ぐぬぬ…羨ましい
「頑張ったね、マコトくん」
ケイタさんが、いつもの柔らかい笑顔でそう言った。
コーヒーを一口飲む。リョウさんはタバコを吸いに外へ出て行ったままだ。
「ほら、リョウさん。顔が少し怖いからね」
ケイタさんが冗談めかして言うと、俺は心の中でそっとツッコんだ。
いや、顔だけじゃないと思います…。
「でも、私たちも作詞するってことですよね?」
水橋が、どこか不安げに眉を寄せながら言った。
「僕は作詞したことあるよ。カンナさんはないの?」
「いや…その、作詞自体はしてみたことありますけど」
言葉を探すように答える水橋に、美月さんが笑顔で割って入る。
「じゃあ、後はリョウくんだけだね」
ちょうどそのタイミングで、リョウさんが戻ってきた。
ドアを開けて入ってくる彼は、煙の匂いをまとったまま、無言で椅子に腰を下ろす。
「あ、俺が何だって?」
「俺だって作詞くらいはしたことあるぞ」
「じゃあ問題ないじゃん!」
「いや、それで?結局美月が作るんだろ?何か変わるのか?」
「メロディは美月さんメインで作ることになると思いますが、曲はみんなでやりましょう」
そう言うと、リョウさんは手で顔を覆って、深く息を吐いた。
「言ったんだから、最後までやり切ってくれよ」
その言葉に、美月さんの笑顔がふわりと広がる。
「じゃあ、次の音合わせまでに各々1曲は作詞してくる事」
「それでいいな?」
リョウさんがこちらを見てくる。俺は黙って頷いた。
「じゃあ今日は解散だな」
「そうですね、時間も遅くなってますし」
ケイタさんの言葉に時計を見れば、夜の10時。
これは帰ったら陽葵に何か言われそうだな…
「アタシはカンナんちに泊っていくよ」
美月さんの言葉に、水橋の表情がぱっと明るくなる。
水橋邸を出てから、駅までの道は静かだった。
男3人、並んで歩く。誰も口を開かない。
会話がないのに、妙に空気が重い。いや、俺が勝手に緊張してるだけかもしれない。
リョウさんは前を向いたまま、無言。
ケイタさんはスマホをちらっと見て、またポケットにしまった。
俺はというと、何か話さなきゃと思いながら、喉が詰まって言葉が出てこない。
駅の改札前で、リョウさんが僕の肩を軽く小突いた。
「美月が言ってんだ、頼むわ」
それだけ言って、彼は改札の向こうへ消えていった。
「よろしくね」
ケイタさんも、穏やかな声を残して帰っていく。
残された駅前の空気は、少しだけ温かかった。
「あ、帰ってきた。」
玄関を開けた瞬間、リビングのソファからジト目が飛んできた。
陽葵が腕を組んで、じっとこちらを見ている。
「さっさとお風呂入って寝たら?ご飯食べたんでしょ」
「…ああ」
言いながら通り過ぎようとした瞬間、袖口がきゅっと引っ張られた。
振り返ると、陽葵が視線を逸らしながら口を開く。
「で?デートは上手くいったの?」
「……あ、ああ。まあ、上手く行ったんじゃないかな」
なんとなく気恥ずかしくて、曖昧に答えると、陽葵は「へえ」とだけ言って袖を離した。
そのままお風呂へ向かおうとした俺は、ふと思い出して振り返る。
「あ、そうだ。陽葵にも会ってみたいって言ってたよ」
「へぇ、何それ」
さっきまでのジト目が嘘みたいに、陽葵はふわっと笑った。
その笑顔が、なんだか妙にくすぐったくて、俺はそそくさと風呂場へ逃げるように歩き出した。
ゴールデンウィークが終わって、街にいつもの朝が戻ってきた。
窓の外は晴れ。少し湿った風がカーテンを揺らしている。
「お兄ちゃん、先に行くから。鍵かけてねー」
陽葵がそう言って、玄関のドアを開ける。
制服のスカートがふわりと揺れて、陽葵はいつものように軽やかに出て行った。
「……ああ、今日からまた学校か」
俺は独り言みたいに呟いて、のろのろと支度を始める。
