第44ターン目 夢を 怖れるな 暖かい光は 誰の為に
「ああっ、カスミさんがっ!」
「……く」
身体を徐々にぶくぶくと泡立つように肥大化させるナイトメア。
身体から数え切れないほどの触手がキョンシーに次々と取り付いていく。
キョンシーは抵抗する間もなく、四肢を触手で縛られた。
彼女はそれでも必死に抗う。
想いの力は、なにも衰えはしない。
「kutolururururuuurururururuuruuuuu!」
ナイトメアの意味の判然としない唸り声、マールは恐れ慄き愕然と震えてその場から一歩も動くことは出来なかった。
キョンシーの目の前には一本の触手、触手の先端は「くぱぁ」と口のように開いた。
そのまま触手はキョンシーの口に飛び込む。
「んぐ!?」
キョンシーの身体の中に侵入した触手に内蔵を圧迫され、腹部が大きく肥大化。
マールの視線は震え、この世の地獄を痛感していた。
あぁ豊穣神様、これも貴方の与え給うた【困難】なのでしょうか。
試練だとすれば、なんと残酷なのでしょう。
マールは怯えきっている、このままでは内側からキョンシーは無残に爆散、マールは血の雨を全身に浴びるだろう。
だから……なのか?
マールは気がつくと、錫杖を握り込んでいた。
彼はまだ、手に持っていた食べかけの赤い果実が、錫杖に変わっていたことに気づいていない。
ナイトメアはキョンシーがもはや抵抗する力もないと気づくと、地獄の底から響く地鳴りのような笑い声を上げた。
特大の触手は、キョンシーの頭上で肉の花を咲かす。
そのまま触手はキョンシーを飲み込んだ。
「カスミさんっ!」
「boggyyyyyyyyyyyy、マール、次はお前ダ」
「あ、あぁ……!」
マールは顔を青くして、竦み上がった。
だが……何故だろうか、その足は後ろに下がるどころか、前に一歩進んでいた。
訝しんだのはナイトメアの方だった。
ナイトメアはマールを知らない。
誰もがマールが泣き虫かつ臆病で無力な少年だと思っている。
それは半分正解で、実際マールは泣き虫で臆病だ、だが無力ではない。
彼はいつ諦めた? レッドドラゴンに不幸にも遭遇し、死にかけ……ダンジョンの深層に突き落とされても、彼は諦めなかった。
怪しいリビングアーマー、正体もよく分からない魔女、何故自分に懐くのかも分からないキョンシー、彼の周りには理不尽の連続だ。
それでも彼は、地上へと戻るという夢を諦めたことはない。
皆がいるから、皆と一緒なら、なにを怖れる必要がある。
「すぅ……はぁ、豊穣神様、どうかこの哀れな子羊に少しだけ勇気を下さいませ」
彼の手は震えている、その証拠に両手で縋る錫杖の先端に付けられた金属製のリングがジャラジャラ鳴っていた。
そんな敬虔な信徒に、どうして女神はそっぽを向けるだろうか。
自分を省みて、それでも彼なりになんとかしようと足掻いて。
その最期に神に縋ってなにが悪い。
彼は、女神も驚くほど諦めは悪い方だ。
ただ勇気がちょっぴりだけ、足りない。
だからこそ、女神は敬虔な少女のような子の背中を、そっと暖かく――叩いた。
「ん、あ」
高揚感、マールは頬を赤く染め上げ、心の中から勇気が湧いてきた。
神様の加護、だと今だけは本気で信じたい。
見えない触れない、それでも人は神を信じる。
たとえ心の中の偶像だとしても、今マールの手は汗が滲むほど熱かった。
「ッ! カスミさんを離せーーーーーーっ!!!!!」
彼は錫杖を大きく振るう。
しゃん、しゃん、と神聖な音が空間に響いた。
それはマール自身の心の力、すなわち想いである。
自分が傷つくことはきっと我慢できる。
でもボクの為に誰かが傷ついてどうして平然としていられる。
そんなのは全っ然男らしくないっ!
マールの想いの力は、ナイトメアに浸透するように響き渡った。
ピシピシと、全身がひび割れ、キョンシーを捕縛する触手は粉々に砕け散った。
落下するキョンシー、マールは急いでキョンシーを受け止め……きれず、大きなお尻に踏み潰された。
「むぎゅ……!」
「あり、がとう……ご主人、様」
「あ、あはは……格好悪いなぁボク、男らしく抱きしめてあげたいのに」
「うう、ん。ご主人、様、格好、いい」
「ふえ? そ、そんなことないよぉ、えへへっ」
やっぱり、マールはマールだ。
褒められて謙遜しているように見えて、だらしなく口角を歪めて照れている。
当たり前の喜怒哀楽、怒られたら悲しくて、褒められたら嬉しくて、誰かの為に共感できる。
誰かの為に勇気を持てる。
やっぱり、この人こそ、キョンシーのご主人様に相応しい、と彼女は確信した。
「gu、gigigigigigigigi……! マール、マール! マールマールーマール!」
一方、ナイトメアは大きく力を削がれ弱体化していた。
ただ怨嗟の声のようにマールの名前を叫ぶ。
キョンシーはマールから離れると、拳を構えた。
このままトドメを刺す。
しかし、そんなキョンシーの手をあの太陽のように温かい手が掴んだ。
驚いて振り向くと、マールはナイトメアをじっと見ながら、首を横に振った。
「えと、カスミさん、少しだけ待ってください」
「ご主人、様?」
マールが手を離すと、キョンシーはぽっかりと胸に穴が空いたような寂しさを感じた。
それだけキョンシーの想いが強いのだろう。
そんなマールは、ナイトメアの前に歩むと、目線を合わせるように屈み込んだ。
ナイトメアは鬱屈とした視線でマールを見上げる。
「ボク、そんなに駄目ですか?」
「ア。、u?」
「ボクは確かに弱くて情けないです……それでもボクは戦えます、ボクは冒険者です……そんなボクは憐れですか?」
「なにを、言って……?」
「貴方がクロじゃないのは判っています。ボクを殺そうとしていることも」
「なら、何故そんな無意味な……」
「無意味じゃありません、貴方にも貴方の生きる意味があるんでしょう? ボクだって同じです」
説得、だろうか?
キョンシーには計り知れない、ただマールは笑顔で胸に手を合わせ、まるで優しく諭すように思えた。
魔物相手になんの意味があるのか、むしろ危険すぎる行為だ。
だけど……キョンシーはその場から動けなかった。
マールを信用している? いいえ、マールはもう勝っている。
「もうよしましょう、命の取り合いは最終手段であるべきでしょう?」
「私を、どうして……?」
「どうしてもなにも……ボクはこういう人物なんで」
そう言うと彼は笑った。
ナイトメアは弱々しく触手をマールに伸ばす。
だが、マールに触れた瞬間、粉々になって消滅してしまう。
「あ、あ……光、こんなに暖かい光、はじ、めて」
「貴方にもどうか、豊穣神様の加護を」
世界が発光する。
白く染まった世界は、一切の澱みもなく、清らかで清浄であった。
ここはマールの夢の中、マールの思い描くことが真実。
ナイトメアは光となって消滅した――――。




