、環奈は満足そうに笑みを浮かべていた。
「いや、髪伸びたし」
「いつも前髪で顔を隠すようにしてますしね」
「……まあ、そうなんだけど」
「でも、結構切るつもりなんですね」
環奈が関心ありげに覗き込んでくる。
「もう少し短い方が、一緒に歩いてても恥ずかしくないだろ」
そう言った瞬間、環奈の頬が赤く染まった。
「今のままでも、恥ずかしいとは思いませんよ」
――え? そうなの? カレー屋に行く時、隣を歩いていた美月さんも本当は恥ずかしかったのでは? と心配したんだけど…。
いや、違うな環奈は育ちもいいし優しいからそう言ってくれるんだ。
「ライブの時は髪をまとめてるし……切っちゃってもいいかなって」
本当は美月さんの前で少しでも格好つけたいだけだった。でも、そんなことを口に出すのは照れくさくて、曖昧に誤魔化してしまう。
「放課後にでも、美容室に行ってこようかな」
俺がそう呟くと、環奈の瞳がぱっと輝いた。
「それ、私もついていきます」
まるで子供のように嬉しそうな笑顔で、そう言ったのだ。
放課後、俺は環奈と一緒に美容室へ向かった。
美容師さんに「どこまで切りますか?」と聞かれて、前髪は思い切ってバッサリ。背中まで伸びていた後ろ髪も、肩まで短くすることにした。
「もっと切った方がいいですよ」と美容師さんに勧められたけれど――勇気が出なかった。
鋏が入ると、隣に座っていた環奈が「あ、もう少し軽めで」とか「前髪はこっちの方がいいです」なんて、あれやこれやと注文をつけてくれる。
正直、美容室なんて初めてで緊張していたから、その存在は本当にありがたかった。
やがて髪を切り終えると、環奈は頬を赤く染めながら俺を見て、ぽつりと呟いた。
「これは……明日、すごいことになるかも」
【須藤家】
須藤 誠/17歳・都立星雲高校2年生
マックスでのメンバー登録表名はマコト。
アマチュアバンド「マックス」のヘルプギタリストとして、ライブハウス「Roots」に出演中。
人前では髪を下ろして顔を隠すほどのコンプレックス持ちだが、ギターを握ると別人のように冴える。
静かな日常と熱いステージ、そのギャップが彼の魅力。
須藤 陽葵/15歳・中学3年生
誠の妹で、しっかり者の家庭担当。共働きの両親に代わって家事をこなすスーパー中学生。
兄の通う星雲高校を目指して受験勉強中。兄にはちょっぴり甘えたいけど、素直になれない年頃。
【Critical Clitical 通称:クリクリ】
有栖川 美月/18歳・ヴォーカル担当
Critical Cliticalのメンバー表登録名はミツキ。
ピンクのツインテールにオフショルダーの服がトレードマーク。派手に見えるが、整った顔立ちと圧倒的な存在感で観客を魅了する。
マコトを気に入っていて、何かと“お姉さんぶり”たがるが、時々天然。ステージでは圧倒的カリスマ、オフでは賑やか担当。
宮田 亮/22歳・ギター担当
Critical Cliticalのメンバー表登録名はリョウ。
レスポールを愛用するギタリスト。音とテクニックで観客の心を掴む、クリクリの音楽的屋台骨。
口が悪くて天邪鬼なところがあるが、音楽に対する情熱は誰よりも熱い。ステージでは言葉よりギターが語る。
ケイタ/20歳・ドラム担当
黒髪の長髪にアルカイックスマイルが印象的な、落ち着きのある青年。
正確無比なリズムでバンドを支える縁の下の力持ち。物静かだが、時折鋭い一言で場を動かすタイプ。
水橋 環奈/17歳・ベース担当/都立星雲高校2年生
Critical Cliticalのメンバー表登録名はカンナ。
年齢に似合わぬベーステクニックで“天才少女”と呼ばれる実力派。
高校では物静かで目立たないが、黒髪ロングの美人で、周囲からは羨望の眼差しを受けている。
マコトとは同級生で、淡々とした言動の中に時折見せる優しさが印象的。
ヨネ/35歳・ヘルプでキーボード担当
ミズハシ楽器の社員で、店内では“そこそこ偉い人”として知られる存在。
スーツ姿じゃなくても漂う落ち着きと余裕――その佇まいは、まさに“大人の男”。
クリクリの音に心を動かされ、自ら「手伝わせてほしい」と申し出た。
年齢も立場も違うのに、スタジオでは誰よりも柔らかく、誰よりも鋭く音を見つめる。
時に冗談を交えながらも、音楽に対する姿勢は本物。
「拗ねるとちょっと面倒」と噂されるが、それも含めて愛されている存在。
【マックス】
ヒトシ/ヴォーカル担当
マコトをバンドに誘った張本人で、明るくポジティブな兄貴分。
ライブでは観客を巻き込むパワー型フロントマン。マコトにとっては頼れる先輩であり、良き理解者。
クロ/ドラム担当
ヒトシの相棒で、落ち着いた雰囲気の大人っぽいドラマー。
言葉少なめだが、演奏ではしっかりとバンドを支える。マコトのことも静かに見守っている。
松崎/ベース担当
寡黙で無口なベーシスト。だが、マコトのことをよく気にかけてくれる優しい一面も。
演奏中の安定感は抜群で、マックスの土台を支える存在。
【都立星雲高校】
芝崎/誠と同じクラス
顔良し、友達多し、ノリも軽い。高校生活を全力で楽しむタイプ。
なぜか誠に絡んでくることが多く、軽薄な口調ながらも憎めない存在。
中谷/誠と同じクラス・隣の席
素朴で可愛らしい雰囲気が魅力の女の子。男子から密かに人気があるが、本人はあまり気づいていない。
誠とは隣の席で、時折交わす会話がじんわりと心に残る。
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【市田楽器店】
市田/市田楽器店の店長
穏やかな笑顔と落ち着いた声がトレードマークの、街の楽器店の店長さん。
誰にでも優しく、従業員や常連からの信頼も厚い。
リョウのバンド活動を陰ながら応援してくれており、時にはアドバイスをくれることも。
戸田/市田楽器店・アルバイト
高校時代から市田楽器店で働いている、元気で世話焼きな女性スタッフ。
リョウとは同い年ながら、バイト歴ではちょっぴり先輩。
Critical Clinicalの大ファンで、ライブにはほぼ毎回顔を出している。