連休の余韻を引きずった体を引きずるように、家を出た。
最寄り駅を降りると、制服姿の生徒たちが波のように流れていく。
その中に紛れて歩いていると——
「おはよう」
透き通った声が、背中越しに届いた。
振り返ると、水橋環奈が立っていた。
朝の光を受けて、髪がきらりと揺れる。
「ああ、おはよう。作詞はできた?」
俺がそう言うと、水橋はぴくりと肩をすくめた。
「うっ、出来てはいるのだけど……」
言葉の途中で、彼女の頬がほんのり赤く染まる。
その様子がなんだか新鮮で、俺は少しだけ口元が緩んだ。
「何?納得できてないの?」
そう尋ねると、水橋は視線を落として、靴の先を見つめる。
「そうではないのだけれど……」
声は小さく、でも確かに届いた。
彼女の言葉の奥にあるものが、なんとなく気になって、俺は歩調を合わせながら黙って隣を歩いた。
教室に入ると、芝崎がじと〜っとした目で俺をロックオンしてきた。
「最近さ、水橋と仲良くね?」
「まあ、友達だし?」
「いーや!最近の距離感、友達の域を超えてる!」
うわ、朝から騒がしいなコイツ…。
「いやいや、騒がしくないね!マコト、何か隠してるでしょ?」
心の中に土足で踏み込むなよ…。
「本当に何もないってば」
「ぐぬぬ…羨ましい!」
素直すぎるだろ。自由人か。
そこへ、なぜか中谷さんが参戦してきた。
「須藤くんと話してる時の水橋さん、ちょっと可愛かったよ」
え、見てたの!? いつの間に!?
「ぐぬぬ…羨ましい!」
芝崎とハモるな。しかも声デカいし、語彙力どこ行った。ちょっと泣いてるし。
「そこまでのことか?」
俺がぽつりと呟くと、芝崎と中谷さんが目を合わせて、同時にため息。
そして「この鈍感め…」的なジェスチャー。
え、俺が悪いの?俺がおかしいの?仲良いね君たち。
チャイムが鳴って、朝のホームルームが始まった。
俺の平穏な一日は、今日も始まる前から騒がしい。
昼休み。廊下側の席に座っていた浜野さんが、俺の席までひょこっとやってきた。
「水橋さんが呼んでるよ」
そう言って、さらっと去っていく。
席を立って廊下へ向かう途中、視界の端に入った中谷さんと芝崎が、揃って「ぐぬぬ…羨ましい」顔をしていた。いや、本当に仲良いね君たち…。
廊下に出ると、水橋が少し申し訳なさそうに立っていた。
「呼び出してしまって、ごめんなさい」
「いや、別にいいけど。どうしたの?」
「美月さんから連絡があって、今日集合するから須藤君も連れてきてほしいって」
俺がちょっと驚いた顔をすると、水橋は不安そうに首を傾げた。
「何か用事あった?」
「いや、大丈夫。で、集合場所は?」
「今回は近くのスタジオ。って言っても、うちの店なんだけど」
ああ、ミズハシ楽器のスタジオか。なるほど。
「わかった。行くって伝えておいて」
「ありがとう」
そう言って、水橋はふわっと笑って自分の教室へ戻っていった。
俺も教室に戻ろうと振り返ると——
芝崎と中谷さん以外にも、何人かが「ぐぬぬ…羨ましい」ポーズをとっていた。
いや、流行ってるのそれ?俺の昼休み、静かに終わる気配はゼロだった。
放課後、下駄箱の前で水橋が待っていた。
また誰かに見られてる気がして、キョロキョロしながら近づくと──
「なんですか? そんなに私と帰るのが恥ずかしいんですか?」
ちょっと拗ねた顔で、水橋が言った。
「いや、違うよ。水橋は人気者だからさ」
そう返すと、水橋はふいに顔を赤くして、
「……またそんなこと言って」
と、照れ笑いを浮かべた。
校舎を離れる頃、水橋がふと立ち止まって、
「人気者は須藤くんじゃない?」
と、校舎の窓を指さした。
その方向を見ると──うちのクラスの窓から、芝崎と中谷さんを含む数人のクラスメイトが、「ぐぬぬ…羨ましい」のポーズを決めていた。
……いや、それ本気で流行りそうだね。
「で、水橋は今日の集合理由、聞いてる?」
駅までの道を並んで歩きながら尋ねると、水橋は少し考えるような顔をした。
……何かトラブルでも起きたのか? と、内心ハラハラして見守っていると──
「バンドのときは、“カンナ”の方が自然じゃない?」
ぽつりと、まさかの方向から返ってきた。
いや、そっちかよ。
「私も“誠くん”って呼ぶし。美月さんたちも、その方が分かりやすいと思うのよ」
なるほど。基準はやっぱり美月さんか。
「ああ、わかったよ。じゃあ──環奈は、今日の集合理由、何か聞いてる?」
呼び方を切り替えてみると、環奈はぱっと表情を明るくして、
「いいえ、何も聞いてないわ」
と、楽しそうに笑った。
スタジオのある駅まで行くって聞いたから、ふと思って尋ねた。
「ベース、取りに帰らなくていいのか?」
すると環奈は、あっさりとした口調で答える。
「大丈夫。練習用のベース、お店に置いてあるから」
……金持ちめ。
「何かしら? そのポーズ」
しまった。無意識に「ぐぬぬ…羨ましい」のポーズを取っていたらしい。
「な、何でもないよ。ギターは持っていかなくて平気かな?」
「大丈夫。お店に貸してくれるのがあるから」
そう言って、環奈がふわりと微笑んだ。
スタジオに着くと、Critical Clinicalのメンバーはすでに揃っていた。
扉を開けた瞬間、美月さんの笑顔が視界いっぱいに広がる。
「待ってたよー!はじめちゃおう!」
その眩しさに、思わず見とれてしまう。
何度見ても、胸の奥がざわつくのは変わらない。
「誠くん、ギター取りに行きましょう」
環奈がそう言って、軽く手を振る。俺は荷物を置いて、彼女のあとを追った。
機材置き場でギターを手に取り、スタジオへ戻る途中――
ふと視線を感じて顔を上げると、美月さんがこちらを見ていた。
気のせいかもしれない。でも、目が合った気がした。
「……あれ?環奈のベースは?」
俺がそう尋ねると、環奈は少しだけ首を傾けて答えた。
「お店の方に置いてるから、取ってきます」
そう言ってドアに向かおうとした瞬間、美月さんが環奈の腕をそっと掴んだ。
「ねえ、なんで急に名前呼びなの?」
その声は、冗談めいているようで、どこか探るような響きがあった。
「みんな名前で呼んでるのに、名字で呼び合ってるとややこしいと思って」
環奈がそう答えると、美月さんは一瞬だけ目を丸くして――
「そ、そうだよね。確かに、ややこしいわ」
と、少し焦ったように笑って、頬を赤く染めた。
その仕草が妙に可愛くて、俺は何も言えずに視線を逸らす。
環奈がベースを取りに出て、戻ってくると、美月さんが手を叩いて言った。
「みんな作詞してきたかなー?」
リョウさんが「はぁ…」とため息混じりに答え、環奈は「はい」と丁寧に返事する。
ケイタさんは「してきたよ」とニコニコしていて、なんだか一人だけ余裕そうだ。
「みんな偉いねー、じゃあ最初はリョウくんから!」
美月さんの明るい声に、リョウさんが「げっ!?」と声を上げる。
「俺からかよ…」
「リョウくんはリーダーなんだから」
「へいへい…」
そう言って、リョウさんはカバンから一冊のノートを取り出した。
表紙は少し擦れていて、何度も開いた跡がある。
その手つきは、どこか照れくさそうで、でも少しだけ誇らしげだった。
ページがめくられる瞬間、スタジオの空気がふっと静かになる。
みんなの視線が、リョウさんのノートに集まっていた。
――どんな言葉が綴られているんだろう。
少しだけ、胸が高鳴った。
【須藤家】
**須藤 誠/17歳・都立星雲高校2年生**
マックスでのメンバー登録表名はマコト。
アマチュアバンド「マックス」のヘルプギタリストとして、ライブハウス「Roots」に出演中。
人前では髪を下ろして顔を隠すほどのコンプレックス持ちだが、ギターを握ると別人のように冴える。
静かな日常と熱いステージ、そのギャップが彼の魅力。
**須藤 陽葵/15歳・中学3年生**
誠の妹で、しっかり者の家庭担当。共働きの両親に代わって家事をこなすスーパー中学生。
兄の通う星雲高校を目指して受験勉強中。兄にはちょっぴり甘えたいけど、素直になれない年頃。
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【Critical Clitical】
**有栖川 美月/18歳・ヴォーカル担当**
Critical Cliticalのメンバー表登録名はミツキ。
ピンクのツインテールにオフショルダーの服がトレードマーク。派手に見えるが、整った顔立ちと圧倒的な存在感で観客を魅了する。
マコトを気に入っていて、何かと“お姉さんぶり”たがるが、時々天然。ステージでは圧倒的カリスマ、オフでは賑やか担当。
**宮田 亮/22歳・ギター担当**
Critical Cliticalのメンバー表登録名はリョウ。
レスポールを愛用するギタリスト。音とテクニックで観客の心を掴む、クリクリの音楽的屋台骨。
口が悪くて天邪鬼なところがあるが、音楽に対する情熱は誰よりも熱い。ステージでは言葉よりギターが語る。
**ケイタ/20歳・ドラム担当**
黒髪の長髪にアルカイックスマイルが印象的な、落ち着きのある青年。
正確無比なリズムでバンドを支える縁の下の力持ち。物静かだが、時折鋭い一言で場を動かすタイプ。
**水橋 環奈/17歳・ベース担当/都立星雲高校2年生**
Critical Cliticalのメンバー表登録名はカンナ。
年齢に似合わぬベーステクニックで“天才少女”と呼ばれる実力派。
高校では物静かで目立たないが、黒髪ロングの美人で、周囲からは羨望の眼差しを受けている。
マコトとは同級生で、淡々とした言動の中に時折見せる優しさが印象的。
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【マックス】
**ヒトシ/ヴォーカル担当**
マコトをバンドに誘った張本人で、明るくポジティブな兄貴分。
ライブでは観客を巻き込むパワー型フロントマン。マコトにとっては頼れる先輩であり、良き理解者。
**クロ/ドラム担当**
ヒトシの相棒で、落ち着いた雰囲気の大人っぽいドラマー。
言葉少なめだが、演奏ではしっかりとバンドを支える。マコトのことも静かに見守っている。
**松崎/ベース担当**
寡黙で無口なベーシスト。だが、マコトのことをよく気にかけてくれる優しい一面も。
演奏中の安定感は抜群で、マックスの土台を支える存在。
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【都立星雲高校】
**芝崎/誠と同じクラス**
顔良し、友達多し、ノリも軽い。高校生活を全力で楽しむタイプ。
なぜか誠に絡んでくることが多く、軽薄な口調ながらも憎めない存在。
**中谷/誠と同じクラス・隣の席**
素朴で可愛らしい雰囲気が魅力の女の子。男子から密かに人気があるが、本人はあまり気づいていない。
誠とは隣の席で、時折交わす会話がじんわりと心に残る。
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【市田楽器店】
**市田/市田楽器店の店長**
いつも温和な人柄で、従業員にも好かれている。リョウのバンド活動を応援してくれている。
**戸田/市田楽器店・アルバイト**
高校生の頃から市田楽器店で働いている。リョウと歳は同じだがバイトとしては先輩。
Critical Clinicalのファンでよくライブに来てくれる。




